超硬派のゲーム雑誌「ゲーム批評」の元編集長で、ゲーム開発・産業を支援するNPO法人「国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)」元代表の小野憲史さんが、ゲーム業界を語る「小野憲史のゲーム時評」。今回も、小野さんの「ゲーム批評」時代の思い出を語ってもらいます。
今年のキングオブコントも、無事に終わりました。サルゴリラ本当におめでとう!今年僕は、U-NEXTさんのキングオブコメント2023で何組かに対してインタビューをさせていただきました。サルゴリラにもインタビューしてるんでぜひ観てみてください。いやあ、またまた今年もレベルの高い大会でしたね。 いきなり例えますが、コントを戦士として見た場合、武器と筋力のバランスが大事だなと思いました。武器は設定・テーマ、筋力は表現力・演技力といった感じです。カゲヤマなんかは、変わった武器に変わった筋力の彼らにしかできないネタでそれが素晴らしかったです。武器の素晴らしさが突出してしまうと逆に筋力の貧弱さが目立ってしまったり、弱そうな武器だからこそその筋力のたくましさが目立ったり、さらに逆にそんな筋力で振り回したら、せっかくの武器が壊れちゃうよっていう場面もあったり、バランスが大事だと思ったりしました。 ということで
嫌いな映画評論家は小野寺系、どうもヒトです。 先日ネットをさまよっていると、興味深い論争を見かけました。 「『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』のロッテン・トマトの批評家評価が低いのは、ポリコレへの配慮がないからではないか」という議論です。 たぶん出火元たしかに現時点で映画マリオのトマト評価は、批評家スコアが56%、観客スコアが96%と、批評家と一般観客の間でかなりの落差が見て取れます。 https://www.rottentomatoes.com/m/the_super_mario_bros_movieロッテン・トマトの批評家評が、ポリコレ的・リベラル的な映画に点数が甘いのではないか、という説は以前からよく聞きます。個人的にも「これは過大評価だろ」と思うときも少なくありません。 また、映画人および批評家というのは総じてリベラルな傾向にあります。そのため、リベラルで健康的な映画を高く
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『かげきしょうじょ!!』と『ライジング!』は“娘役”をどう描いた? 娘役像からの逸脱と男役優位に対する批評性 女性のみで構成され、男役・娘役やトップスター制度という独自のシステムに基づく、華やかな舞台が人気の宝塚歌劇団。宝塚をモデルにした歌劇団というテーマは、漫画の題材としても人気が高く、これまでにもさまざまな作品が発表されてきた。 なかでも2012年から現在まで「MELODY(メロディ)」(白泉社)連載中の斉木久美子『かげきしょうじょ!!』と、1981年から84年まで連載された氷室冴子原作・藤田和子作画の『ライジング!』(小学館)は、歌劇団漫画の新旧の傑作として名高い。 この2作は、「歌劇団の音楽学校に入学した少女がトップスターを目指す」という共通点を持ちつつも、大きく異なる方向性で物語を展開している。『かげきしょうじょ!!』は、群像劇をベースに多数のキャラクターに光を当てながら、歌劇団
【映画を早送りで観る理由 #4 好きなものをけなされたくない人たち 前編】 映画やドラマやアニメを倍速視聴、もしくは10秒飛ばしで観る習慣に対する違和感を、記事「『映画を早送りで観る人たち』の出現が示す、恐ろしい未来」に書いたところ、大きな反響があった。その内容を深堀りした記事を全4回で配信する本企画、最終回は“視聴者のワガママ化”をテーマに前後編でお届けする。 前述の記事を読んだ知り合いの脚本家は、「本来シナリオは、2時間の映画なら2時間かけて観る想定で書かれているのに……」とつぶやいた。当然の嘆きだろう。 同じように嘆いている作り手は多いはずだ。早送り用には撮っていないし、書いていない。それは、漫才師がコンマ1秒単位で“間(ま)”を計算して披露するネタを、倍速で観てほしくはないのと同じだ。 しかし、件の記事にはかなり多くの“反発”も寄せられた。「どう観ようが勝手」「観方を押し付けるな」
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文学をどんどん不自由に 悲しいことに、こうした「文学は〇〇だ」「文学は××でない」といったような、文学を不自由にする主張は、現代日本において幅広く見られます。 たとえば、2015年に大阪芸術大学の文芸誌『藝大我楽多文庫』が「ライトノベルは文学か」という鼎談を発行しました。近世演劇の研究者としては、大部分が文字で書いてあるものに関してこんな問いはおかしい、むしろ文字以外の要素が多い演劇よりもラノベのほうが文学らしいのでは……と思えますが、この鼎談は無意識に近代小説のみを「文学」と考えています。 「作品からその作家像を思い描けるのも『文学』の面白さのひとつです」(p. 20)などという指摘が出てきますが、先に登場した叙事詩や、地の文がなくてそれぞれの登場人物に全く異なる行動をとらせることができる演劇などは、多くの場合「作品からその作家像を思い描」くことができません。私が研究しているシェイクスピ
お笑いと批評の関係性私は以前から、お笑い芸人さんの多くが自分の漫才やコントを批評されることに拒否反応を示す傾向があるのではないか、という印象を持っていました。そのことについてSNSに投稿をしてみたところ、いくつか反応をいただいたので、今回この疑問についてもう少し深く考えてみます。なお私は、芸人さんのラジオは好きで、わりと聞いていますが、賞レースやテレビのお笑い番組を軽く見るていどで、お笑いファンとしてはかなり薄い部類です。一応ライターをしていますが、お笑い批評をやってみたいという気持ちはないです(お笑い芸人さんの本の書評は、仕事で一度したことがあります)。 お笑い芸人さんの多くは、批評されるのを嫌う傾向がありますよね。映画批評、文芸批評などは創作と相互補完的で、作者からもおおむね歓迎され、不可欠になっているのに、なぜお笑い批評は当事者から(ほとんど生理的な嫌悪感をともなって)拒否されるのか
総合批評誌『ヱクリヲ』 Vol.7 通販開始! 1,400円(税抜) 1,100円(税抜) 8月31日までセール中! https://ecrito.booth.pm/items/742644 【目次】 特集Ⅰ 音楽批評のオルタナティヴ interview:佐々木敦 「音楽批評のジレンマ」 音楽批評の現在(リアル)を捉える――「音楽」批評家チャート 2000-2017 音楽批評のアルシーヴ――オルタナティヴな音楽批評の書評20 【論考ほか】 「鉄(メタル)と鋼(ヘヴィ)、響きと空間」/吉田雅史 「レア・グルーヴ、平岡正明――「ジャズ的」から「ヒップホップ的」へ」/後藤護 「即興音楽の諸相――ジャンル、イデオロギー、美学、方法論、情況論、原理論に向けて」/細田成嗣 「記号の夢、夢の記号――A.I.と未来のポップ・ミュージックをめぐる『非現実』」/大西常雨 来るべき音楽批評を思考するためのライ
さて、先日1クール分の放映が終了した『けものフレンズ2』ですが。 端的に言って「世に出して良いものではない」と思いました。 かなり長くとっ散らかった記事になってしまった気がするので結論を先に書いておくと、 『けものフレンズ2』に足りないのはエンターテイメントとしてあるべき「楽しませよう、楽しんでもらおう」という理念、真摯さで、それがないから積み重ねや描写が圧倒的に足りなく、エンターテイメントとしての最低限の条件すら満たしていない低品質で粗雑なものになっている。 そしてそれが途中で待ったをかけられないまま、多くの人が憎悪や悪意といった邪悪さや負の印象、反感を抱いてしまうようなものとして、世に出てしまった体制や組織にも問題がある。 創作をする者としては度し難い。 こんなところでしょうか。 内容的に批判記事になっているので『けものフレンズ2』が面白かったという反対意見をお持ちの方につきましては閲
『ズートピア』ーーディズニーの自己批評路線が作り上げた、嫌になるくらいの完成度(イシイジロウ×宇野常寛)【月刊カルチャー時評 毎月第4水曜配信】 今朝のメルマガは、映画『ズートピア』をめぐるイシイジロウさんと宇野常寛の対談をお届けします。高い完成度のシナリオで右肩上がりのヒットとなった本作。絶妙なさじ加減で盛り込まれた政治性と、3DCGが可能にした柔軟な映画作りの可能性、そしてディズニー買収後のピクサーが失ったテーマについて論じます。 公開後は各所で話題となり、興行収入は右肩上がりとなった同作。その完成度の高さの理由とディズニーアニメとしてのすごさを語りました。(初出:「サイゾー」2016年7月号(サイゾー)) (出典) ▼作品紹介 『ズートピア』 監督:リッチ・ムーア/バイロン・ハワード 脚本:ジャレッド・ブッシュ/フィル・ジョンストン 制作:ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジ
エルサの「自己実現」はどう描かれる? 2013年に大ヒットを飛ばし、文化現象と言えるほどの影響力を持つようになったディズニー映画『アナと雪の女王』の続編である『アナと雪の女王2』が11月22日に公開された。この原稿を書いている12月9日時点でもヒット中で、世界興行収入は9億ドルを超えた。 この続編については賛否両論あるが、現時点で映画のレビュー点数化サイトであるロットントマトズではプロの批評家による評価が78%、それ以外の観客の評価が92%で、人々はおおむね満足して映画館から出てきていると言える。 本レビューの著者は、第1作について「理想宮か、公共彫刻か?――『アナと雪の女王』」という批評を書いたことがある。そこで指摘したのは、ヒロインのひとりであるエルサが一度は捨てた故郷アレンデールに戻り、女王としてのつとめを果たすことを決意するという結末は幸せと言えるのか、ということだった。 エルサは
2018.06.10 00:25 英文学のフェミニスト批評って、何をやってるの?~『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』刊行に寄せて ただ座って本を読んでるわけじゃない 今回の連載では、「フェミニスト批評って何をやってるの?」ということについて書いてみたいと思います。宣伝で恐縮ですが、私は3月末に、白水社より『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち――近世の観劇と読書』という初めての単著を出しました。これはフェミニスト批評を用いたシェイクスピアの研究書です。16世紀末にシェイクスピアが活動し始めた頃から、初めて近代的なシェイクスピア祭が行われた1769年までの間に、女性の読者や観客がどうシェイクスピアを受容し、その普及に貢献したかを探る内容です。 本の写真を見て頂ければわかるように、帯に「追っかけから始まる、シェイクスピア女性の歴史」と書かれていますが(このチャラいコピーは私が考えました)、シ
かつて橋本治は女子高生だった。その後、光源氏になったり『平家物語』という名の日本上古史になったりいろいろしたけど、1970年代には桃尻娘だった。だから誰よりも的確に少女マンガをキャッチしていた。当時、オタクという言葉はまだなくて、マンガを評論するのは異例中の異例だったが、女子高生にそんな世間の事情は関係ない。好きだから読む。語る。自分が同化して「そのもの」になってしまう。本書はそのようにして書かれた画期的な少女マンガ評論の古典だ。 取り上げられているのは倉多江美、萩尾望都、大矢ちき、山岸凉子、江口寿史+鴨川つばめ、陸奥A子、土田よしこ、吾妻ひでお、大島弓子。 本書は社会批評としても秀逸だ。たとえば著者は、萩尾望都の『ポーの一族』を、懐かしい時間への回帰循環の物語とし、閉塞化していく戦後社会と、葬り去られた子供たちへの鎮魂歌だとする。だが挫折しても希望は消えない。少年少女は何度でも挑戦を繰り
Clint Eastwood's Japan critics are always there to make his day "Everybody knocks out a flop every now and then," quipped Clint Eastwood during a recent interview to promote his latest movie, "The 15:17 to Paris." The film forms part of an informal trilogy dedicated to real-life examples of American derring-do, following on from "Sully" (2016) and "American Sniper" (2014). Yet it's also the most e
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