タグ

芸術と批評に関するoriakのブックマーク (3)

  • 見果てぬ近代 2023年のマティス展(於東京都美術館)

    東京都美術館のマティス展にいってきた。回顧展だが、とくに1910年前後のマティスの作品群が、個人的にはモダンアートの歴史全体においてピークの一つだと考えているので、それらを見ることができたという意味においては展示に満足した。ただ、帰ってカタログの論考を読んでみて、思うところがあったので記事にしておく。 今回のカタログでは、近藤学氏、藪前知子氏、アラステア・ライト氏、岡崎乾二郎氏の論考が掲載されていた。アラステア・ライト氏以外の三人については日の美術業界では著名なので知っていたが、ライト氏の名前はまったく聞いたことがなかった。どうもオックスフォード大学で美術史について教えている方らしい。 ライト氏の論考は「プリミティヴィズム––アフリカ芸術との出会い」という題で、マティスとアフリカ彫刻の影響について論じている。こういった文物がヨーロッパに入りこんでくるのは言うまでもなく帝国主義による植民地

    見果てぬ近代 2023年のマティス展(於東京都美術館)
  • ビデオゲームは芸術か:『ビデオゲームの美学』3章をわかりやすく書く - 9bit

    帯にでかでかとあるように、拙著『ビデオゲームの美学』の主張のひとつ(中でもあまり重要ではないもののひとつ)は「ビデオゲームは芸術だ!」なんですが、諸概念の関係が複雑で議論もねじれており多くの人にとってわかりにくいと思うので、できるだけ簡単な言い方でまとめておきます(正確さよりもわかりやすさを優先します)。該当箇所は第3章の2~3節。 に書いてないことを自由に読み込んだうえでなされる疑問・批判・反論(たとえば「じゃあビデオゲームは娯楽ではないのか?」みたいなやつ)に対してはとくにフォローしません。まず文章を読んでください。 芸術形式と芸術作品の区別 「ビデオゲームは芸術か?」という問いはよく問われる。この問いはふつう、「特定のビデオゲーム作品が芸術かどうか」と問うているのではなく、「ビデオゲームという表現媒体が芸術かどうか」を問うている。なので、この場合に使われている「芸術」という語は、「

    ビデオゲームは芸術か:『ビデオゲームの美学』3章をわかりやすく書く - 9bit
    oriak
    oriak 2020/06/02
    批評の有無が芸術的価値観の付与たりえるということに異論はないが、それだけで芸術かどうかを判断して良いのかという疑問は残る。この記事がわかりやすく書くことに注力していることも理解しているが。
  • 「あいトリ」騒動は「芸術は自由に見ていい」教育の末路かもしれない(森 功次) @gendai_biz

    あいちトリエンナーレ2019が閉幕した。これほど騒ぎになった芸術祭は日ではかつてなかっただろう。話題の中心となったのは最後まで「表現の不自由展・その後」だった。もっと光を当てられるべき良い作品が多数あった中、これは残念なことだ。 当初批判の的となったのは、キム・ソギョン/キム・ウンソンの《平和の少女像》と大浦信行《遠近を抱えて Part II》の2作品だったが、「表現の不自由展・その後」の展示再開後には、「Chim↑Pom(チンポム)」の映像作品、《気合い100連発》も批判され出した。 稿では、今回の騒動があらわにした分断と、その背後にある芸術観について考察する。まずは《気合い100連発》に向けられた批判を見ることから、話を始めよう。 Chim↑Pom《気合い100連発》への誤解 《気合い100連発》は、Chim↑Pomのメンバーが福島県相馬市の若者たちと円陣を組み、順番に気合いの掛け

    「あいトリ」騒動は「芸術は自由に見ていい」教育の末路かもしれない(森 功次) @gendai_biz
    oriak
    oriak 2019/10/17
    最後の結論はともかく、分析は参考になった。現代の個人の発信の裁量の大きさにおいて、表現方法も従来のままでは無防備であり危うい。
  • 1