タグ

ブックマーク / aruiha-shikashi.hatenadiary.org (2)

  • 風琴工房「記憶、或いは辺境」@池袋シアターKASSAI - 或いは、然し

    先週の土曜日夜に見てきた。役者も巧かったし、面白かった。風琴工房の公演を見るのは3度目。 舞台は1945年、樺太。当時、日統治下にあった朝鮮。戦時下の樺太には日人も朝鮮人も同じ日人として労働に来ていた。日の敗戦によって朝鮮は日国の属国ではなくなる。しかし、樺太はソビエトに侵攻され、その関係で、日人は内地に帰ることができたが、主に南朝鮮の人々は帰ることが許されなかった。「記憶、或いは辺境」はその歴史的事実を背景とした、とある日人一家と朝鮮人たちの友情と愛情の物語。個人のちいさな営みが、大きな歴史の矛盾にすりつぶされていく姿を描いた詩森ろばの代表作です。 http://windyharp.org/henkyo/info.html 軸になっているのは、国家の障壁に隔てられた恋愛の物語であり、運命に翻弄され引き裂かれる男女、という古典的なもの。しかし代表作の再演というだけあって、しっ

    風琴工房「記憶、或いは辺境」@池袋シアターKASSAI - 或いは、然し
  • 芸術作品としての秋葉原通り魔事件 - 或いは、然し

    個別事例と全体の傾向とは、別である。誰かが人を殺したのは、むしゃくしゃしてやっただけのことかもしれないし。たとえば非正規雇用問題について語りたいなら、統計を見ればいい。その集合に属するたった一つの個体の行動に、なぜこだわってアレコレ言う必要があるのか。人殺しが登場してもしなくても、問題は問題として、そこに厳然としてあるはずではないのか。決して「平均」ではないものを「典型」として取り出すことを、何が許すのか。いかにして一つの事件、一つの行為が、象徴――「そこに無いものの代わり」としての役割を果たすのか。現代的貧困の犠牲者として彼を扱うことは、不謹慎な政治戦略だろうか。 事件は、作品である。それは、〈語らい〉を引き起こすことによって、〈出来事〉として現れる。批評を通して、芸術が芸術たりうるように。私たちは、一枚の絵、一篇の小説を以って、あるいはまた、殺人事件を以って、社会を、時代を、捉える。む

    芸術作品としての秋葉原通り魔事件 - 或いは、然し
    bulldra
    bulldra 2009/06/09
  • 1