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近代と中世に関するnagaichiのブックマーク (23)

  • 考古学者、人類学者、作家、アイヌ、さまざまな立場からのコメント、切り抜き|ヘンテコだよねノート

    項は考古学者や人類学者、作家、またはアイヌがどのようにアイヌ、北海道歴史文化、現代のアイヌ民族を捉えているかを、紹介するnoteです。 あえてこのようなページを設けるのにも意味があり、今回紹介した研究者の方やアイヌ民族の方の何人かは、時に前後の文脈を無視してあたかもアイヌ民族に対して否定的な言説を言っているかのように切り取られることがあるからだ。 そうです。読めば、考古学者や研究者の立場からは、皆さんほとんど同じことを言われている。 また、さまざまな立場からのコメントは物事が立体的になり、直接的に差別の現状を語ったコメントはなくても、行間からその憂いや深い傷が浮かぶ。 ページの最後に『明日に向かって/アイヌの人びとは訴える』のnoteへのリンクを載せた。50年前のアイヌ民族の苦労と厳しい差別を当事者たちから聞き取った勇気ある先住民たちの記述書だ。人間同士が差別し合うようなことが二度と

    考古学者、人類学者、作家、アイヌ、さまざまな立場からのコメント、切り抜き|ヘンテコだよねノート
  • ご幼少のみぎりの髑髏 - 国家鮟鱇

    頼朝も最初もぉ嫌がってたんや。今さらそんな兵挙げてね、攻めて勝てる や負けるや分らん、面倒くさい。ところが、文覚上人、切り札としてお父さ まの源義朝の頭蓋骨をそれへズボッと出して「さぞ、お父上は無念でござい ましたでしょ〜」 それ見るなり頼朝が「ん、骨のあるやつ」洒落ておりますな「髑髏(しゃ れこぉべ)」どこまでいくねん。でも、なんか見たらお父っつぁんのより小 (ち)っこかったらしぃ、疑問に思った頼朝「どぉも父上のにしたらちょっと 小っさいのんとちゃう?」すると文覚上人答えていわく「それはお父上さま の子どもの頃のもの」 ⇒【上方落語メモ第5集】その224 / 袈裟御前 元になった話は『平家物語』にある源義朝の髑髏。 『平家物語』巻5「福原院宣」  伊豆に流された文覚が、源頼朝に平家討伐の挙兵を勧め、懐から髑髏を取り出して見せる。文覚は「これこそ父君義朝公の頭。平治の乱の後、苔の下に埋もれ

    ご幼少のみぎりの髑髏 - 国家鮟鱇
  • 明治時代の地図で見た関東の城

    歴史的農業環境閲覧システムでは明治時代の地図(関東平野迅速測図)を見れるので、城が明治時代はどうなっていたかを見てみた ■歴史的農業環境閲覧システム https://habs.rad.naro.go.jp/habs_map.html?zoom=13&lat=35.46438&lon=139.62533&layers=B0 2023/2/20:9城追加しました。

    明治時代の地図で見た関東の城
  • 干ばつのイタリア、川の水位低下で遺跡出現 | Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン)

    イタリアでは一部地域がここ70年で最悪の干ばつに見舞われており、河川の水位が低下したことで、これまで水没していた考古学的な遺構や遺物が出現している。 同国北西部ロンバルディア州にあるポー川の支流オーリオ川では、干上がった川底から、紀元前2300~700年の青銅器時代の建築物の支柱が出現した。同州のコモ湖では、湖底から約10万年前の大型の鹿の頭蓋骨や、サイ、ハイエナ、ライオンの骨が発見された。 北東部エミリアロマーニャ州のポー川沿いにある野生生物保護区では、第2次世界大戦時に沈没した船2隻の残骸が現れた。ベネチアのジュデッカ造船所で建造されたもので、1943年にドイツの攻撃を受けて沈没していた。ポー川ではさらに、第2次大戦中の1944年に米国の爆撃により沈没した長さ55メートルの荷船も姿を現した。 ポー川の主要な支流の一つである北部ピエモンテ州のセージア川では、赤れんがの遺跡が水中から現れ、

    干ばつのイタリア、川の水位低下で遺跡出現 | Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン)
  • https://twitter.com/toyamanoteiou/status/1509124929358540802

    https://twitter.com/toyamanoteiou/status/1509124929358540802
    nagaichi
    nagaichi 2022/03/31
    中世・近世の朝廷って、何かしらの儀礼を行うための資金にも常に事欠いていて、武家の援助を仰いでいた印象があるし、有職故実から逸脱して大昔の天皇を祀ろうなどという意気もなかったんじゃないかな。
  • 世界遺産:古代都市カホキアとは何か? その歴史と謎

    推定62万立方メートル分の土から作られた高さ約30メートルのモンクス・マウンド。米国のカホキア墳丘群州立史跡で最も高い建造物だ。(IRA BLOCK/NATIONAL GEOGRAPHIC IMAGE COLLECTION) 米国イリノイ州、ミシシッピ川の東に、先住民が築いた大都市の遺跡がある。カホキアだ。西暦1000年から1200年代の最盛期には、この都市は面積約16平方キロメートルに達し、住民たちは墳墓や公共建造物、さらには「ウッドヘンジ」と呼ばれる天文観測所を建設した。 なかでも大きな存在感を放っていたのは、メキシコ以北最大の土塁であるモンクス・マウンドだ。複数の段からなるこの墳丘は、約30メートルもの高さにそびえていた。 カホキアの墳丘群は、その昔、メキシコの砂漠と北極圏に挟まれた地域において最大規模をほこった「ミシシッピ文化」の核となる遺跡だ。農業文明であるミシシッピ文化は、西暦

    世界遺産:古代都市カホキアとは何か? その歴史と謎
  • 中世から近世の法的文書に羊皮紙が使われていた理由とは?

    ヒツジの皮から作られる羊皮紙や、ウシの皮から作られるベラムなど、植物の繊維を絡ませながら平らに成形した紙が発明されるまでは、さまざまな種類の動物の皮が筆写に用いられてきました。エクセター大学で考古学を研究するショーン・ドハティ氏率いる研究チームが、中世から近世にかけて作成された法的文書の大部分が羊皮紙を用いていたことを発見し、ヒツジの皮が法的文書の記載に適していた理由を考察しています。 Scratching the surface: the use of sheepskin parchment to deter textual erasure in early modern legal deeds | Heritage Science | Full Text https://heritagesciencejournal.springeropen.com/articles/10.1186/s

    中世から近世の法的文書に羊皮紙が使われていた理由とは?
    nagaichi
    nagaichi 2021/03/28
    「1582年から1940年にかけて」だと、「近世から近代の」というほうが適切ではなかろうか。
  • ルーン文字の遍歴 1 | 研究社 WEB マガジン Lingua リンガ

    ルーン文字という言葉を聞いた時、私たちは何を思い浮かべるでしょうか。なんだかよくわからないけれども、何かしら念の込められた魔法の文字、というような印象でしょうか。実を言えば、私はそうでした。そうでした、と言っては不正確かもしれませんが、長らくそのように思っていました。 私が初めてルーン文字なる不可思議な文字の存在を意識したのは、中学校の頃だったと思います。ちょうど、ドラゴンクエストとかファイナルファンタジーとかいったファミコン用の RPG ゲームが登場する時代でした。中世ヨーロッパ風の剣と魔法の世界です。それらに代表されるゲームでは、しばしばルーン文字が、いやルーン文字と名付けられた文字列が使われていました。今思うと、クリエイターたちが見様見真似でゲームの世界に放り込んだ適当な作りの文字体系であったのかもしれませんが、私は、剣と魔法とルーン文字はセットだと思うようになっていました。 それに

    ルーン文字の遍歴 1 | 研究社 WEB マガジン Lingua リンガ
  • SOW@新刊12月発売 on Twitter: "そういや、現在FGOで大人気な紫式部さん。 まさか死後千年を経て、グラマーな水着美女としてTVCMに出るたぁお釈迦様でも思うめぇなと思ったんですが、この人の「死後」のアレコレも大変だったんですよね。 https://t.co/Y2OmN6MGz1"

    そういや、現在FGOで大人気な紫式部さん。 まさか死後千年を経て、グラマーな水着美女としてTVCMに出るたぁお釈迦様でも思うめぇなと思ったんですが、この人の「死後」のアレコレも大変だったんですよね。 https://t.co/Y2OmN6MGz1

    SOW@新刊12月発売 on Twitter: "そういや、現在FGOで大人気な紫式部さん。 まさか死後千年を経て、グラマーな水着美女としてTVCMに出るたぁお釈迦様でも思うめぇなと思ったんですが、この人の「死後」のアレコレも大変だったんですよね。 https://t.co/Y2OmN6MGz1"
  • なぜイングランドでは数世紀にわたりオックスフォード大学とケンブリッジ大学以外の大学が設立されなかったのか?

    by llee_wu ヨーロッパでは中世から近世にかけて多くの大学が設立されましたが、グレートブリテン島の3分の2を占めるイングランドでは、19世紀初めまでオックスフォード大学とケンブリッジ大学の2校しか大学がない状況が続きました。一体なぜこのような複占が続いたのかについて、歴史学者のウィリアム・ホワイト氏が解説しています。 The Medieval University Monopoly | History Today https://www.historytoday.com/miscellanies/medieval-university-monopoly 1686年、チャールズ・モートンという聖職者がイングランドを逃れ、アメリカへとわたりました。当時60歳だったモートンはある訴訟を回避するためにアメリカへと脱出したのですが、なんとモートンが犯した罪とは「ロンドン北部に住む人々に講義を

    なぜイングランドでは数世紀にわたりオックスフォード大学とケンブリッジ大学以外の大学が設立されなかったのか?
  • ペヴェンジー城”Pevensey Castle”~イングランド沿岸防衛の要衝の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    「ペヴェンジー城全景」 Pevensey_Castle_aerial_view.jpg: Lieven Smitsderivative work: Hchc2009 / CC BY-SA(wikimedia commonsより) ペヴェンジー城は古代ローマ時代の砦の跡地に建てられている。アンデリトゥム” Anderitum”またはアンデリダ” Anderida”の名で知られるこの砦は、ローマ帝国支配下ブリタニア属州時代の西暦290年頃(注1)に築かれ、沿岸防衛の基地としてローマ帝国艦隊が駐留していた。現在は平地が広がって海岸線より内陸に位置しているが、当時は海岸に突き出した半島上に位置していた。 三世紀末、ブリタニア属州を統治していた将軍がカラウシウスである。西方皇帝マクシミアヌス帝(在位286~305年,306~308年)は北海沿岸の防衛強化のため、ブリタニア属州でカラウシウスを司令官と

    ペヴェンジー城”Pevensey Castle”~イングランド沿岸防衛の要衝の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • ジャンヌ・ダルクの肖像画・絵画まとめ

    オルレアンが解放されて二日後の1429年5月10日、イングランド統治下のパリ高等法院書記クレマン・ド・フォーカンベルグは、ジャンヌ・ダルクの噂を耳にして、毎日の訴訟事件や判決ほか様々な出来事を記載する業務日報的な記録簿の欄外に、想像で剣を腰につるし旗を掲げたジャンヌ・ダルクの素描を落書きした。描かれたジャンヌ・ダルクとしてはこれが最初のものであるが、あくまでフォーカンベルグの想像上の姿であって、実際の姿ではない。ただ旗印のデザインや帯剣していることなど、少なからずジャンヌについての情報を持っていたと推定されている。フォーカンベルグは以下のように記録を残している。 「五月十日、火曜日。この日パリでは次の噂が語られている。去る日曜日、王太子の多数の軍勢は激しい攻撃を繰り返した末、イギリス国王の隊長や兵士らが守る砦に入り込み、ロワール川にかかるオルレアンの橋の対岸の塔も奪った、と。・・・・・・人

    ジャンヌ・ダルクの肖像画・絵画まとめ
    nagaichi
    nagaichi 2018/09/28
    最初は記録の挿絵だったものが、後世には歴史画・宗教画のモチーフとして定着したものか。写実的絵画は一枚もない悲しみ。
  • 黒猫はなぜ不吉とされるのか - 歴ログ -世界史専門ブログ-

    は悪魔の化身?幸運のシンボル? 「黒が目の前を横切ると不吉」という迷信は一度は聞いたことがあると思います。 キリスト教圏の国々では、黒は長い間魔女伝説の迷信とセットになって考えられたため、不幸と厄災をもたらすとされました。 一方で、イギリスの一部では幸運をもたらすシンボルと考えられてきたし、日でも「夜でも目が見える」ことから商売繁盛や幸運のシンボルとなっていました。 歴史上、人々が黒をどのように認識してきたのかのあれこれを見ていきましょう。 1. 古代神話に登場する黒 古代ヨーロッパでは、黒は不吉な存在とは考えられていなかったようです。むしろ神秘的で、崇拝の対象ですらありました。 黒は普通のとは違っていると考えられていたようで、ケルト神話や北欧神話にも黒はたびたび登場し、人間並みの知恵を持っていたり、女神様に仕えていたりします。 代表的なのが、ケルト神話に登場する

    黒猫はなぜ不吉とされるのか - 歴ログ -世界史専門ブログ-
  • 『私、中世ヨーロッパ風のお部屋に住みたいの♡』と言っている人がイメージしているのは“中世”ではなく“近世”かもしれない

    『中世ヨーロッパ』と聞くとなんだか華やかな様式を連想してしまいがちですが、世界史を参考に実際の『中世ヨーロッパ』な部屋を見てみたら、想像していたのとは違うものが出てくるかもしれません…。

    『私、中世ヨーロッパ風のお部屋に住みたいの♡』と言っている人がイメージしているのは“中世”ではなく“近世”かもしれない
    nagaichi
    nagaichi 2017/06/12
    ところでアステカやインカのことを「古代」と呼ぶメディアを見ると、修正したくなるな。
  • 沈没船41隻を発見、驚異の保存状態、黒海

    黒海の水深300メートル地点で見つかったオスマン帝国の沈没船。ある調査船が発見した41隻の沈没船の1つだ。(PHOTOGRAPH BY RODRIGO PACHECO-RUIZ, COURTESY EEF, BLACK SEA MAP) 先史時代の人々が海面上昇にどう対応したかを探るため、船員と科学者の国際チームが黒海で調査を行っていたところ、予想外のものを発見した。9~19世紀の千年間に沈んだ、極めて保存状態の良い41隻の沈没船だ。(参考記事:「沈没船から17世紀の王家のドレス見つかる」) チームは約1万2000年前に起きた黒海の拡大について調べるため、ソナーと遠隔操作無人潜水機(ROV)で海底地形図を作成していた。沈没船が状態を維持できたのも、実はこの拡大のおかげだった。 英サウサンプトン大学海洋考古学センターの所長で、今回の研究を率いるジョン・アダムス氏は「約1万2000年前に最後の

    沈没船41隻を発見、驚異の保存状態、黒海
  • ハイヒールと中世と糞の話 | WTNB機関年代記

    ハイヒールと「道の糞」起源説 いつからか、どこからか、インターネッツの世界ではハイヒールの起源について一つの言説が広まっているように見えます。端的に言えば、以下の様なものです。 中世ヨーロッパでは溜たまった糞尿を窓から投げ捨てていたため、道に落ちた糞便を踏まないようにするためにハイヒールが生み出された。 あちこちで見かける言説なので、目にした方も多いかと思われます。さてそんな言説でありますが、皆々様はどう思われたでしょうか? 個々の要素は尤もらしくも見えますが、リテラシーの高い皆様から見てみますと、なんと言いますか、こう、文字と文字の間から与太話の匂いが漂ってきませんか? この手の言説は、お堅い歴史というよりは豆知識とかファッションとかそういう文脈で語られることが多く、そういう場でソースや参考文献が示されることもまずありません。 とは言え一方で、まとまった説明も世間には無いようですので、

  • 「ハンガリーHungary」と「フン族」の関係

    Cujka @tsujifolyam (そもそも彼らの自称は「マジャルmagyar」で、他言語での「ハンガリー」系の呼称(Hungary, Ungarn, Hongrois等)は全て他称。この時点で既に説明がおかしい。全然違う地域とはいえ近現代史や地域研究がご専門でフォロワーも多い方のツイートなので当に困る。) 2015-09-05 10:54:12

    「ハンガリーHungary」と「フン族」の関係
    nagaichi
    nagaichi 2015/09/06
    半可通の世界史好きが引っかかりそうな罠ではある。例えば俺レベルの。
  • 1941年、マグナ・カルタ寄贈計画 英内部文書公開へ:朝日新聞デジタル

    第2次世界大戦中の1941年、英国のチャーチル政権で米国の戦争協力を引き出そうと、「マグナ・カルタ(大憲章)」(1215年)の4部ある最古の写の一つを米国に寄贈する計画が浮上した。計画を裏付ける英政府の内部文書が13日、ロンドンの大英図書館で始まるマグナ・カルタ発布800周年の特別展で初めて一般公開される。 大英図書館などによると、文書は英外務省が作成。当時、ニューヨークでの展示を終えて米国内に留め置かれていた写を、まだ参戦していなかった米国に寄贈する計画だった。 文書には「わが国を守るために提案できるのはこれくらいしかない」とある。1776年建国の米国が中世ヨーロッパのルーツを示す書物を切望しているとの見方も書かれていた。だが、写は英東部の聖堂の所蔵で政府の一存で寄贈できず、46年に英国に戻った。 マグナ・カルタは、イングランド王の恣意(しい)的な課税など悪政に反発した貴族たちが、

    1941年、マグナ・カルタ寄贈計画 英内部文書公開へ:朝日新聞デジタル
    nagaichi
    nagaichi 2015/03/13
    戦中のイギリスが議会主義の正統性を示す古文書という箔を売ることで、アメリカの参戦を買おうとしたと。
  • 千年にわたる“良好な遺骨”がトスカーナで発掘

    イタリア、ルッカ近郊のバディア・ポッツェヴェリ墓地には、ルネッサンス時代を生きたこの遺骨の人物の他、修道士や村人たちが数世紀にわたり眠っている。(Photograph by Field School Pozzeveri/The Ohio State University/University of Pisa) ワイン、緩やかにうねる丘陵、美しい料理。イタリアのトスカーナ地方といえば魅力的な生活の代名詞だ。しかし、かつてはこの地の生活も過酷だった。 トスカーナ州ルッカ近郊のバディア・ポッツェヴェリ教会墓地で、1000年にわたる病と悲劇の歴史が刻まれた遺骨を考古学者が発掘した。遺骨は、1850年代にこの地方で猛威をふるい、多くの命を奪ったコレラの大流行についても知る手がかりとなりそうだ。 今回発掘された遺骨からは、骨感染症や虫歯、炭水化物中心の偏った事など、11世紀から数百年間にわたる、人々

    千年にわたる“良好な遺骨”がトスカーナで発掘
  • {本]『神皇正統記』 - Arisanのノート

    神皇正統記 (岩波文庫) 作者: 岩佐正出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 1975/11/17メディア: 文庫購入: 1人 クリック: 20回この商品を含むブログ (21件) を見る『神皇正統記』は、何度も内容の一部を書き換えられたり、改竄・重修されてきたらしい。 岩波文庫版の校注を行った岩佐正の解説によると、興味深いことに、南北朝時代にこのが世に出た当初、南朝方の人々ばかりではなく、こののイデオロギーとは敵対するはずの北朝方に属する東国の武士たちの間でも、この書物は広く読み伝えられたのだという。そこで、迫害を恐れたのか、足利幕府の支配体制に適合するように、北朝方の読者たちによってその内容に「加筆削除変更」が繰り返し行われるということがあった。 これが、古い時代における「修正」である。 だが、最も重大で無残な修正が行われたのは、幕末から明治以後にかけてだったようだ。それは、この時代

    {本]『神皇正統記』 - Arisanのノート