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近世に関するnagaichiのブックマーク (1,050)

  • 14世紀の危機を語る時にモンゴル史家が語ること 諫早「『14世紀の危機』の語り方」 - オシテオサレテ

    思想 2024年4月号 岩波書店 Amazon 諫早庸一「『14世紀の危機』の語り方:ヨーロッパ到来以前の黒死病」『思想』2024年4月、no. 1200、9–32ページ。 『思想』の特集「危機の世紀」から、14世紀の危機について論じた論考を読む。 非常に多くの情報を提供する論考である。しかし、その骨子は次のように要約できる。「13世紀世界システム」の崩壊は、黒死病によってもたらされたとは考えられない。なぜなら、システムは黒死病が現れたときにはすでに崩壊していたから。システムの崩壊の主要因はむしろモンゴル帝国の解体である。まず気候変動により、帝国の拡大は13世紀末に止まる。その後、帝国を構成する各ウルスの王位継承制度の不全のためウルスは解体し、変動後の気候に適した小政体が数多く成立していった。 ここから私としては、次のような点に論考のポイントがあると判断した。論考の冒頭では14世紀の危機の

    14世紀の危機を語る時にモンゴル史家が語ること 諫早「『14世紀の危機』の語り方」 - オシテオサレテ
  • 『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』まえがきに代えて|Pençdiraht

    2024年3月18日、ロシアによるクリミア半島の「併合」から10年が過ぎました。この10年間にクリミア半島とその周辺で起こってきたことを考えると暗澹たる気持ちしか浮かびません。国際社会の平和と安定、地域住民の幸福に少しでもつながる未来があることを祈るのみです。 10年前、クリミア情勢をめぐってクリミア・ハン国とクリミア・タタールという存在が日語の言説空間で認知される中で、かつて無謀にもクリミア・ハン国史を専攻しようとした大学院生であった私は、日語でクリミア・ハン国について書かれた資料がほとんどなく、イメージのみで語られていることに失望を感じていました。幸いにもTwitterなどでクリミア・ハン国史の話題を振ると、その実像についてそこそこ関心を持ってくれる人がいるようでした。そこで突如思い立ち、1か月ほどの短期間で一気に書き上げた原稿が『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』と題した小史で

    『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』まえがきに代えて|Pençdiraht
  • 現代の風俗とは違う?江戸時代の日本と中国の明にあった「遊郭」とは? - ナゾロジー

    ボトムアップで遊郭が作られた日、トップダウンで遊郭が作られた中国吉原の遊女、このように遊女たちは格子窓の部屋に並んで三味線を弾いていた / credit:wikipediaそれでは遊郭は日中国でどのように発展していったのでしょうか? 江戸時代を代表する遊郭の吉原が誕生したのは、1605年です。 それ以前の江戸の町にも遊女屋はあり、市中に遊女屋は点在していました。 というのも江戸は1590年に家康が関東支配の拠地に定めて以降、家康の指示によって急速に開発が進められていった都市です。 江戸時代初期の時点ではまだ開発が終わっておらず、それゆえ関東中から開発に従事する人を集めていました。 また関ヶ原の戦いによって没落した大名も多く、そうした大名に仕えていた武士たちの多くは仕事を失い浪人になりました。 こういった浪人たちの中には仕事を求めて江戸に向かうものも少なくなく、そのようなこともあって

    現代の風俗とは違う?江戸時代の日本と中国の明にあった「遊郭」とは? - ナゾロジー
    nagaichi
    nagaichi 2024/03/10
    兪本『紀事録箋証』巻上「太祖立富樂院於乾道橋」、林堯兪『礼部志稿』巻76「富樂院乃淫賤之處」か。
  • 伊藤若冲の新発見。絵巻《果蔬図巻》を福田美術館が公開

    伊藤若冲の新発見。絵巻《果蔬図巻》を福田美術館が公開京都・嵐山にある福田美術館が、新たに発見された伊藤若冲による絵巻を初公開した。 文・撮影=橋爪勇介(ウェブ版「美術手帖」編集長) 新たに発見・収蔵された伊藤若冲《果蔬図巻》(1791) 今年開館5年を迎える京都・嵐山の福田美術館が、伊藤若冲作(1716~1800)の新発見の絵巻を披露した。 伊藤若冲は言わずと知れた江戸時代の絵師。京都の青物問屋「枡屋」の長男として生まれ、裕福な環境のもと、独学で作品を制作した。その作風は細部まで描き込まれたものが多く、極彩色で彩られた絹着色の作品や、即興的な筆遣いとユーモラスな表現が特徴の水彩画は、日美術史上でも異彩を放つ。 今回披露された作品は1791年、若冲が76歳のときに描いた全長277センチ(跋文を加えると332センチ)あまりの絵巻で、《果蔬図巻(かそずかん)》と名付けられた。若冲としては珍し

    伊藤若冲の新発見。絵巻《果蔬図巻》を福田美術館が公開
  • 尾張出身の戦国武将が全国に散らばり、一時は尾張の方言が標準語のようになったそうだが、そのようなことが... | レファレンス協同データベース

    ご質問の内容と若干異なりますが、織田信長・豊臣秀吉と尾張出身者が二代続いたことにより、京都の言葉が尾張の方言と混ざって変化したとする史料(『名古屋方言の研究』p.9-10に引用あり)があります。 また、『東京語の歴史』p.105によると、江戸の町ができた当初、その住民の中核は伊勢・上方などの関西方面からの移住者であったため、“江戸初期には「上方語」が通語として用いられ、日常生活のうえで重要なコミュニケーションの具であった”とあることから、江戸初期には尾張の方言と混ざった上方語が共通語として使用されていたと考えてよいのではないでしょうか。 尾張方言ということから郷土資料コーナーで調べ、『名古屋方言の研究』が見つかりました。同書には「徒然草慰草」と「東雅」が引用されていました。 引用されていた史料を確認すると、「徒然草慰草」の日古典籍総合目録データベースでの統一書名は「なくさみ草」(松永貞徳

    尾張出身の戦国武将が全国に散らばり、一時は尾張の方言が標準語のようになったそうだが、そのようなことが... | レファレンス協同データベース
    nagaichi
    nagaichi 2024/02/26
    織田政権や豊臣政権には美濃出身者や近江出身者も結構いたはずだけどな。
  • 中国側から見た倭寇

    この前デザインをリニューアルしたヤン坊とマー坊は「ヤクザのヤン坊、マッポのマー坊」で、二人はおいつ終われる関係にあると脳内設定しています。 ・倭寇(Wikipedia) それはさておき今日のお題ですが、この前ふと気になったことから中国語媒体で倭寇について調べてみました。なんで調べようと思ったのかというと、日側の倭寇に対する見方や解釈で中国側と相違がないかという風に思ったのと、自分の経験からもしかしたら、中国側の方がこの手の解説が充実しているからじゃないかと思ったかからです。結果から言えば、自分の想定通りでした。 まず日側の見解、特に前期倭寇は日人が主体であったのに対し後期倭寇は中国人(当時は明)が主体であったとする学説に関しては、中国側もほぼ全く同じ見解を持っているようです。後期倭寇に関して中国でも具体的な中国人指導者名を挙げ、日人もいただろうが末端の構成員に過ぎないという風に解説

  • 医学の発展に貢献したにもかかわらず、歴史から抹消されてしまった人々を掘り起こす──『帝国の疫病 - 植民地主義、奴隷制度、戦争は医学をどう変えたか』 - 基本読書

    帝国の疫病――植民地主義、奴隷制度、戦争は医学をどう変えたか みすず書房Amazon「疫病(えきびょう)」とは、集団発生する伝染病などのことを指す。少し前ではコレラや赤痢。最近ではコロナウイルスなどのような病のことである。同様の病は昔からあったが大きな問題になるようになったのは多文化がより頻繁に交錯するようになったこの数百年のことで、疫病の広がりと共に疫学もまた発展を遂げてきた。 書は主に疫病に対抗する疫学がどう発展してきたのかの歴史をたどるわけだが、そこからさらに踏み込んで「疫学の発展に大きな貢献を果たしてきたにもかかわらず、これまで歴史からその存在を抹消されてきた人たち」に光を当てた一冊である。どういうことかといえば、1700年〜800年代はまだまだ観測技術や遺伝子についての理解も進んでいなかったから、医学の理論や検証のために用いられてきた主な手段は現場を観察し法則を見つけたり検証を

    医学の発展に貢献したにもかかわらず、歴史から抹消されてしまった人々を掘り起こす──『帝国の疫病 - 植民地主義、奴隷制度、戦争は医学をどう変えたか』 - 基本読書
  • 江戸時代には「全身白ギツネ男」が実在した シーボルトお抱え絵師が残した200年前の日本は「別世界」 ドイツの博物館収蔵の画像で判明 | 47NEWS

    江戸時代には「全身白ギツネ男」が実在した シーボルトお抱え絵師が残した200年前の日は「別世界」 ドイツの博物館収蔵の画像で判明 写真技術がもたらされる前の江戸時代。日各地の庶民の実際の姿はどんなものだったのか?ドイツ・ミュンヘンの五大陸博物館が、収蔵する約2百年前の日人画家の絵の画像使用を許可した。長崎・出島のオランダ商館に駐在したドイツ人医師シーボルトが、お抱えの町絵師・川原慶賀に発注したものだ。 葛飾北斎ら同時代の有名な浮世絵師たちの画風とは全く異なり、慶賀の人物画は西洋画の影響を受けており写実的だ。 長崎純心大で長らくシーボルトや日欧文化交流を研究している宮坂正英客員教授(69)は「今とは別世界だった江戸時代を正確に写した貴重な資料」と評価している。(共同通信=下江祐成)

    江戸時代には「全身白ギツネ男」が実在した シーボルトお抱え絵師が残した200年前の日本は「別世界」 ドイツの博物館収蔵の画像で判明 | 47NEWS
  • 400年ほど前の日本で作られた「書見台」ポルトガルで見つかる | NHK

    400年ほどの前の日で作られた南蛮漆器の1つで、聖書を読むための「書見台」がこのほど、ポルトガルで見つかりました。十字架などの装飾を剥ぎ取ったと見られる跡があり、キリスト教の弾圧を恐れた当時の人たちの心情がうかがえる貴重な資料として注目されています。 ポルトガルで見つかったこの書見台は全体が黒の漆で塗られていて、中心には松の木が描かれ、周囲は貝殻のらでん細工がちりばめられています。 調査した東京文化財研究所の小林公治特任研究員によりますと、この書見台は聖書を読むときに使うもので、そのデザインから江戸時代初期にポルトガル人やスペイン人が日の職人に作らせ、海を渡った南蛮漆器の1つと見られています。 ただ、これには、これまで確認された書見台のほぼすべてにある十字架やイエス・キリストを示す「IHS」の文字など、キリスト教を示すデザインがないということです。 このため、小林さんらがX線で撮影した

    400年ほど前の日本で作られた「書見台」ポルトガルで見つかる | NHK
  • 「大吉原展」が炎上。遊廓はこれまでどのように「展示」されてきたのか? 博物館や遺構の事例に見る享楽的言説と、抜け落ちる遊女の「痛み」(文:渡辺豪)

    相次ぐ「大吉原展」への批判ここ数日、「大吉原展 江戸アメイヂング」(以下、展)がSNSを賑わせている。展は、かつて江戸/東京にあった公娼街・吉原遊廓を取り上げたもので、今年3月から東京・上野の東京藝術大学大学美術館で開催される美術展である。展公式サイトのステートメントには「『江戸吉原』の約250年にわたる文化・芸術を美術を通して検証(改行)仕掛けられた虚構の世界を約250件の作品で紹介する」とある。 マンガ家・瀧波ユカリ氏のX(旧Twitter)では、前述のステートメントに続く序文を指して、「ここで女性たちが何をさせられていたかがこれでもかとぼやかされた序文と概要。遊園地みたい。」と非難するコメントをポスト。ここを起点にSNS上での意見対立を生んでいたようだ。 筆者の私は遊廓を専門に扱う書店・カストリ書房を経営しているが、同店は吉原遊廓が戦後に何度か看板を掛け替えて現在は吉原ソープ街

    「大吉原展」が炎上。遊廓はこれまでどのように「展示」されてきたのか? 博物館や遺構の事例に見る享楽的言説と、抜け落ちる遊女の「痛み」(文:渡辺豪)
  • 夢は世界史の教科書に馮夢龍の名が載ることー 東大随一の蔵書家・大木康教授インタビュー - 東大新聞オンライン

    棚から東大教員の長年にわたる知の蓄積の一端が垣間見えるのではないかー そんな思いから生まれた新連載「東大教員の棚」。初回は東大の研究者の間でも大変な蔵書家として知られ、「東大教授の棚」という企画ならまずはこの人にと推薦された東大東洋文化研究所(以下、東文研)の大木康教授。しかし、大木教授の専門は「馮夢龍(ふうぼうりょう)」。聞いたことがあるという人は少ないだろう。この文学者を研究するのになぜそれほどのが必要だったのか。来年の定年退職を前に、を切り口として、研究人生について語ってもらった。 (取材・宮川理芳 撮影・臧喜来) 『三国志』も『雨月物語』も 馮夢龍は明代の出版文化のキーパーソン ━━先生の専門は明代の文学者・馮夢龍ですが、この作家は日ではそれほど知られていないようです。どんな人ですか 知名度が低いのは私の力不足かもしれません。でも実はかなり広く影響力を持った人物でした。

    夢は世界史の教科書に馮夢龍の名が載ることー 東大随一の蔵書家・大木康教授インタビュー - 東大新聞オンライン
  • 吉原遊廓は悲惨だったが、江戸にはそれよりもっと残酷で無常な夜鷹という存在がいた

    ぼうくん | VoQn 🎨 @VoQn 遊郭に目をやるばかりに当時もっと残酷で無常な夜鷹の実態に意識が行かないのって、現代に通じる寓話性がある。 (繁華街のいかがわしい店舗を潰してったら余計に劣悪な立ちんぼ増えたみたいな) 2024-02-06 20:33:55 ぼうくん | VoQn 🎨 @VoQn 公娼制度の是非はあれども、飯盛女(って体裁にされた実務不透明な街娼)の制度の歪みと、被雇用者ですらない夜鷹などの存在を作ってしまったあたりの部分がホントの反省材料なんと思います。 2024-02-06 20:58:34

    吉原遊廓は悲惨だったが、江戸にはそれよりもっと残酷で無常な夜鷹という存在がいた
  • 吉原遊郭が当時どんな場所だったかは当時の地図を見ると分かりやすい「大半の遊女達の境遇は悲惨だった」

    リンク daiyoshiwara2024.jp 大吉原展 大吉原展 江戸アメイヂング 2024年3月26日(火)~5月19日(日)、東京藝術大学大学美術館にて開催!桜満開の上野に江戸吉原の美が集結! 5 users 782 リンク Wikipedia 吉原遊廓 吉原遊廓(よしわらゆうかく)は、江戸幕府によって公認された、江戸の遊廓である。当初は日橋近く(現在の日人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所徳川家康終焉の地である駿府城下町(現在の静岡市葵区)にあった二丁町遊廓から一部が移されたのが始まりである。 項では、江戸が東京となってからの歴史についても解説する。 徳川家康が天正18年8月1日(1590年8月30日)に江戸に入府し、その後、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられて江戸幕府 15 users 118

    吉原遊郭が当時どんな場所だったかは当時の地図を見ると分かりやすい「大半の遊女達の境遇は悲惨だった」
  • オランダ共和国氏による、18世紀に懐中時計がバカ売れした背景

    オランダ共和国 @eiga4188 高級品は金持ちが買う物だと思っていませんか?それ完全に間違ってますよ!18世紀で懐中時計はいろんな人に売れたのだ。これは今でも通じる話な気がする。 pic.twitter.com/GlMHuyFZ4r 2023-04-02 21:35:30 オランダ共和国 @eiga4188 ・懐中地球儀が発売されたころ、ヨーロッパでの時計の生産量は、瞬く間に、階級を問わず誰もが欲しがる物となっていた。懐中地球儀が発売された頃、ヨーロッパでの時計の生産量はまだ年間数万個にとどまっていたが、18世紀最後の四半世紀にはおよそ40万個にまで増加した。「続 2023-04-02 21:36:26

    オランダ共和国氏による、18世紀に懐中時計がバカ売れした背景
    nagaichi
    nagaichi 2024/02/05
    宝飾品なんかと一緒で、いざというときに簡単に持ち出せる資産だったんでしょ。
  • 江戸時代に描かれた世界地図が話題に→「結構合ってる」「イタリアがムチムチ」「国境線は雑」

    ポラン@ゆっくり実況者🐕25万人 @polan9009 “おらんた”から“いんげらんど(?)”に伸びるおびただしい数の島。私の夢は、この島を見に行くことです。 pic.twitter.com/zorLKvYhGV 2024-01-25 23:51:01

    江戸時代に描かれた世界地図が話題に→「結構合ってる」「イタリアがムチムチ」「国境線は雑」
    nagaichi
    nagaichi 2024/01/28
    フランスが法蘭西(ふらんす)でも佛郎機(ふらんき)でもなくて、「ふらんさ」。「坤輿万国全図」に比べれば、だいぶ新しくて雑な地図だが、楽しいね。
  • 「赤気」と呼ばれた江戸時代のオーロラ出現に当時の人々はどんな反応をしていたのか? - ナゾロジー

    オーロラはアラスカやフィンランドなどで見ることができる現象であり、北海道でもまれに見ることができます。 しかしごくごくまれに州でも観測することができ、実際に江戸時代には日各地でオーロラが現れたさえありました。 果たして江戸時代の人々はオーロラに対してどのような反応をしたのでしょうか? 記事では1770年に日各地で観測されたオーロラに、貴族や民衆がどのような反応を示したのかについて取り上げていきます。 なおこの研究は國學院雑誌第123巻第2号に詳細が書かれています。

    「赤気」と呼ばれた江戸時代のオーロラ出現に当時の人々はどんな反応をしていたのか? - ナゾロジー
    nagaichi
    nagaichi 2024/01/18
    『清史稿』災異志二「乾隆三十五年七月二十八日,肥城有赤光自北方起,夜半漸退;長山西北見赤氣彌天,中有白氣如縷間之,四更後始散」と同じやつだな。
  • 『なぜ輪島に人がそんなに住んでるの?』日本海側の海路の要衝と土地の歴史「陸路の方がイレギュラー」

    スーツ旅行 (現在いる場所は秘密にしているので、目撃した方はご協力ください。) @usiuna7991 輪島などになぜたくさん人が住んでいるのかというと、北陸線が開業する前の陸路が役に立たず廻船で輸送するしかなかったので、新潟〜小木(たらい船で有名)〜輪島が最短ルートとなっていたためのようです。特に小木と輪島は前後がしばらく空くので、どの船も殆ど通過せず寄港したのではないかと思います。 今は最果ての地となっていますが、明治くらいまでは街道沿いの要衝だったというのが興味深いですね。 2024-01-10 06:50:28 炎の研修医 @DrHonoh 正論 こんな最果ての僻地の限界集落を「復興」なんて非現実的なんだよな 医療現場で散々叩かれてる、認知症の超高齢者への高額な延命と何が違うのか もう日にはそんなリターンの乏しい事業に膨大なコストかける余裕ないんだから、 公金投入は地方都市までに

    『なぜ輪島に人がそんなに住んでるの?』日本海側の海路の要衝と土地の歴史「陸路の方がイレギュラー」
  • ドラキュラのモデル「串刺し公」、真の姿に光

    【1月2日 AFP】オーストリア東部ブルゲンラント(Burgenland)州の丘に建つフォルヒテンシュタイン城(Forchtenstein Castle)。たいまつの明かりが揺れる暗い廊下を、黒いマントをまとった少年が駆け抜けていく。「彼はルーマニアの王子で、吸血鬼ではありません」とニクラス・シュエッツ君(10)は声を張り上げた。 この城は15世紀ワラキア公国の君主で、串刺し公(Vlad the Impaler)とも呼ばれるヴラド3世(Voivode Vlad III)の子孫が所有していた。 当時、ハンガリー王国の中でルーマニア語圏の属国だったワラキアを統治していたヴラド3世は、アイルランド人作家ブラム・ストーカー(Bram Stoker)の小説「吸血鬼ドラキュラ(Dracula)」のモデルとなった。 この城には数少ないヴラド3世の肖像画も残されている。城の見学ツアーに参加した人々は創作上

    ドラキュラのモデル「串刺し公」、真の姿に光
  • 「江戸時代は『性におおらか』な時代だった」とかいうデマ、および映画『春画先生』に対する1万字超の怒り|衆道士ペドフェチ

    突然ですが! これから「江戸時代までの日は『性におおらかな社会』だったが、西洋的/キリスト教的価値観の輸入がそれを潰した」とかいうなぜか世間にはびこる謎幻想、およびその手の害毒史観のもとで作られた『春画先生』という映画の問題点についてキッチリ語らせていただきます。 ……つーかとっくに上映終了している映画について今さらウダウダ指摘するのもなんだと思ったけど、やっぱ今年のムカつきは今年のうちに全部吐き出しておかねば気が済まぬ。 かなり長くなるだろうけど、しばしお付き合いいただければ幸い。 そもそも。 「おおらか論」に与する人たちってのは、当時に春画・春の類が何の制約もなく出版され、大衆がそれを白昼堂々と買うことができたと思ってるんだろうか? 例えば明和年間に京都の書店組合が発行した『禁書目録』には好色が多く掲載されているし、為永春水ほどの才気ある戯作者も、たかが『春色梅児誉美』程度のハー

    「江戸時代は『性におおらか』な時代だった」とかいうデマ、および映画『春画先生』に対する1万字超の怒り|衆道士ペドフェチ
  • 「紅茶の流行」をきっかけに18世紀以降の英国人の死亡率が急激に低下!でも紅茶は関係ない? - ナゾロジー

    かつてのイギリスには、紅茶の普及が図らずも人々の命を救った歴史があったようです。 米コロラド大学ボルダー校(CU-Boulder)の研究者は最近、18世紀後半にイギリスで紅茶が爆発的に広まったことが、人々の死亡率を低下させていた証拠を発見したと発表しました。 しかもそれは紅茶の栄養効果のお陰ではなく、紅茶を飲むことで広がった”ある習慣”が最大の要因だったという。 一体紅茶を飲む習慣の何が当時の人々の死亡率を下げたのでしょうか? 研究の詳細は、2023年11月17日付で学術誌『Review of Statistics and Economics』に掲載されました。

    「紅茶の流行」をきっかけに18世紀以降の英国人の死亡率が急激に低下!でも紅茶は関係ない? - ナゾロジー