藤木久志さん(ふじき・ひさし=立教大学名誉教授・日本中世史)28日、敗血症で死去、85歳。葬儀は10月3日午前10時30分から神奈川県鎌倉市大船2の17の15の鎌倉ファミリーホールで。喪主は妻香代子さん。 奴隷狩りが日常的に行われていた戦場の実態を描いた「雑兵たちの戦場」など、新たな戦国時代像に…
韓国文化財庁と警察当局は13日、韓国南西部、全羅南道新安郡沖の海底遺跡で40年前に引き揚げた青磁などを日本などに売ろうとしたとして、埋蔵文化財保護法違反の疑いで60代の韓国人男性を逮捕した。 この遺跡には、1323年、中国・寧波から博多に向かう途中で沈んだ船があり、最終目的地が京都の東福寺だったことが判明している。1970年代後半から80年代前半に引き揚げ作業が行われた。 男性はこれと別に潜水士を雇い「青磁貼花竜文大盤」「青磁陽刻牧丹文両耳瓶」などを入手していた。文化財庁は「完全な形を保ち、学術的価値がある。3カ国の文化交流がうかがえる重要な史料」としている。 男性は40年間、自宅に隠していたが、生活苦から日本や中国のブローカーに売ろうとし、価格が折り合わず断念した。その密輸入の情報が警察に入り、逮捕に至った。本人は容疑を否定しているという。(ソウル=神谷毅)
新元号「令和(れいわ)」を決定する過程で、政府が検討した6つの最終案がすべて明らかになった。 日本の古典に由来する案は3案で、「令和」のほか、日本書紀を出典とする「英弘(えいこう)」、日本古典と中国の詩経を出典とする「広至(こうし)」が検討されていた。また、中国の古典からは「万和(ばんな)」「万保(ばんぽう)」「久化(きゅうか)」の3案が出ていた。 1日放送のテレビ朝日系『スーパーJチャンネル』に出演した安倍総理は、有識者懇談会では全員が出典を日本の古典にすることで一致し、「令和」を推す声が最も多かったと明らかにした。 そうしたなか、「『令和』以外の5つはケチのつけようがない」と指摘するのは、歴史学者で東京大学史料編纂所の本郷和人教授。令和の「令」の字に理由があるとして、3つの点を説明する。 「『令』は上から下に何か『命令』する時に使う字。国民一人ひとりが自発的に活躍するという説明の趣旨と
日本にキリスト教が伝わって間もない安土桃山時代に日本人の信徒、キリシタンが描いたとみられる宗教画が見つかりました。聖書のさまざまな場面が和紙に墨で描かれているほか、ラテン語の祈りの言葉も添えられていて、専門家は最も初期の信仰の様子を知る重要な発見だとしています。 和紙をつなぎ合わせた幅22センチ、長さ3メートル余りの巻物で、「受胎告知」や「聖霊の降臨」など、キリストと聖母マリアの生涯の15の場面が墨絵で描かれています。 かな文字で書かれた文章もあり、分析した結果、「聖体秘蹟の連とう」と呼ばれるラテン語の祈りの言葉を耳で聞き取って書き起こしたものと分かりました。 巻末には安土桃山時代にあたる「千五百九十二年」と書かれていて、和紙の成分の分析からも16世紀後半から17世紀前半のものと分かり、この年に描かれた可能性が高いということです。 この年はキリスト教が伝わってから40年しかたっておらず、日
神奈川県大磯町の「澤田美喜(みき)記念館」で収蔵されていた出所不明のキリシタンの信仰画が、16世紀末の安土桃山期の作品である可能性が高いことがわかった。当時の信仰画は残っているものがごくわずかで、国内に信者が増えた時期の信仰の姿を伝える貴重な資料とみられる。 記念館などによると、和紙に墨で描かれた巻物で、縦22センチ、横約320センチ。「受胎告知」や「受難」「聖母の戴冠(たいかん)」など15の場面がある。ラテン語の祈りの言葉も仮名で書かれている。「御出世以来千五百九十二年 はうろ」とも記されており、「パウロ」という洗礼名の信者が西暦1592年に作ったとみることができるという。 記念館と共同調査した横浜市歴史博物館によると、文字の書体や描かれた風俗には、江戸時代より前の特徴がある。記念館が外部の研究機関に放射性炭素を用いた年代測定を依頼したところ、1556~1633年に作られた紙との結果が出
14世紀に高麗王朝時代の朝鮮で印刷され、その後、対馬にもたらされた仏教の経典集、「高麗版大般若経」が、新たに国の重要文化財に指定されることになりました。 これは9日、文化庁の文化審議会が文部科学大臣に答申したものです。 対馬市の金剛院に伝わる「高麗版大般若経」は、高麗王朝時代の朝鮮で、14世紀に木版印刷された165巻の経典集で、室町時代に当時の対馬当主、宗貞盛が朝鮮王朝からもらいうけ、その後、島内の寺や神社に寄進した経典の1つとされています。 この中の記録から、経典が印刷された経緯や、当時の対馬と朝鮮の関係を読み解くことができ、宗氏と金剛院とのつながりを示す31通の資料と合わせて、保存すべき価値があるとされています。 このほか、国の登録有形文化財に、長崎市にある国道三四号一之橋と国道三四号中之橋、それに国道三四号鎮西橋が登録されることになりました。 いずれも昭和9年に作られた鉄筋コンクリー
韓国蔚山(ウルサン)広域市中区(チュング)役所が慶長の役当時、倭軍が建てた城「鶴城(ハクソン)公園」に朝鮮を蹂躪した武将「加藤清正」の像を建てることにして問題となっている。 蔚山市中区役所が日本観光客の誘致などのために鶴城公園に10億ウォン(約1億508万円)の予算を投じて慶長の役当時の姿を再現する工事を行っている。特に、鶴城公園入口に当時朝鮮軍の都元帥・権慄(クォン・ユル)、明国将軍の楊鎬とともに武将・加藤清正の銅像を建てる。1.7メートルの加藤清正像は現在、考証を経て製作中だ。 蔚山市中区鶴城洞に位置した鶴城公園は「倭城」と呼ばれている。当初は新羅の戒辺城(貿易港)だったが、1597年の慶長の役当時、倭軍が朝鮮と明国連合軍である朝明連合軍に対抗するために新しく建てた。当時の日本の武将は加藤清正だった。彼は倭軍を率いてここで背水の陣をひき、朝明連合軍と激しい戦闘を行って守城に成功し、数多
福井市朝宮町の丘陵に、古代の北陸では最大級の山林寺院跡があることが2日までに、日本考古学協会の埋蔵文化財保護対策委員古川登さん(58)=同市=の調査で明らかになった。遺物などから奈良時代末~平安時代前半の寺院とみられ、東側の尾根上に大小20面以上の平たん面が見つかった。白山信仰との関係もうかがえ、注目を集めそうだ。 この丘陵(標高約130メートル)は朝宮橋南側の日野川左に面し、地元集落にはかつて神社があったとの伝承が残る。古川さんが旧清水町教委職員だった2004年、近くにある中世の大型寺院・方山真光寺(かたやましんこうじ)跡に関連した調査で、丘陵東側に複数の平地があるのを確認した。字名は「大社(おおやしろ)」で、「朝宮大社遺跡」と呼ばれている。 今年4月、越前町織田文化歴史館の堀大介学芸員とともに再調査したところ、標高72メートル付近で林道の造成跡から複数の須恵器片が見つかった。8世紀末~
百名城スタンプを始めてから、自分の「城」の好みというものを強く意識するようになってきました。改めて意識していろいろな城跡を見て回るようになると、単に「百名城」と言っても、実に様々なタイプの城跡があるものだと実感します。 そんなことを思うようになってから、関東近郊で最も気になり始めた城跡が群馬県は太田市にある金山城です。ここは関東地方では有数の規模を誇る山城跡で、鎌倉時代に新田義貞がその礎を築いたたと言われていますが、戦国時代の乱世で何度もの実戦を経て、最後は北条氏の滅亡とともに廃城となって以来、実に400年以上忘れ去られ放置されていた、まさに遺跡でもあります。本格的な発掘が始まったのは平成に入ってからなのです。 それにしても山城ってなんか惹かれるものがありますよね。平地に大都市を形成する中心として、巨大な縄張りと大天守を持つ戦国末期の平城も良いですが、やはり純粋に戦のための機能を追求し、城
時代区分を見直す中世史家 保立道久・東京大学名誉教授 歴史には時代区分がある。だが、日本史で一般的に使われる「平安」も「鎌倉」も「室町」も問題だと指摘し、新たな区分を提案する歴史家が現れた。名付けを見直し、区切る事件を変える。歴史の大きな流れが理解しやすくなるというのだ。明治以前を「古墳→大和(やまと)→山城(やましろ)→北条→足利→織豊(しょくほう)→徳川」にすべきだ、というそのわけは。 ――時代区分を変える必要などあるのでしょうか。 「時代区分は、歴史を少しでも分かりやすくするための印です。学界も習慣的に使っていますが、社会への影響が大きく、もっと深く考えるべきだと思いました」 「ヨーロッパや中国などの外国は、王朝交代で時代を区切ります。日本の天皇は『万世一系』ですから難しいのですが、前近代の政治の中心は王権です。王権の変化で区切るほかありません」 ――では、最初の王権はいつできたので
青森県南部町教育委員会は25日、北東北最大の戦国大名、三戸南部氏の居城だった国史跡「聖寿寺館跡」(同町小向)で、中世アイヌのシロシ(印)が施された染付皿の破片が、本州で初めて出土したと発表した。南部氏がアイヌと交渉を持ち、アイヌが聖寿寺館に住んでいた可能性が非常に高まった。本州アイヌ研究の進展に貢献するもので、南部氏の領国経営や北海道アイヌとの関係を考える上でも大きな発見だという。 見つかったのは、15世紀後半~16世紀前半に流通していた中国産の染付皿底部片(底径7.2センチ)。シロシはアイヌの所有物であることを示す印で、底部に5センチ×4.3センチの「×印」が刻まれていた。聖寿寺館に持ち込まれた染付皿を居住していた本州アイヌが入手し、シロシを施した可能性が高いという。
皇太子さまは、23日、57歳の誕生日を迎えられました。誕生日にあたって、皇太子さまは、去年8月の天皇陛下のビデオメッセージを振り返りながら、「国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむ、ということを続けていきたいと思います」と述べられました。 続いて、4歳の時の東京オリンピック以来、天皇皇后両陛下のさまざまな公務に同行してきたことに触れ、「両陛下が一つ一つの行事を大切に思われ、真摯(しんし)に取り組まれるお姿を間近に拝見してまいりました」と話されました。 そして、「陛下がおことばの中で『全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないか』と御案じになられていることに、とても心を揺さぶられました」と語り、「陛下のお考えを真摯に重く受け止めますとともに、今後私自身が活動していくのに当たって、常に心にとどめつつ務めに取り組んでまいりたいと思います」と述べられました。 皇太
室町時代の中期、東西両軍が11年にわたって繰り広げた「応仁の乱」。勃発から550年の長き時を越えて、現代読書人の熱い視線を浴びている。小学校社会科教科書に載るなど誰もが知る戦乱だが、戦国時代の合戦や幕末の動乱などに比べると、今ひとつ人気がなかった。しかし、中公新書「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」は昨年10月の発売以来、硬派な歴史新書としては異例の12刷・13万部を売り上げるベストセラーになっている。著者の呉座(ござ)勇一さん(36)と版元の中央公論新社にヒットの理由を聞くと、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)と新聞広告など新旧メディアの特性を生かした販売戦略にコアな歴史ファンが反応、多くの一般読者の関心を集めるまでに支持を広げたことが分かった。【大村健一/デジタル報道センター】
室町幕府3代将軍、足利義満が権力の象徴として築いた巨大な七重塔。史料も少なく実態が分からなかった“幻の塔”を飾った相輪の一部とみられる破片が金閣寺(京都市北区)で初めて出土したと、京都市埋蔵文化財研究所が8日発表した。中世史や建築史の研究者らは強い関心を寄せる。 「北山大塔が実在したという物証がついに出土したことは大変にうれしい」と話すのは、「室町幕府論」(講談社刊)などの著書がある早島大祐・京都女子大准教授(日本中世史)。南北朝統合を実現させた義満は将軍職を義持に譲ったが、手に入れた強大な権力と財力を示すため、自分が住む北山殿に金閣と大塔を建てたと推測する。 「平安後期に白河天皇が法勝寺… この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読み
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