浦上地区 長崎市の北部の地域で、 17世紀から19世紀における潜伏キリシタンの中心地として 現代には原子爆弾の被害を受けた中心地として知られている。 歴史上、初めて浦上という名前が出現したのは15世紀。16世紀には全村がキリシタンと言われていた。17世紀に入り、キリスト教の禁教令が出たのちも、約250年間にわたって、信仰を守り通した。
43年8月、チャーチルとルーズベルトがカナダ・ケベック州で原爆を共同開発すると決めた秘密協定「ケベック協定」。米国が核兵器開発に成功しても英国が同意しなければ使用できない=英国立公文書館所蔵(岡部伸撮影) 【ロンドン=岡部伸】第二次大戦中の1945年7月、英国のチャーチル首相(当時)が米国による日本への原爆使用に最終同意して署名していたことが、英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。約1カ月後の広島と長崎への原爆投下に至る意思決定に、チャーチルが深く関わっていたことを裏付ける資料として注目されそうだ。 同館所蔵ファイル(CAB126/146)によると、原爆開発の「マンハッタン計画」責任者、グローブス米陸軍少将が45年6月初め、英国側代表のウィルソン陸軍元帥を通じて英政府に日本に対する原爆使用を許可するよう求めた。 打診は、米国が核兵器開発に成功しても英国が同意しなければ使用できないなどと定
1945年8月9日の長崎への原爆投下を前に、米海軍への長崎出撃などを禁じた同軍の極秘電文3通が米国立公文書館で見つかった。同1~4日付電文で、太平洋艦隊司令長官が日本近海で部隊を率いる第3艦隊司令官に送信していた。米兵の被ばく防止と原爆投下を計画通りに進める狙いがあったとみられる。第3艦隊の攻撃目標も長崎から東北地方に変更され、その後の東北空襲につながったことも判明した。 【写真特集】被爆3日後の惨状生々しく 記者が撮った40枚の写真 米軍資料から空襲の実態を調べる市民団体「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」の工藤洋三事務局長=山口県周南市=が昨年、同公文書館保存のファイルから発見した。いずれの電文も太平洋艦隊司令長官ニミッツが、前線で第38任務部隊を率いる第3艦隊司令官ハルゼーに送っていた。工藤事務局長によると、海軍の前線に原爆投下に関する情報が事前に伝わっていたのが確認されるのは初め
<2016年5月27日にバラク・オバマ米大統領が広島を訪問するのに先立ち、本誌は原爆投下を決断した第33代大統領ハリー・トルーマンの孫、クリフトン・トルーマン・ダニエルを訪ねていた。2時間余りに及ぶインタビューの中で、ダニエルが率直に語った「祖父の決断」とその責任、そして、彼自身がヒロシマ・ナガサキの被爆者と交流を続ける理由とは> (写真:トルーマン元大統領と幼き日のダニエル、1959年) 謝罪(apology)──バラク・オバマ米大統領の広島訪問を前に、日米両国でにわかにこの言葉への注目が高まっている。オバマは日本人に謝罪すべきなのか。日本国民は米大統領に謝罪を求めるのか。戦時中の行為をめぐる「謝罪」について、日本はこれまで他国から求められることはあっても、こと原爆に関してアメリカにそれを求める声は大きくなかった。 では国家間の話ではなく、「当事者同士」という個人レベルの謝罪についてはど
オバマ米大統領が、5月27日に広島を訪問することが決まった。これはアメリカの現職大統領としては初だが、演説や記者会見は予定されていない。それでもこれが大ニュースになるのは、広島訪問に重象徴的な意味が含まれているからだ。 アメリカ政府の公式見解によれば、1945年8月に原爆を投下しなかったら日本の降伏が遅れ、11月には100万人の兵力による本土上陸作戦が予定されていたので、原爆は終戦を早め、多くの人命を救ったことになっているが、それは本当だろうか。 原爆投下は史上最大の国際法違反 広島平和記念公園にある原爆慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれている。この文章には主語がないが、これを「日本人は過ちは繰返しませぬから」と解釈するのはおかしい。
It was one of the most feared weapons of the Cold War and was dubbed "Satan" by Nato. The USSR's SS-18 missiles were over a thousand times more powerful than the bombs that destroyed Hiroshima and Nagasaki with the full arsenal capable of global destruction. After the fall of the Soviet Union, similar missiles - called SS-24s - ended up in the hands of Ukraine, which agreed to decommission them. U
ウランの核分裂は1938年末にドイツで発見された。その直後に起こった第二次世界大戦中にナチスが原爆を開発するのではないか、という恐怖感が米英の連合国に強かった。それが米国の原爆開発の誘因になったことはよく知られている。ドイツが原爆を開発するとなれば、その中心人物とみられたのは、量子力学の建設者で、不確定原理を提唱した理論物理学者のハイゼンベルク(1901~76年)だった。ハイゼンベルクらはドイツ南西部の山あいの美しい町、ハイガーロッホの丘にある教会の地下洞窟に重水炉を建設し、終戦直前の45年2月末に実験したが、核分裂の連鎖反応が持続する臨界に達しなかった。 この原子炉は、ナチスの降伏直前に米国が送り込んだアルソス特殊部隊によって45年4月に、近くの畑に埋められていたのを接収され、徹底的に調べられた。現在は、再現された炉心が現地の博物館で公開されている。その構造を基に計算したところ、「原子炉
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