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ブックマーク / iiwarui.blog90.fc2.com (82)

  • 「孕石の一番槍を見たぞ!」

    Louis
    Louis 2022/06/05
    「孕石源右衛門は小瘡を煩い、行歩は不自由で、殊のほか痛んだ。三方ヶ原合戦の時、孕石は馬から下りることができず、下人に負われ槍場まで参り、ひたと這い出て人より先へ行き、一番槍を合わせて、名乗りをあげた」
  • 畠山義春さん、甲陽軍監を聞いて

    Louis
    Louis 2022/06/05
    「寛永十二年の事、ある人が義春の元に甲陽軍監を持って来、これを読み聞かせた。義春、聞いて「その本の内容は、殆ど間違えている」」
  • 信濃の黒姫伝説

    Louis
    Louis 2017/03/19
    「高梨政盛、娘をドラゴンにもってかれるの事」
  • 大阪方の撤退と真田幸村(信繁)・悪い話

    Louis
    Louis 2016/11/28
    改めて『真田丸』のメンバーに当てはめると、凄くしっくりくる(笑)
  • 宮本武蔵の娘

    Louis
    Louis 2014/03/11
  • 山本勘助と氏真

    Louis
    Louis 2011/11/01
    「軍使」「軍配者」に興味が
  • 保科正之と白岩一揆

    Louis
    Louis 2011/10/26
    珍しい「保科正之の悪い話」。コメント欄の「最上の善政」に関する考察も面白い。
  • 細川家「古田織部は…」

    2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板  http://ikura.2ch.net/sengoku/ 178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 11:05:38.81 ID:59//tCDO いい話か微妙だが 天正7年(1579)9月、雲林院式部大輔を主将とする三千が篭る丹波鬼ヶ嶽城を攻めていた明智光秀のもとに、 細川忠興が重臣・松井康之等の手勢を率いて駆けつけた。光秀は、婿の加勢を喜んだ。 「では忠興殿、大手門(表口)を攻め候え!」 「手柄の機会を回していただけるか、かたじけない。」 だが、光秀の命に従わない者もいた。 「ふっ、馬鹿正直に大手から攻めていては、いつ落とせるか分からぬわ。」 細川家臣の古田左助は、城の裏山から搦手門(裏口)を打ち破って攻める事を企て、山の間道へ押し入った。 左

    細川家「古田織部は…」
    Louis
    Louis 2011/10/25
    そういえばあの対談は単行本に入ったのかしら
  • 伝統の処刑法

    2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板  http://ikura.2ch.net/sengoku/ 734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 20:20:51.50 ID:jT3E161s 伝統の処刑法 太閤秀吉の側室の1人が病気になった。 秀吉は彼女にいくらかの金銀を持たせ、療養のために実家に帰してやった。 しかしここで不幸な誤解が起こる。 彼女は「もはや側室ではなくなった」と誤解してしまったのだ。 そして別の男と再婚し、一子を儲けた上、秀吉に挨拶しに来てしまったからさあ大変。 「久しぶりじゃな。一体どこにいたのか」 「夫の家です」 「……は?」 「 ノ コ ギ リ 挽 き じ ゃ !」 夫婦は1の柱に縛り付けられた状態で、腰まで地面に埋められ、竹製のノコギリと共に放置された。 しかし

    伝統の処刑法
    Louis
    Louis 2011/10/25
    こんな話題でも顔を出す鬼武蔵さんパねぇっすなぁ
  • ある時、太閤秀吉が真っ赤な小袖を着て

    2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板  http://ikura.2ch.net/sengoku/ 61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/11(火) 19:37:46.62 ID:L41Orn/J ある時、太閤秀吉が真っ赤な小袖を着て、諸大名に披露した。「どうじゃ、この小袖は!」 さっそく細川幽斎が一首を詠み上げた。 “ほのぼのと 赤き小袖を 召す時は 皺隠れ行く 御年若さよ” (柿人麻呂の“ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ”が歌。 「舟をも見せぬ朝霧ならぬ、皺をも見せぬ小袖を見たぞ。殿下の若々しいことよ」) 「おう、良く詠んだ。」すかさず秀吉は小袖を脱ぎ、褒美として幽斎に与えた。 “下さるる 小袖の丈の 長ければ かたじけなさは 身にぞ余れる” (「下されたこの小袖の丈

    ある時、太閤秀吉が真っ赤な小袖を着て
    Louis
    Louis 2011/10/21
    確かにラッパーっぽいバトル!
  • 『秀吉の大器』

    Louis
    Louis 2011/10/11
    あの『へうげもの』のシーンも史実に由来するものだったんだ
  • 家康の徳川改姓

    2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板  http://ikura.2ch.net/sengoku/ 876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/11(月) 21:58:19.29 ID:pqLZfEf6 ちなみに佐竹は間違いなく清和源氏だけど、徳川氏が清和源氏という関連でこういう話が伝わっている。 時は1566年。やっと三河をまとめあげた松平家康が突如 「今日からウチは徳川家だからね。そこんとこよろしく」と宣言した。 突然のことに目を白黒させる家臣の前に家康が取り出したのは一枚の家系図。 それによると徳川の御先祖様は八幡太郎の弟、新羅三郎義光の甥の子のそのまた子供の末子らしい。(ややこしいw) で、その御先祖、義季が上野国徳川郷に領地したことから「徳川氏」と名乗れるらしい。 なるほど、ウチは源氏直系でご

    家康の徳川改姓
    Louis
    Louis 2011/04/12
    前々から気になってた話。
  • 鮭延の忠心・いい話

    Louis
    Louis 2010/07/12
    最上家=鮭、というのは歴史板では常識らしい、知らなかった
  • 「十左衛門火」

  • 南部利直とその家臣、北信景・悪い話

    2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板  http://ikura.2ch.net/sengoku/ 296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/23(月) 09:30:50 ID:AISn4vDq 南部利直の家臣に北信景という男が居た 彼は名臣北信愛の甥で南部盛岡藩の金山奉行を勤めた有能な人物である ある日、利直の事に小石が混じっていた これに激怒した利直は小姓をしていた信景の子の十蔵に料理人の手打ちを命じた しかし十蔵、料理人の必死の抵抗にあって重傷を負い死亡してしまう これに信景は「元服前の若輩に命じる事か!」と激怒し出仕しなくなってしまう これに利直も激怒、閉門処分とし職責を剥奪してしまう こうなると収まりがつかない信景はついに高野山へ出奔してしまうのである そして大坂冬の陣 大坂城内に派手な甲

    南部利直とその家臣、北信景・悪い話
  • 茶会での友情・刑部の涙

  • 「虎」の由来

    2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板  http://ikura.2ch.net/sengoku/ 454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/02(水) 14:02:41 ID:5XsmbjWZ 「虎」の由来 近江国愛知郡郷士三井出羽守乗綱の孫の源助は、十六歳で甲斐に渡った。 狩猟の帰路で源助を見た武田信虎は、その人品風格が秀でているのを見て、 直ちに部下に採用して騎馬の従者とした。 源助(後に与右衛門)は信虎の下に三年いて、 しばしば戦功を挙げたので信虎の一字を賜って「虎高」と命名された。 たまたま母衣二〇騎の一人が欠けていたのでこれに充てがったが、 他の者が虎高が年少な事を軽視してしきりに不満を訴えたため、 信虎はやむをえず虎高を故郷に帰した。 帰郷した虎高は浅井亮政に仕え、亮政配下の越後守良隆の

    「虎」の由来
    Louis
    Louis 2010/06/11
    「系図を見ると虎高実家の三井家と越後屋の三井家(三井財閥家)って案外近い一族なんだね。 藤堂藩は融資とか有利にしてもらえたのかな?」
  • 宇喜多秀家と矢野五郎右衛門

    Louis
    Louis 2010/06/11
    「実際のところ、関ヶ原敗戦からの宇喜多秀家の逃亡過程ってかなり謎で、殆どわかっていない ようなのですが、その過程でこんな事もあったのかもしれない、と思わせるお話です」
  • 関ヶ原、大津城攻防戦、忍者が旗を盗んだら

    2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板  http://ikura.2ch.net/sengoku/ 91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 02:04:46 ID:JRW2rGsg 関ヶ原の、大津宰相京極高次守る大津城を、西軍末次元康、毛利秀包、立花宗茂らが攻めた 大津城攻防戦。 慶長五年(1600)9月9日の申酉の刻(17時ごろ)より11日まで、西軍は攻撃を仕掛け、 昼夜を隔てず攻め立てたが、城方も良く守った。 そこで9月12日は諸隊の者を休息させ、13日に総攻撃を仕掛けようと、 そのように軍議にて決定した。 ところがその12日の早朝、毛利の陣に大津方の忍びが侵入、旗二を奪って帰ると、 城の者達は城壁からその旗を立てて、「攻め手の者達は大切な旗を盗まれぬ間抜けたちだ」と 大いに嘲笑した

    関ヶ原、大津城攻防戦、忍者が旗を盗んだら
    Louis
    Louis 2009/11/12
    「誤解で立花軍の総攻撃食らうとか涙目すぎる」
  • 高橋紹運、息子への最期の言葉。