侯 景(こう けい)は、中国南北朝末期の武将。侯周(乙羽周(中国語版))[2] の孫で、侯標(中国語版)の子[1]。侯景の乱の首謀者。漢を建ててその皇帝に即位したものの、わずか在位5カ月で殺害された。 生涯[編集] 朔方郡の人とも、雁門郡の人ともするなど諸説があるが、いずれも定かではない。侯景の精兵はみな「羌胡雑種」であり[3]、羯族などの北族出身であったともされる[4]。その生家は六鎮の一つである懐朔鎮の守備に従事していた胡族化した漢族とも、あるいは漢化した鮮卑系の貴族の家柄(乙羽氏?)であるとも考えられている[5]。 侯景は524年の六鎮の乱で北魏の爾朱栄軍の部下として頭角を現し、北魏が東西に分裂すると東魏の高歓の旗下に入り、河南大行台として河南方面の軍事を任じられる[4]。高歓が死去した後に、東魏への叛乱を起こしたが、高歓の長男の高澄が侯景を殺害しようとしたためという[4]。さらに高
![侯景 - Wikipedia](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/b87d130b588468527a9a513b73db14a2836430d8/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2F4%2F48%2FHou_Jing.jpg)