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三国と晋に関するnagaichiのブックマーク (13)

  • 益州刺史の爰邵≒袁邵

    鄧艾が伐蜀の前に見た夢の内容について他の者に尋ねたところ、「蜀に勝てるが帰れない」との回答を受けたという逸話があります。 『三国志』巻二十八、鄧艾伝 初,艾當伐蜀,夢坐山上而有流水,以問殄虜護軍爰邵。邵曰:「按易卦,山上有水曰蹇。蹇繇曰:『蹇利西南,不利東北。』孔子曰:『蹇利西南,往有功也;不利東北,其道窮也。』往必克蜀,殆不還乎!」艾憮然不樂。 この的中した夢の解釈を述べた人物は、殄虜護軍の爰邵です。 鄧艾の麾下に居た武将でしょう。 それにしても「爰姓」は珍しいですね。 伐蜀の時の鍾会の配下に「參軍爰𩇕」が居ますが、 『三国志』巻二十八、鄧艾伝、注引『荀綽冀州記』 (爰)邵起自幹吏,位至衞尉。長子翰,河東太守。中子敞,大司農。少子倩,字君幼,寬厚有器局,勤於當世,歷位冀州刺史、太子右衞率。翰子俞,字世都,清貞貴素,辯於論議,採公孫龍之辭以談微理。少有能名,辟太尉府,稍歷顯位,至侍中、中

    益州刺史の爰邵≒袁邵
  • 魏晋南北朝史のいま [978-4-585-22679-6] - 3,080円 : 株式会社勉誠社 : BENSEI.JP

    魏晋南北朝時代は秦漢統一帝国と隋唐統一帝国の中間に位置する。 政治的に複数の政権が並立する分裂の時代ではあるが、そこには新しい動きが様々な点で生まれ、成長して行き、隋唐時代に繋がって行く。 それら新しい動きを「政治・人物」、「思想・文化」、「国都・都城」、「出土資料」の4つの側面から捉え、魏晋南北朝史研究の「いま」を分かりやすく解説し、非統一時代に生きた人々・物事の足跡を浮かび上がらせる。 総論―魏晋南北朝史のいま 窪添慶文 Ⅰ 政治・人物 曹丕―三分された日輪の時代 田中靖彦 晋恵帝賈皇后の実像 小池直子 赫連勃勃―「五胡十六国」史への省察を起点として 徐冲(板橋暁子・訳) 陳の武帝とその時代 岡部毅史 李沖 松下憲一 北周武帝の華北統一 会田大輔 それぞれの「正義」 堀内淳一 Ⅱ 思想・文化 魏晋期の儒教 古勝隆一 南北朝の雅楽整備における『周礼』の新解釈について 戸川貴行 南朝社会と

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  • 魔法つかい陳訓 - てぃーえすのメモ帳

    陳訓字道元、歴陽人。少好祕學、天文・算暦・陰陽・占候無不畢綜、尤善風角。 孫晧以為奉禁都尉、使其占候。晧政嚴酷、訓知其必敗而不敢言。 時錢唐湖開、或言天下當太平、青蓋入洛陽。晧以問訓、訓曰「臣止能望氣、不能達湖之開塞。」退而告其友曰「青蓋入洛、將有輿櫬銜璧之事、非吉祥也。」尋而呉亡。訓隨例内徙、拜諫議大夫。俄而去職還郷。 (『晋書』巻九十五、芸術伝、陳訓) 三国呉末期の人陳訓は、占いその他各種の秘術を学んだ。いわば魔法つかいであった。 そんな彼は呉の皇帝孫晧に取り立てられて「奉禁都尉」になったという。 名前から察すると、魔術の類を武器とする軍団が作られていて、その司令官のような地位についた、ということになるのではなかろうか(「禁」には「まじない」といった意味もあり、また「都尉」ということは部隊長、将校という扱いということになる)。 孫晧(孫皓)は魔法つかい軍団を編成していた、という可能性が

    魔法つかい陳訓 - てぃーえすのメモ帳
    nagaichi
    nagaichi 2016/08/29
    いわゆるオカルティストであって、魔法使いではないと思う。
  • 漢寿県と漢寿県 - てぃーえすのメモ帳

    劉備據蜀、又分廣漢之葭萌・涪城・梓潼・白水四縣、改葭萌曰漢壽、又立漢徳縣、以為梓潼郡。割巴郡之宕渠・宣漢・漢昌三縣置宕渠郡、尋省、以縣並屬巴西郡。泰始三年、分益州、立梁州於漢中、改漢壽為晉壽、又分廣漢置新都郡。梁州統郡八、縣四十四、戸七萬六千三百。 (『晋書』巻十四、地理志上、梁州) 漢壽。故索、陽嘉三年更名、刺史治。 (『続漢書』志第二十二、郡国志四、武陵郡) 武陵郡。漢置。統縣十、戸一萬四千。 臨沅、龍陽、漢壽、沅陵、黚陽、酉陽、鐔城、沅南、遷陵、舞陽。 (『晋書』巻十五、地理志下、荊州) 劉備は蜀を支配すると広漢郡の葭萌県を「漢寿」県と改称したそうだが、晋の時代になって「漢寿」は「晋寿」と改められたそうだ。 一方、武陵郡にも後漢中期の段階で「漢寿」県があったが、どうもこちらの「漢寿」は晋になっても改称されず、「漢寿」のままだったらしい。 どうでもいいことなのだが、どうして一方は改称さ

    漢寿県と漢寿県 - てぃーえすのメモ帳
    nagaichi
    nagaichi 2016/05/23
    単に紛らわしかったからでは?南北朝時代にも紛らわしい僑郡や僑県がたくさん立ってたけど、隋唐になって統一されると整理に向かったような。
  • 諸葛亮VS周瑜・魯粛 - てぃーえすのメモ帳

    客問曰「周瑜・魯肅何人也?」主人曰「小人也」客曰「周瑜奇孫策於總角、定大計於一面、摧魏武百勝之鋒、開孫氏偏王之業、威震天下、名馳四海。魯肅一見孫權建東帝之略、子謂之小人、何也?」主人曰「此乃眞所以爲小人也。夫君子之道、故將竭其直忠、佐扶帝室、尊主寧時、遠崇名教。若乃力不能合、事與志違、躬耕南畝、遁跡當年、何由盡臣禮於孫氏於漢室已亡之日耶!」客曰「諸葛武侯、翼戴玄紱、與瑜・肅何異而子重諸葛、毀瑜・肅、何其偏也?」主人曰「夫論古今者、故宜先定其所爲之、迹其致用之源。諸葛武侯、龍蟠江南、託好管・樂、有匡漢之望、是有宗之心也。今玄紱、漢高之正胄也、信義著於當年、將使漢室亡而更立、宗廟絶而復繼、誰云不可哉!」 (『太平御覧』人事部八十八、品藻下、習鑿歯『側周魯通諸葛論』) かの東晋の史家である習鑿歯は、「側周魯通諸葛論」というものを残していた。 これは、いわゆる孫呉成立の立役者ともいえる周瑜・魯

    諸葛亮VS周瑜・魯粛 - てぃーえすのメモ帳
    nagaichi
    nagaichi 2015/11/26
    習鑿歯の贔屓の引き倒し。
  • 涼州の大族 - てぃーえすのメモ帳

    麴允、金城人也。與游氏世為豪族、西州為之語曰「麴與游、牛羊不數頭。南開朱門、北望青樓。」 (『晋書』巻八十九、麴允伝) 西晋代の頃、西州つまり涼州方面の大族として「麴氏」と「游氏」が二大巨頭であったということらしい。 この二氏は牛や羊は数え切れず、朱塗りの門や高楼を備えた屋敷を構えている、ということか。 この地方の「麴氏」と「游氏」って後漢末から三国時代にかけてもしばしば出てくるが、しぶとく生き残って、むしろ膨れ上がっていた勝ち組だったのかも。

    涼州の大族 - てぃーえすのメモ帳
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    nagaichi 2015/07/18
    高昌王麴嘉なんかはその子孫なんだろうね。
  • 蔡邕の娘の子供の伯母 - 三国与太噺 season3

    羊祜字叔子、泰山南城人也。……祜、蔡邕外孫、景獻皇后同産弟。 ――『晋書』羊祜伝 景獻羊皇后諱徽瑜、泰山南城人。……后母陳留蔡氏、漢左中郎將邕之女也。 ――『晋書』景獻羊皇后伝 ご存知の通り、羊祜と羊皇后の母親は蔡邕の娘(済陽県君)なんですけど、ところでこんな逸文もあるんです。 三十國春秋曰、羊祜年十五而孤、事伯母蔡氏、以孝聞。蔡氏毎歎曰、羊叔子可謂能養今顔叔子也。其諸葛孔明之亞乎。 ――『太平御覽』巻五一三 三十国春秋に曰く、羊祜は十五歳にして父を失ったが、伯母である蔡氏に仕え、孝行で知られた。蔡氏はいつも歎息して、「叔子(羊祜のあざな)は古の顔回みたいだ。彼は諸葛孔明にも次ぐだろう」と言っていた。 逸話自体も興味深いんですけど、ちょっと面白いと思ったのはこの話に蔡氏という羊祜の伯母が登場することです。 ちょっと前から僕の周辺で、また「羊祜の母親は蔡文姫」って解釈が話題に上るようになって

    蔡邕の娘の子供の伯母 - 三国与太噺 season3
  • 安徽新闻-安徽新闻联播

    nagaichi
    nagaichi 2014/12/20
    安徽省宿州市の霊璧県。徐州の南のほうか。
  • 劉備と劉淵の関係(岩波新書『三国志演義』の誤記?) - 東京下町巡りと中国史・群龍天に在り(FC2版)

    管理人が生まれ育った東京下町の歴史を調査。最近では「江戸しぐさ」の調査も。原田実『江戸しぐさの正体』(星海社新書)の巻末参考文献にも出ています 2024.12 « 12345678910111213141516171819202122232425262728293031 » 2024.02 井波律子著『三国志演義』岩波新書、1994には、以下の様な記述がある。 「歴史上、たしかに劉淵という人物は実在する。(中略)しかし、この劉淵父子は漢と自称するものの、実は北方異民族の匈奴であり、もともと漢王朝や劉備とは縁もゆかりもない」 縁もゆかりもないというのは少々言い過ぎではないだろうか? このは誤りが多いなのだが、なにしろ大手出版社から有名学者の名前で出ているので影響力が未だに在り、私が先日、劉備と劉淵の話をガジェット通信に書いたところ、「平話の話は虚構でしょう」という声が読者から寄せられた。

    nagaichi
    nagaichi 2014/05/16
    うーん、「漢氏の甥」は、白登の敗戦の後、漢の高祖劉邦が冒頓単于に公主をとつがせて、兄弟を約したことが念頭にあるんじゃないですかね。
  • 『漢晋春秋』の蜀漢正統論 - 三国与太噺 season3

    中村圭爾先生の「魏蜀正閏論の一側面」(『六朝政治社会史研究』(汲古書院、2013)収録)を読んだ感想であります。 習鑿歯『漢晋春秋』の蜀漢正統論は、『四庫提要』が言うように蜀漢と同様に亡命政権を建てた東晋の正統性を主張するため、と解釈されてきました。あるいは『晋書』習鑿歯伝の言う、桓温の野心に対する牽制ともされます*1。 でも中村先生は、更なる習鑿歯の真意に踏み込みます。自分が興味を感じたところをまとめますと、以下の通りです。 習鑿歯『漢晋春秋』は漢から晋の継承を主張する。魏は僭称にすぎず、また蜀漢は正統なる漢の一部である。しかし習鑿歯の真意はあくまで「尊晋」にあり、その点では陳寿『三国志』と同様である。共に「尊晋」を目的にしながら、陳寿は魏を正統とし、習鑿歯は漢(蜀)を正統とする。 陳寿が「尊晋」のために魏を正統とする理由は、司馬炎が魏から受禅したことを重視するから。しかし習鑿歯は、魏の

    『漢晋春秋』の蜀漢正統論 - 三国与太噺 season3
  • 敦煌市抢救性发掘敦煌至格尔木铁路沿线古墓__中国甘肃网

  • 2012年12月25日のつぶやき - 思いて学ばざれば

    2012年12月25日のつぶやき - 思いて学ばざれば
    nagaichi
    nagaichi 2012/12/27
    「司馬覲の字は『祖父の諸葛瑾を思慕する』、司馬繇の字は『諸葛玄を思慕する』という意味である…という説」<地味にワロタ;その発想はなかった;
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