2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板 http://ikura.2ch.net/sengoku/ 178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 11:05:38.81 ID:59//tCDO いい話か微妙だが 天正7年(1579)9月、雲林院式部大輔を主将とする三千が篭る丹波鬼ヶ嶽城を攻めていた明智光秀のもとに、 細川忠興が重臣・松井康之等の手勢を率いて駆けつけた。光秀は、婿の加勢を喜んだ。 「では忠興殿、大手門(表口)を攻め候え!」 「手柄の機会を回していただけるか、かたじけない。」 だが、光秀の命に従わない者もいた。 「ふっ、馬鹿正直に大手から攻めていては、いつ落とせるか分からぬわ。」 細川家臣の古田左助は、城の裏山から搦手門(裏口)を打ち破って攻める事を企て、山の間道へ押し入った。 左
2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板 http://ikura.2ch.net/sengoku/ 734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 20:20:51.50 ID:jT3E161s 伝統の処刑法 太閤秀吉の側室の1人が病気になった。 秀吉は彼女にいくらかの金銀を持たせ、療養のために実家に帰してやった。 しかしここで不幸な誤解が起こる。 彼女は「もはや側室ではなくなった」と誤解してしまったのだ。 そして別の男と再婚し、一子を儲けた上、秀吉に挨拶しに来てしまったからさあ大変。 「久しぶりじゃな。一体どこにいたのか」 「夫の家です」 「……は?」 「 ノ コ ギ リ 挽 き じ ゃ !」 夫婦は1本の柱に縛り付けられた状態で、腰まで地面に埋められ、竹製のノコギリと共に放置された。 しかし
2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板 http://ikura.2ch.net/sengoku/ 61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/11(火) 19:37:46.62 ID:L41Orn/J ある時、太閤秀吉が真っ赤な小袖を着て、諸大名に披露した。「どうじゃ、この小袖は!」 さっそく細川幽斎が一首を詠み上げた。 “ほのぼのと 赤き小袖を 召す時は 皺隠れ行く 御年若さよ” (柿本人麻呂の“ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ”が本歌。 「舟をも見せぬ朝霧ならぬ、皺をも見せぬ小袖を見たぞ。殿下の若々しいことよ」) 「おう、良く詠んだ。」すかさず秀吉は小袖を脱ぎ、褒美として幽斎に与えた。 “下さるる 小袖の丈の 長ければ かたじけなさは 身にぞ余れる” (「下されたこの小袖の丈
2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板 http://ikura.2ch.net/sengoku/ 876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/11(月) 21:58:19.29 ID:pqLZfEf6 ちなみに佐竹は間違いなく清和源氏だけど、徳川氏が清和源氏という関連でこういう話が伝わっている。 時は1566年。やっと三河をまとめあげた松平家康が突如 「今日からウチは徳川家だからね。そこんとこよろしく」と宣言した。 突然のことに目を白黒させる家臣の前に家康が取り出したのは一枚の家系図。 それによると徳川の御先祖様は八幡太郎の弟、新羅三郎義光の甥の子のそのまた子供の末子らしい。(ややこしいw) で、その御先祖、義季が上野国徳川郷に領地したことから「徳川氏」と名乗れるらしい。 なるほど、ウチは源氏直系でご
2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板 http://ikura.2ch.net/sengoku/ 296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/23(月) 09:30:50 ID:AISn4vDq 南部利直の家臣に北信景という男が居た 彼は名臣北信愛の甥で南部盛岡藩の金山奉行を勤めた有能な人物である ある日、利直の食事に小石が混じっていた これに激怒した利直は小姓をしていた信景の子の十蔵に料理人の手打ちを命じた しかし十蔵、料理人の必死の抵抗にあって重傷を負い死亡してしまう これに信景は「元服前の若輩に命じる事か!」と激怒し出仕しなくなってしまう これに利直も激怒、閉門処分とし職責を剥奪してしまう こうなると収まりがつかない信景はついに高野山へ出奔してしまうのである そして大坂冬の陣 大坂城内に派手な甲
2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板 http://ikura.2ch.net/sengoku/ 454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/02(水) 14:02:41 ID:5XsmbjWZ 「虎」の由来 近江国愛知郡郷士三井出羽守乗綱の孫の源助は、十六歳で甲斐に渡った。 狩猟の帰路で源助を見た武田信虎は、その人品風格が秀でているのを見て、 直ちに部下に採用して騎馬の従者とした。 源助(後に与右衛門)は信虎の下に三年いて、 しばしば戦功を挙げたので信虎の一字を賜って「虎高」と命名された。 たまたま母衣二〇騎の一人が欠けていたのでこれに充てがったが、 他の者が虎高が年少な事を軽視してしきりに不満を訴えたため、 信虎はやむをえず虎高を故郷に帰した。 帰郷した虎高は浅井亮政に仕え、亮政配下の越後守良隆の
2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板 http://ikura.2ch.net/sengoku/ 91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 02:04:46 ID:JRW2rGsg 関ヶ原の、大津宰相京極高次守る大津城を、西軍末次元康、毛利秀包、立花宗茂らが攻めた 大津城攻防戦。 慶長五年(1600)9月9日の申酉の刻(17時ごろ)より11日まで、西軍は攻撃を仕掛け、 昼夜を隔てず攻め立てたが、城方も良く守った。 そこで9月12日は諸隊の者を休息させ、13日に総攻撃を仕掛けようと、 そのように軍議にて決定した。 ところがその12日の早朝、毛利の陣に大津方の忍びが侵入、旗二本を奪って帰ると、 城の者達は城壁からその旗を立てて、「攻め手の者達は大切な旗を盗まれぬ間抜けたちだ」と 大いに嘲笑した
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