当時はヘタリアは許されていたみたいな意見があるけど、私はヘタリアこそ日本のオタクコンテンツが歴史修正主義方面へと決壊する剣が峰だと「当時から」主張していたし、事実ヘタリアの成功がストパンガルパン艦これといった世界史1ビット脳コンテ… https://t.co/QlWMUgdqtP
■きっかけになったツイート 銀河英雄伝説のリメイク。3期以降も続くのかな。もしそうなら、男女役割分業の描き方は変更せざるをえない気がする。旧アニメのままだと、さすがに時代にそぐわない。作品として大変に面白いのは踏まえたうえで。…なんてことを書いたら炎上するかな。 https://twitter.com/brighthelmer/status/1304248768896921603 実際のところ、昔のドラマやアニメを見ていると、価値観の変化がもっとも顕著なのがジェンダーの描き方だという感はある。そういう変化を踏まえたうえで作品を楽しめばよいわけで、ジェンダー関係の指摘は作品を全否定することだというのは違うと思うんだけどな。 https://twitter.com/brighthelmer/status/1304248771631632384 なお、個人の感想ですので作品に何ら干渉する意図はあ
ある日のことである。いつものようにTwitterをぼーっと眺めていると、以下のようなツイートが流れてきた。 擲弾兵@4回目接種済 @tekidanhei 銀英伝で「新婚のフレデリカに家事をさせるのは相応しくない」ので新版では書き換えろとか言っている社会学者様のに遭遇したけど、社会学の価値の無さというか害悪さを改めて実感したよ。 2020-09-11 12:36:29 何、それはひどい。そんなクズがいるのか!と一瞬で吹き上がるオレ様。しかし、ほんとうに実際にそのようなツイートはあったのだろうか? わずかに残された理性で検索してみたところ、見つかった具体的なツイートはこれである。
【終戦記念日特別企画】日本の加害責任を検証するアンコール特集 その5 高畑勲監督が「『火垂るの墓』では戦争を止められない」と発言し続けた理由! 日本のズルズル体質に強い危機感 75年の節目を迎えた今年の終戦記念日、リテラ が日本の加害責任を改めて問う企画をお届けしているが、締めの第5弾で紹介したいのは、故・高畑勲監督の発言だ。今回本サイトが日本の加害を振り返っているのは、歴史修正主義の跋扈によって、大日本帝国の戦争犯罪がなかったことにされ、メディアの戦争回顧企画も日本人兵士が国のために命を散らした悲劇や日本人が辛苦に耐えた苦労話を美談化したようなものばかりが目立つようになっているからだ。 高畑監督といえば、代表作『火垂るの墓』は戦争の悲惨さを描いた反戦映画の名作として国内外で高い評価を得ている。かつては、夏になれば毎年のように『火垂るの墓』がテレビで放送されていた。 高畑監督自身、ジブリの
『この世界の片隅に』で太極旗シーン以上に問題なのが、憲兵が出てくるエピソードだ。この話は以前にも一度取り上げているので内容が一部重複するが、改めて問題点を整理してみることにする。なお、このエピソードに関しては原作マンガとアニメ版に大きな違いはない。 『この世界の片隅に』で「憲兵」はどのように描かれたか このエピソードでは、呉の軍港に浮かぶ軍艦をスケッチしていたすずを間諜(スパイ)容疑者として捕まえた憲兵が、すずを連れて北條家に怒鳴り込んでくる。[1] 家族たちは玄関先で怒鳴り散らす憲兵の説教を神妙に聞いていたのだが、憲兵がいなくなると、次のシーンでは、よりによってすずなどをスパイ扱いした憲兵をバカにして爆笑する。[2] 現実にはあり得ない憲兵描写 しかし、こんなことは当時の現実としてはあり得ない。 まず、憲兵がスパイ容疑者を捕まえたら憲兵隊詰め所に連行して尋問するはずで、容疑者の自宅に引っ
最後まで見ていない作品について物を言うのは愚かしい、と今日つくづく悟った。といっても、第22話まで見たという状況自体には変化はない。対話を通じて、しかし対話の内容自体とはあまり関係なく、勝手に反省しただけだ。 ・第21話で、ひとりのAPE幹部が、イカニモな黒人として描かれている →作中の地球には、現実の地球と同様に、黒人がいるものと読み取れる →「イカニモな黒人として描かれてはいないけれど、それは視覚表現の手法であって、実は黒人」というコドモが描かれている可能性はない ・第22話までに黒人のコドモはひとりも視覚表現されていない 親切なかたからのご指摘と対話を通じて、以上の2点を確信した。よって元の内容は、かなりの部分が意味を失ったが、自分の恥として下に残しておく。 しかし疑惑はまだ残る。最終話を見終わったときには解消されてほしい疑惑が。 ・地縁血縁から切り離されたはずのコドモという存在が、
広告会社で映像プロデューサーをつとめている田中氏が、高畑監督の訃報*1にふれて、下記のようにツイートしていた。 会社側がアニメーターをしめだしたロックアウトを、「アニメを楽しみにしてる子供たちに毎週欠かさず納品してたのは彼ら。サヨク不信はこういう話でも芽生える」などと、なぜか労組の問題であるかのように主張している。 もしアニメーターがストライキをしただけならば、ストライキをせずに納品したアニメーターをたたえる理屈はわからなくもない。虫プロで手塚治虫がおこなって今も批判されているダンピングではあるが*2、個々のアニメーターがダンピングに追いこまれることは批判したくない。ただし、やはり争議によって作業が停滞した責任は企業が負うという原則には変わりない。 もちろん、この田中氏のツイートには複数の批判がよせられており、高畑監督や宮崎監督がTVアニメを落とさず全話に手を入れていた逸話も指摘されている
キルラキルはそのアニメーション作画はもちろん色もキャラデも演出もお芝居もコンセプトも他を圧倒し素晴らしく、30分息もつかせぬようなアクションに毎週興奮している。 アニメは日本の誇る文化だと改めて感じるような作品だと思う。 もちろん世の評価も高く、非の打ち所が無いというか「あれイマイチだよね」と言おうものなら「萌えヲタには解らないだろう」もしくは一周して「何すかしてんだよ」という視線を浴びてしまいそうな程の作品と言おうか。 なのでちょっと言いにくいのだが、自分はこの作品を見ているとどうも引っかかる。作品自体と世の中の評価に。 それはこの作品が「男性向け」であるからだと思う。 何を当たり前のことをとお思いだろうが、恐らく皆さん(男性的視点で見ている皆さん)が思っている以上にこの作品は男性向けなんだと思う。 一つ一つ理屈をこねても仕方ないくらい生理的なものだと思うのだが、挙げるとするとまず「視点
この作品が零戦の設計者、堀越二郎氏の伝記アニメだと最初に聞いた時、まず疑問を感じました。憲法改正や自衛隊の国防軍化が叫ばれる中、旧軍の主力戦闘機の開発物語を制作することへの疑問です。あるいは、戦争の問題は切り離して、単純に堀越二郎氏へのオマージュかも知れないとも思いました。しかし、それでも、私の信条には合致しないものがあります。 観賞した結果、この作品は最初に自分が予想したのに近いものだったと分かりました。そして、この作品は、やはり制作すべきではなかったと結論しました。軍事問題を考え続けてきた者として、『ウォームービー・ガイド 映画で知る戦争と平和』を書いた者として、この作品は支持できまないのです。以下に、その理由を書きます。 戦争支持者としての映画の歴史 悲しいことに、劇映画は歴史的に、常に戦争を支持してきたという経緯があります。ドイツのナチス政権は映画を巧みに利用して、自己の宣伝に活用
さくら荘という学生寮にて、創作の才能を追い求める奇人凡人がつどい、たがいに影響をあたえあっていく。『さくら荘のペットな彼女』とは、そういう青春ラブコメ作品だ。 そのTVアニメ第6話では、七海という少女が風邪に苦しみながら、さくら荘の住人に後押しされて、自身の才能をたしかめようと行動する。次の日、風邪で寝こんだ七海に食べさせるため、仁という少年がサムゲタンを調理した。 その結末の小道具にすぎないサムゲタンをめぐり、制作者に対して激しい批難が向けられている。しかし批判を検討していくと、ほとんどが差別意識の発露か、理解力の欠落か、あるいはその両方にすぎなかった。 まず批判の理由として、原作では「お粥」が登場する場面であり、改変する理由がないという主張がある。 http://subcultureblog.blog114.fc2.com/blog-entry-9357.html 503 LIVEの名
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