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寺院と中世に関するusataroのブックマーク (22)

  • 福井で巨大な山林寺院跡見つかる 朝宮町の丘陵、奈良~平安期 | 社会 | 福井のニュース | 福井新聞ONLINE

    福井市朝宮町の丘陵に、古代の北陸では最大級の山林寺院跡があることが2日までに、日考古学協会の埋蔵文化財保護対策委員古川登さん(58)=同市=の調査で明らかになった。遺物などから奈良時代末~平安時代前半の寺院とみられ、東側の尾根上に大小20面以上の平たん面が見つかった。白山信仰との関係もうかがえ、注目を集めそうだ。 この丘陵(標高約130メートル)は朝宮橋南側の日野川左に面し、地元集落にはかつて神社があったとの伝承が残る。古川さんが旧清水町教委職員だった2004年、近くにある中世の大型寺院・方山真光寺(かたやましんこうじ)跡に関連した調査で、丘陵東側に複数の平地があるのを確認した。字名は「大社(おおやしろ)」で、「朝宮大社遺跡」と呼ばれている。 今年4月、越前町織田文化歴史館の堀大介学芸員とともに再調査したところ、標高72メートル付近で林道の造成跡から複数の須恵器片が見つかった。8世紀末~

    福井で巨大な山林寺院跡見つかる 朝宮町の丘陵、奈良~平安期 | 社会 | 福井のニュース | 福井新聞ONLINE
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    usataro 2017/11/13
    朝宮橋南側の日野川左に面し、地元集落にはかつて神社があったとの伝承/標高72メートル付近で林道の造成跡から複数の須恵器片/8世紀末~10世紀前半のもので、寺院の存在をうかがわせる灯明皿の破片
  • 足利義満、白河院を超える力を誇示か 金閣寺「幻の塔」:朝日新聞デジタル

    室町幕府3代将軍、足利義満が権力の象徴として築いた巨大な七重塔。史料も少なく実態が分からなかった“幻の塔”を飾った相輪の一部とみられる破片が金閣寺(京都市北区)で初めて出土したと、京都市埋蔵文化財研究所が8日発表した。中世史や建築史の研究者らは強い関心を寄せる。 「北山大塔が実在したという物証がついに出土したことは大変にうれしい」と話すのは、「室町幕府論」(講談社刊)などの著書がある早島大祐・京都女子大准教授(日中世史)。南北朝統合を実現させた義満は将軍職を義持に譲ったが、手に入れた強大な権力と財力を示すため、自分が住む北山殿に金閣と大塔を建てたと推測する。 「平安後期に白河天皇が法勝寺… この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読み

    足利義満、白河院を超える力を誇示か 金閣寺「幻の塔」:朝日新聞デジタル
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    usataro 2016/07/08
    興味深いが、どこら辺が大塔の相輪だという根拠になっているんだろうか。この記事だけだとちょっとわかりづらい。
  • 13. 東寺百合文書の全80,000画像を公開!|東寺百合文書WEB

    2014(平成26)年4月23日正午から、東寺百合文WEBの第2次公開を開始しました。 今回、約36,000画像を追加して、東寺百合文書全点の画像をWEBに掲載するとともに、スマートフォン対応画面や、年表・地図などからも資料を楽しむことができるようになりました。 地図から→全国に展開する東寺の荘園やそこを舞台とした資料にたどりつけます。 年表から→年表形式で当時の動きを参照しながら個々の資料にたどりつけます。 テキスト→資料の読みを示したテキストを資料画面から表示。 スマートフォン対応画面→スマートフォン環境に即したトップ画面などを構築。 ガイド表示→「百合百話」「テキスト」が準備されている文書にはボタンで表示。

    13. 東寺百合文書の全80,000画像を公開!|東寺百合文書WEB
    usataro
    usataro 2014/04/23
    東百がついにネット上でみられるようになった!すごい時代だ。#fb
  • 朝日新聞デジタル:国重文の一遍上人像焼失か 松山・道後の宝厳寺全焼 - 社会

    炎を上げて燃える宝厳寺堂=10日午後、松山市道後湯月町、波多野大介撮影宝厳寺堂に所蔵されている国重要文化財の一遍上人立像=松山市教委提供  10日午後2時15分ごろ、松山市道後湯月町の宝厳(ほうごん)寺堂付近から出火、いずれも木造平屋建ての堂約150平方メートルと「庫裏(くり)」約120平方メートルが全焼した。市によると、宝厳寺は時宗を開いた一遍上人の生誕の地とされ、堂には国指定重要文化財「木造一遍上人立像」が所蔵されていたが、見つかっていない。  松山東署と市消防部によると、庫裏は住居として使われ、出火当時は住職(80)とがいたが、堂が燃えているのに気づいて逃げたという。  近くに住む男性(63)は「道後にとって大変な損失だ」と肩を落としていた。現場は国指定重要文化財の道後温泉館から東に約300メートルの住宅街。 最新トップニュース

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    usataro 2013/08/11
    「松山市道後湯月町の宝厳寺本堂付近から出火」「本堂と庫裏が全焼」「一遍上人の生誕の地とされ」「本堂には国指定重要文化財「木造一遍上人立像」が所蔵」「見つかっていない。」何ということだ…
  • 朝日新聞デジタル:東寺百合文書、ユネスコ世界記憶遺産に推薦へ 文科省 - カルチャー

    文部科学省は21日、ユネスコの世界記憶遺産に、1千年以上にわたって東寺(京都市)で伝承されてきた国宝の「東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)」を推薦すると発表した。2015年の登録を目指す。  東寺百合文書は、仏事などの寺の活動の文書や領有した荘園の記録など、奈良時代から江戸時代にかけての約2万5千通で構成。江戸時代に加賀藩主・前田綱紀から100個の箱が寄進され、保存されてきた。 続きを読むこの記事の続きをお読みいただくには、会員登録が必要です。登録申し込みログインする(会員の方) 無料会員登録はこちら朝日新聞デジタルのサービスご紹介はこちら関連記事表情さまざま作兵衛画 福岡、記憶遺産2年で企画展次々(4/12)「知覧からの手紙」333点 鹿児島、記憶遺産申請へ(3/22)ユネスコへ3千点の資料候補 京都・舞鶴引揚記念館(2/19)

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    usataro 2013/05/21
    「文部科学省は21日、ユネスコの世界記憶遺産に」「国宝の「東寺百合文書」を推薦すると発表」「2015年の登録を目指す」
  • 文化財の宝庫、関係者ショック 岡山・金山寺本堂全焼 - 山陽新聞ニュース

    文化財の宝庫だったのに―。24日起きた岡山市北区金山寺、天台宗の金山寺の火災は、国指定重要文化財の堂が全焼、岡山県指定重要文化財・木造阿弥陀(あみだ)如来坐像(ざぞう)も焼失したとみられる。岡山市出身で日臨済宗の宗祖栄西(1141〜1215年)も一時修行したと伝わる古刹(こさつ)の災厄に、関係者には驚きとショックが広がった。 同寺の正式名は、銘金山観音寺遍照院。室町時代末期の成立とされる「金山寺縁起」によると、749年に孝謙天皇の勅令で報恩大師が創建したと伝わる。16世紀、戦国武将松田氏の命を拒絶したため、堂塔すべてを兵火に焼かれた。堂は岡山城主宇喜多直家の援助で1575年に再建。桃山時代初期の貴重な建築として、早く1923年に国指定を受けていた。 午後9時ごろ現場に駆け付けた乗岡実岡山市教委文化財課長は「柱が何か残っているだけで、焼け落ちた屋根や部材が散らばっている無残な状態。国

  • 朝日新聞デジタル:最勝光院の土台と見られる遺構 法住寺殿跡から出土 - 社会

    印刷 石と粘土を交互に積み重ねた地盤改良の跡=京都市東山区地図  源平合戦時に権勢を振るった後白河法皇が院政を敷いた御所、法住寺殿(ほうじゅうじどの)跡(京都市東山区)で、平清盛の義妹で法皇のとなった建春門院(けんしゅんもんいん)(平滋子〈しげこ〉)ゆかりの寺院「最勝光院(さいしょうこういん)」の土台とみられる遺構が見つかった。京都市埋蔵文化財研究所が8日発表した。最勝光院と推測できる建物跡が出土したのは初めて。  法住寺殿は東西600メートル、南北1.1キロの広大な敷地を有し、貴族の日記から、南端に最勝光院があったとされる。今回の調査で、整地した土地の上にこぶし大の石と粘土を交互に積み重ねて地盤を固めた跡が、計4カ所見つかった。  最勝光院は滋子の願いで1173年に建てられ、平等院鳳凰堂(京都府宇治市)のような荘厳な建物が築かれたとみられる。同研究所は「強大な権力を背景にし、清盛が訪れ

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    usataro 2012/03/09
    「法住寺殿跡で」「「最勝光院」の土台とみられる遺構」「京都市埋蔵文化財研究所が8日発表」「整地した土地の上にこぶし大の石と粘土を交互に積み重ねて地盤を固めた跡が、計4カ所」
  • 朝日新聞デジタル:中世の浄化装置? 足利・樺崎寺跡-マイタウン栃木

    usataro
    usataro 2012/03/08
    「園内の園池に水をひくための導水施設が新たに発見された」「南北朝時代にかけて、初期の導水施設を改修する際に浄化システムが採用されたらしい」
  • 北条泰時、極楽往生の願い…阿弥陀像に墨書 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    鎌倉幕府の根法典「御成敗式目」の制定で知られる3代執権・北条泰時(1183~1242年)が創建した、神奈川県鎌倉市の常楽寺の尊、阿弥陀(あみだ)三尊像から、制作時期とみられる「仁治三年(1242年)六月十二日」の墨書が確認された。 泰時の出家の33日後、死の3日前にあたり、専門家は「死期を予感した泰時が、極楽往生を願って急いで造らせたのでは」としている。 三尊像は木造で、中央の阿弥陀如来像は像高70センチ、左右の観音・勢至菩薩像は同85センチ前後。作風に中国・宋の影響があり、鎌倉時代の仏師・定慶(じょうけい)の作とみられるという。 これまで室町時代の作とされていたが、昨秋、山勉・清泉女子大教授(日彫刻史)が調査。阿弥陀像の台座内部に、僧侶の名や日付が書かれているのを確認した。17日、市の文化財に指定された。

    usataro
    usataro 2012/02/19
    「鎌倉市の常楽寺の本尊、阿弥陀三尊像から、制作時期とみられる「仁治三年六月十二日」の墨書が確認」
  • 河北新報 東北のニュース/「円福寺」建立場所 瑞巌寺本堂で確定 宮城・松島

    「円福寺」建立場所 瑞巌寺堂で確定 宮城・松島 出土した四半敷きの床=14日、松島町の瑞巌寺 国宝の瑞巌寺堂で発掘調査をしている宮城県教委と松島町教委は14日、出土した遺構から判断して瑞巌寺と同じ場所に中世寺院の「円福寺」が建っていたことが確定したと発表した。担当者は「国指定史跡級の遺跡」と話している。  円福寺は鎌倉時代中期(13世紀中頃)の創建とされるが、建立場所については諸説あり、専門家の見解も分かれていた。  調査で堂南側から東西18メートル、南北7.3メートルにわたって約45センチ四方の石を敷き詰めた四半敷きの床が出土。東日の中世寺院では鎌倉の建長寺に次ぐ2例目の発見で、僧侶が寝起きする僧堂だったとみられる。  堂中央部では18メートル四方の建物跡が見つかった。教典について講義する法堂(はっとう)と推定され、遺構の周辺からは瓦片も出土した。  県教委の村田晃一技術補助は

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    usataro 2011/12/16
    「円福寺は鎌倉時代中期の創建」「瑞巌寺と同じ場所に中世寺院の「円福寺」が建っていた」「本堂南側から」「四半敷きの床が出土。東日本の中世寺院では鎌倉の建長寺に次ぐ2例目」
  • 北陸初、清水町に中世の木造五重塔跡 【2001年10月26日】 10年前のきょう 福井のニュース :福井新聞

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    usataro 2011/11/19
    「清水町」「片山」「真言宗寺院・片山真光寺跡から五重塔跡」「建立時期は鎌倉時代」「南北朝から室町時代に焼失」「同寺は朝倉家家臣、富田長繁の重臣で増井甚内助が守っていた」
  • 国東市岩戸寺 13世紀の鉄製のみ発見【大分のニュース】- 大分合同新聞

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    usataro 2011/11/19
    「岩戸寺の宝塔(国東塔=国指定重要文化財)の内部から、中世の鉄製のみ3本」「宝塔の建立時期と同じ13世紀」「宝塔は鎌倉時代後期の1283年に建立」
  • 国史跡新たに2件 : 大阪 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

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    usataro 2011/11/19
    「国史跡に」「烏帽子形城跡」(河内長野市喜多町)」「鳥坂寺跡(柏原市高井田)」「烏帽子形城は」「畠山氏が治め」「応仁の乱前後から激しい戦い」「1584年には豊臣秀吉も」
  • 仏教・神道美術300件が集合、滋賀県で最大規模の展覧会実施中

    寺社仏閣が多い場所というとまず京都、そして次に奈良を思い浮かべる人が多いはず。実際、京都ではちょっと歩くとお寺や神社を見つけることができ、一般非公開のところも合わせると数え上げることが困難なほどの数になります。 しかし、宗教美術の観点では近江国、つまり滋賀県もなかなかのもの。 現在、この滋賀県にある仏教美術と神道美術のうち300件以上を集めて展示するという過去にないレベルのイベント「神仏います近江展」が開催されています。 神仏います近江展 http://www.biwako-visitors.jp/shinbutsu/ この展覧会は信楽町のMIHO MUSEUM、大津市瀬田の滋賀県立近代美術館、大津市御陵の大津市歴史博物館という3ヶ所の博物館が連携して行うもの。 MIHO MUSEUMのテーマは「天台仏教への道」。近江に伝わる仏像、仏画、神像などを中心とした展示で、「大乗仏教とともに拡大深

    仏教・神道美術300件が集合、滋賀県で最大規模の展覧会実施中
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    usataro 2011/10/30
    大津では神像がずらりと並んで圧巻。塩津港の祭祀遺跡関連の展示もあって、非常に充実してた。
  • asahi.com(朝日新聞社):金剛峯寺の仏像は「快慶作」 高野山霊宝館が発表 - 文化

    印刷 執金剛神立像=高野山霊宝館提供右上から左下に向けて「阿弥陀佛」の文字が見える=高野山霊宝館提供  和歌山県・高野山にある金剛峯寺が所蔵する仏像「執金剛神立像(しゅこんごうしんりゅうぞう)」(高さ149センチ)の内部に、鎌倉時代を代表する仏師、快慶(生没年不詳)の作であることを示す墨書銘が残っていることが分かった。山内の文化財を調査・展示している高野山霊宝館が21日発表した。  館内に展示していた木造の像が9月、台座とつながっている左足首の部分で折れ、倒れて破損したのが調査のきっかけ。数十年前に補修で使った接着剤が劣化したのが原因とみられる。  内部の空洞にファイバースコープを入れたところ、首のあたりに「アン」と読む梵字(ぼんじ)1文字と、漢字の「阿弥陀佛」4文字が続けて墨で書かれているのが見つかった。快慶は初期の作品に同じ墨書銘を入れており、筆跡も似ているため、快慶作と判断した。  

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    usataro 2011/10/22
    「金剛峯寺が所蔵する仏像「執金剛神立像」の内部に」「快慶の作」「を示す墨書銘」「高野山霊宝館が21日発表」「首のあたりに「アン」と読む梵字」と「「阿弥陀佛」」
  • asahi.com(朝日新聞社):大阪の「空白の中世」埋めるかも 法安寺?の礎石発掘 - 文化

    印刷 「法安寺」跡とみられる土壇の上の白い礎石(杭3は戦後の建物跡)=大阪文化財研究所提供    浄土真宗中興の祖・蓮如(1415〜99)が建てた石山願寺(大坂願寺)推定地(大阪市中央区)の南東で、室町時代の礎石建物跡が見つかった。願寺の進出前からあった法安寺(ほうあんじ)の一部とみられる。同寺の可能性がある遺構が確認されたのは初めて。調査した大阪文化財研究所は「大阪の“空白の中世”を埋める貴重な資料」としている。  遺構は、現在の大阪城天守閣付近にある石山願寺推定地の約600メートル南東で見つかった。周囲に溝を巡らせた東西7メートル、南北4メートル以上の土壇(高さ約50センチ)があり、均等に礎石が並んでいた。1辺5.5メートルの正方形の仏堂のような建物とみられる。出土した瓦や土器の種類から、室町時代の建立の可能性が高い。  土壇の下からは焼土や炭を含む平安時代末〜南北朝時代の大

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    usataro 2011/09/11
    「石山本願寺推定地の南東で、室町時代の礎石建物跡「」本願寺の進出前からあった法安寺の一部とみられる」「1辺5.5メートルの正方形の仏堂のような建物」
  • 幻の春日大社「東塔」 敷地北東隅から雨落溝の遺構確認 奈文研と奈良国立博物館 - MSN産経ニュース

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    usataro 2011/02/11
    「平安から室町時代にかけて東西両塔が存在」「両塔は興福寺五重塔と同規模」「2本の雨落溝の遺構が出土」「平安時代の保延6年に鳥羽上皇の発願で建立」「再建されたが室町時代の応永18年の落雷で」「焼失」
  • asahi.com(朝日新聞社):足利義満創建の「鹿苑院」跡か 京都で遺構発見 - 文化

    室町幕府3代将軍・足利義満(1358〜1408)が創建した「鹿苑院(ろくおんいん)」の遺構が、同志社大の今出川キャンパス(京都市上京区)で見つかった。建物は江戸時代の古地図に記されていたが、研究者は「存在が初めて裏付けられた」と説明する。同大が24日、発表した。  同大によると、鹿苑院は大学に隣接する相国寺(しょうこくじ)の塔頭(たっちゅう)として、義満が1383(永徳3)年に創建した。義満の禅の修行場に使われ、当時の有力な禅寺「京都五山」(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)を統括する役割も担ったとされる。  今回、建物の柱を支える「根固石(ねがためいし)」を6カ所で確認。それぞれ拳大の石が直径約1メートルの円状に敷き詰められており、鹿苑院の仏堂跡とみられる。周辺からは、器の底に「鹿」と書かれた瀬戸焼も見つかった。その形から14世紀末ごろの製作とみられ、鹿苑院の創建時期とも一致。鹿苑

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    usataro 2010/11/25
    「足利義満が創建した「鹿苑院」の遺構が、同志社大の今出川キャンパス(京都市上京区)で見つかった。」「建物の柱を支える「根固石」を6カ所で確認。」「鹿苑院の仏堂跡」「器の底に「鹿」と書かれた瀬戸焼」
  • 室町時代の石垣見つかる 近世城郭技術のルーツ 滋賀・米原 - MSN産経ニュース

    滋賀県米原市清滝の山林から室町時代前半の石垣や建物跡が見つかり、室町時代の守護大名、京極氏の第7代当主、高詮(たかのり)(1352〜1401年)の菩提寺(ぼだいじ)、「能仁寺」跡とみられると県文化財保護協会が19日、発表した。石垣は高さ1・5メートル、長さ約14メートルにわたり、専門家は「近世の城郭技術のルーツとなった最古級の寺院石垣ではないか」としている。 堂建物の基礎にあたる「基壇(きだん)」と、長さ約17メートルの参道跡が出土。参道跡沿いの片側に、大量の石を垂直に積んだ石垣がみつかった。下部ほど石が大きい壊れにくい構造をしていた。 この形式は近世城郭のモデルとなった安土城の石垣の特徴と重なる。同様の手法の寺院石垣で、これまで最古とされていたのは銀閣寺(京都市)の石垣で、15世紀中ごろ。今回の石垣はこれを数十年さかのぼることになる。 長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)の中井均館長(中近

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    usataro 2010/11/20
    「滋賀県米原市清滝の山林から室町時代前半の石垣や建物跡」「京極氏の第7代当主、高詮(たかのり)(1352~1401年)の菩提寺、「能仁寺」跡とみられる」(メタブへ)
  • 幻の右手見つかる 平等院 本堂の本尊「大日如来像」の一部 - MSN産経ニュース

    平等院で見つかった、失われた尊「大日如来像」の一部と見られる仏像の右手。持っているのは、神居文彰(かみい・もんしょう)住職=6日午後5時34分、京都府宇治市 (安元雄太撮影) 世界遺産の平等院(京都府宇治市)に保管されていた仏像片が、鳳凰(ほうおう)堂建立の前年(1052年)に建てられた堂の尊「大日如来像」の右手部分の可能性が高まり、同寺が6日発表した。堂は鎌倉時代ごろに焼失、尊も姿を消したとみられており、約960年前の“幻の姿”に迫ると期待されている。 仏像片は右手首から先で、長さ27・2センチ、幅14・8センチ、厚さ9・8センチのヒノキ製。人さし指を天に向けて印(智拳印)を結ぶ「大日如来」独特の形をしており、指や手のひらなどに漆や金箔(きんぱく)が残っていた。 鎌倉時代の記録「門葉記」や平安時代の辞典「伊呂波字類抄」によると、堂の尊は大日如来像で、金箔を施された高さ約1・

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    usataro 2010/10/07
    「平等院(京都府宇治市)に保管されていた仏像片が、鳳凰堂建立の前年(1052年)に建てられた本堂の本尊「大日如来像」の右手部分の可能性が高まり」