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ブックマーク / tahi.hatenablog.com (41)

  • きみが友達との楽しい時間のために、ひねり出した悪意について。 - 最果タヒ.blog

    屋さんで友達同士っぽい3人組が、棚に並んだ漫画について悪態をついていく、というシーンを見てしまった。最初、「そんなに仲良しではないのかな? 10年ぶりにあったとか?」なんてことを思って、それからなんだか悲しくなった。悪意に対して耐性がないわけじゃない。悪口ひどい!っていうかなしみでもない。絵柄や帯文に対して「こんなもん誰が読むんだ」「なんだこの帯文!」と、彼ら、とてもとても楽しく時間を過ごしていて、そうだよね、悪意はいつだって楽しいよね、とぼんやりと思う。悪意さえあれば、互いに踏み込むこともなく会話をトントンと進められる。彼らは屋に一人で来ていたなら、こんな悪態はつかないし、そもそも興味もない漫画をわざわざ見ようとは思わないのかもしれなかった。友達と簡単に楽しい時間を過ごすために、漫画を一つ一つ指差して、悪意をひねり出していただけだ。最初からその人たちの中にねむっていた質的な悪意でも

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  • 都心では、星より雲がまぶしい。 - 最果タヒ.blog

    夜というのは空洞みたいに見えて、あんがい、都会では詰まってしまっているの。星なんてほとんど見えないし、かといって、暗闇がひろがるかといえば、夜空の雲は人工灯の反射で白く輝き、闇を埋めてしまう。星もないのに、雲が輝くから、空はひどく低く見える。閉じ込められたみたいな心地になるから、天文学のを熱心に読んでしまう。 日21日の、読売新聞夕刊にて、詩「夜、山茶花梅雨」が掲載されています。わーいわーい。東京社版のみの掲載ですので、関東地方・山梨静岡の方はごらんになれます。そして、他の地域の方でも、お取り寄せできるかも…です!(詳しくはこちら)わーいわーいわわーい。そして、来月も、詩が掲載予定です!やったね!わーいわーいどんどこわーい! 山茶花梅雨というのは実在していて、それはこれからやってきます。

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  •  「好き」の優先順位 - 最果タヒ.blog

    わたしおべべ買うの好きなんだけれど、好き嫌いが激しすぎて、一回ZOZOにあるすべてのワンピースを見たことがある。そのときすきっぽい服を作っているブランドが2つぐらいあって、それを追いかけたりするようになったけれど、だからといって手放しでそのブランドが好きかと言えばそうでもなくて、あんまりぴんとこない服がほとんどで。だから、おしゃれなかんじに、好きなブランドはどこどことかいえなくて、さみしい。女子っぽくない。なんか傾倒してしまいたいよね。ブランドのロゴだけのエコバッグとかもって、これかわいいでしょーとか、意味分かんないこと言いたいよね。ほんといみわかんないよね。ロゴだし、それなら紙袋でよくない?とかおもうよね。ロゴがおそろしくかわいくて、正直服のデザインがそれに勝ててない、ってパターンもあるけど、稀。だいたいは盲目的よね。 で、それがわるいことかといえば逆で、きほんてきに、「このブランドだい

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  •  ついに第二詩集「空が分裂する」発売です!わーい - 最果タヒ.blog

    私たちは人間だから、さみしがり屋なんだよ。 詩集が発売されています。場所によってはまだなところもあるかもしれませんが、大型書店やネットショップではすでにある模様。わーい。うれしい!みなさまありがとうございます。いろんな人の力でとてもいいになったと思っています。ぜひ、あなたにお届けしたいです。屋さんで見かけたら、手に取ってみてくださいね。 詩/最果タヒ 絵/萩尾望都、片山若子、山直樹、大槻香奈、古屋兎丸 ワカマツカオリ、鬼頭莫宏、宮尾和孝、市川春子 板橋しゅうほう、志村貴子、小林系、西島大介、平沢下戸 伊藤真美、田辺ひとみ、皆川亮二、冬目景、KYOTARO、鈴木央 (連載時登場順・敬称略) 表紙写真/川島小鳥 別冊少年マガジンで2年ほど連載していた詩「空が分裂する」の単行化です。連載当時は私の詩にあわせて先生方に絵を書いていただいていたのですが、今回、にするにあたって、絵に触発され

  •  アンチコミュニケーションフォアユー - 最果タヒ.blog

    ついったーとかブログではちゃんと相手に伝わることを意識して書いているから結局作為的なものになっちゃう。そのまんまの自分の素朴な感覚的なものは、どうせ伝わんないんだろうって思ってて、だから詩にしかなんないしコミュニケーションなんて信じない。 言葉を使った表現をしている理由だって、コミュニケーションで使う言葉じゃ、なんにも表わせてないからなんだよ。コミュニケーションで使う言葉が自分にとってリアルなものであったなら、詩なんて書かないし、小説なんて書かないし。

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  •  しょうらいのゆめは絶対に叶わない。 - 最果タヒ.blog

    子供の頃はだれも信用ができなくて、だからすべてができる大人になりたかった。隕石がおちてくることを世界の組織に内緒にされるのが嫌で、世界の中枢にいるような研究者になりたかったし、医者の掌に親や大事な人の命をのせざるをえないのが嫌で、医者になりたかったし、他人が決める流行に流されるのが嫌で、流行を作る側になりたかった。それらすべてをかなえることが無理だって知った時、社会はみんながそれぞれ部品になって、おのおのの役割を担うという意味を理解したし、それが支えあうということなのだと知った。さて、そんな私がどれか一つだけ役割を担うならどうしようと思ったとき、だれもが必要とはしていないけれど、そういうのがあってもいいよ、と軽く思っていそうな、「書く人」を選んだことは、たぶんいろんな意味があったのだろうと思う、私の中で。

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  •  疲労がすべての感情の最たるものかもしれないね - 最果タヒ.blog

    古いか否かでいえば、苦しみを吐露しないことを美徳とすることも、苦しみを吐露することを泥臭いと知りながらも吐露してしまうという美徳も、どちらも古いようにおもう。というより、もはや後者は成立しなくなっている。美徳を吐露することは泥臭い、という先入観が人から消えつつあるからだ。昔は、苦しみの吐露に対する「美しくない」「泥臭い」という感覚が多くの人に存在しており、だからこそ「泥臭い」とわかっていながらも批判されながらも、耐えられず吐露せざるを得ない所に「苦しみの吐露」の別の美しさが生まれていた。けれど、今では「苦しみの吐露」の美しさは世の中に浸透して、昔ほど異質でもなく、批判される存在でもなくなった。「泥臭い」という自覚も批判も少なくなり、「わかっていながらも耐えられなくて吐露する」という状況が成立しなくなってる。そんんな今になって、泥臭いという自覚も他者からの批判もなく、はじめから「美しいこと」

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  •  「殺すよりひどい」 - 最果タヒ.blog

    「君は男に生まれてたら雰囲気だけバンドを目標もないのにだらだらやって、それなりの人気は得るけど結局身内受けで終わり、複数の彼女を作ったりもするけど気で惚れた女性には振り向かれず、その挫折からバンドもやめて、CDショップでバイトしてずるずるいつないでそう」「さ、最低やないか!」 氷菓、見てますよ。3話からの展開がとても好みでした。5話で話はひと段落つきましたがとてもよかったなあと思います。あの、例のあれの、残酷さは少し、薄れて感じ取れましたけれども。冷静に考えれば殺人事件よりもある種ずっと、残酷であると思いました。生殺しではありませんか? ずるくて言い訳がましい人間らしい人たちと一緒にいて、自分だけじゃないんだと安心して生きていくか、美しい生き方をしている人たちにかこまれて、自己嫌悪に苛まれて生きていくかならば、後者を選ぶよ。選び続けたいから、強くなるよ。 きれいな心というものが、当に

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  •  ウォォォォォ!ウォーリーを探すなぁぁぁぁ! - 最果タヒ.blog

    天才にも、お金持ちにも、できる人間にも、IQが高い人にも気遣いのできる人にもいい女にも器の広い大人にも、なれなくていいから、まっしろに戻りたい。 すべてのものにたいして、ありのままの姿を見つめられ続けた、あの、小さなころに戻りたくて、生きているよ。それなのに日に日に遠ざかっていく気がする。「子供の心を持ったままで大人になった」なんていうけれど結局それは妥協で、欲や夢や知恵やあきらめにがんじがらめになっているのだ。こうやって、センチメンタルに私が考えているけれど、きっとその想像よりもずっとずっと、末期なんだろう。あの頃のことなんて、忘れちゃっているという自覚はある。けれど、その想像以上に、なんにも、なんにも覚えていないんだろう。

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    shimomurayoshiko
    shimomurayoshiko 2012/05/25
    “天才にも、お金持ちにも、できる人間にも、IQが高い人にも気遣いのできる人にもいい女にも器の広い大人にも、なれなくていいから、まっしろに戻りたい”
  •  きんかんにっしょく、略して「きんにく」 - 最果タヒ.blog

    太陽すらも直視できない目だなんて。なんだか屈辱的ね。結局人類はただの、地球の副産物でしかないのよ。 生物を重んじるのは、生物だけなのよ。これこそがナルシシズムなのよ。 はじめからだれも信じないほうが傷つかない、というのは嘘で、信じて裏切られて、他人によって傷つくか、誰も信じられない自分によって傷つくか、そのどちらかでしかないよーな。どうやったって傷つくんだから、予防のことを考えるぐらいなら、治療について考えたほうがいいよーな気がする。 「事実は小説より奇なり」というけど、虚構だと「ご都合主義」とか「突拍子がなさすぎる」となってしまう展開が、現実で起きた場合には「奇跡」としてもてはやされるのだから当たり前のことだと思った。現実は物語として破たんしているし、だからこそ、現実での「できすぎた物語」は許されるのかな。

     きんかんにっしょく、略して「きんにく」 - 最果タヒ.blog
    shimomurayoshiko
    shimomurayoshiko 2012/05/21
    “太陽すらも直視できない目だなんて。なんだか屈辱的ね。結局人類はただの、地球の副産物でしかないのよ”
  •  論理は人の外側にある。 - 最果タヒ.blog

    昨日の夜は急に天井がミシミシミシミシ言い出して怖かったから、大音量で恋愛サーキュレーションを再生した。 ツイッターで考えばかり長く書くようになってしまって、正直息苦しく、まあでもそれしか書くことがないっていうか、ツイッターで書く時以外は何も考えていないので、いい機会として考えておこうとか、思ったり。でも考え始めると、どんどん論理的に整理されていくので、自分自身の考えのはずなのに、自分の中で矛盾が生じていくし、まるで、その発言が他人の物みたいな感覚にすらなる。 論理的なことを言っておけば相手も論理的に返事をするので、突然殴り合いになったり突然愛されたりとかしないから、楽だなあと思う。嫌いとか好きとかそういう話になってこないし。でも、整理整頓するたびに、どんどん自分の頭の中が、他人の物みたいになっていくのはなんだか、別人が誰かと話しているのをただ遠くから見ているみたいだ。実際にそうなんだろう。

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  •  「人」がいない作品 - 最果タヒ.blog

    ときどき、「君の作品は作るのが楽そうでいいね」とか「自分でも作れそう」とか言われて怒っている人がいるけれど(たとえば文章書きは文字だけだし楽そうだね、とか。)、私は、「苦労して作ったのだろうな」と察されるような作品は恥ずかしくて世に出す勇気がないし、それよりは「自分でも作れるよ」と思われる作品のほうがずっとましだと思う。簡単そうに見える、というのは、要は、単純明快で芯がきっちりとおっているか、もしくは共感が生じているということだ。もちろん、単純明快さや共感があることが、すべていいわけではないのも確かだけれど、私の場合は気を抜くとすぐだれにもわからないものを作ってしまうタイプの人間なので、共感があるという指摘はプラス要素になる。もちろん、共感だけがある状態でも駄目だし、個性だけがある状態もだめだとは思っている。(詳しくは昔のブログ記事「才能と凡庸が同居してやっと、天才になる。」)共感だけはあ

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  • 作りましょうましょうましょう - 最果タヒ.blog

    作ろうとしたこともないひと、作ったこともない人が、「俺が作れば傑作ができる」と思うのは、よくあるばかげた話だけれど当たり前のことで、すべての人が、作る前には「これから作るのは傑作だ」と信じている。あたりまえだ、想像の中でなら、来なら厳密にきめなければいけない細かい部分は都合よくあいまいにぼかしておけるし、矛盾も無視できるし、作りたい部分は、想像した通りに100%で実現できると信じている。けれど実際に作り始めると、頭の中で想像したものをそのまま100%、アウトプットすることは不可能だとわかるのだ。作り始めてからこそが、番なのだ。すべての意味で。 自分の中で想像していたものを、アウトプットしようとしたさいに、それがそのまま100%で、外に出せないことにはじめて気付く。どんな人間だってそうだ。頭にプリンターでもとりつけて、ウィーンと印刷しない限りは、思った通りのものなど100%では実現できな

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    shimomurayoshiko
    shimomurayoshiko 2012/05/02
    “作ろうとしたこともないひと、作ったこともない人が、「俺が作れば傑作ができる」と思うのは、よくあるばかげた話だけれど当たり前のことで、すべての人が、作る前には「これから作るのは傑作だ」と信じている”
  •  デスです。 - 最果タヒ.blog

    「いやよいやよも好きのうち」が通るというなら「好きよ好きよも死ねのうち」も通ることになるけど、そのあたりの覚悟はおありで? なんで死ぬのかなという純粋な疑問。 いろんなひとがそれぞれ、「あの人は天才だ、死んでほしくない」と思ったり、「あの子が大好き、死んでほしくない」と思ったり。そうやって人類の中でも特別な誰かに「生きていてほしい」と願っている。それはたしかに悪く言えば贔屓だし、不平等だけれど、べつに、悪いことではない。特別でない人がどうでもいいというわけではないのだから。ただ、特別にいちばん、死んでほしくないと思う相手が、それぞれにいるのだ。そして、みんなが「死んでほしくない」と思う相手は当然、人によって違っていて、一致しない、バラバラだ。そしてだからこそ平等に、全員死ぬんだってこと。 死はすべての人間に平等に与えられると、人は言う。まるで健全なことのように。けれど、だれかひとりを特別扱

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  •  コンテンツちゃん、人になる。 - 最果タヒ.blog

    現実の友人をネットで見ることに抵抗感があるので、私は古いのかもしれない。親しみある人物が、ネットコンテンツに成り果てているように見えていたたまれないのだ。でももしかすれば、ネットに存在する人間が「人間」ではなく「コンテンツ」にしか見えない私は逆に新しいのだろうか。よくわからない。だいたい新しいとか古いとかいうのは、2億年後の新たな生命が勝手に決めることだったりする。 インターネットにとってぼくらは、登場人物ではなくコンテンツであるということ。それが恐ろしいという人もいれば、気楽だという人もいる。「人間」であることよりも、「コンテンツ」であることのほうが、ある点では気楽で、そしてある点では冷酷だ。生きているだけである程度の価値を付加されていた人間時代と違い、コンテンツ時代は、簡単に切り捨てられてしまう。残酷だ。そしてだからこそ、人は、あわてて「人間」に戻ろうとするんだ。馴れ合いの中に戻ろうと

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  •  絶対安全プロポーズ - 最果タヒ.blog

    そういえば夢で、私は男性になっていて、小さなころからずっと一緒にいた幼なじみの女の子にプロポーズするため、彼女の誕生日に向けて指輪を雑貨屋で買おうとする夢を見た。もういろいろとこじれすぎてわけわかんなかったけれど、絶対OKしてもらえると思い込んでいる主人公の大バカなかんじが甘酸っぱくてとてもよかった。私はいろんな夢をみてきたけれど、一番幸せそうな夢だった、とは思う。たぶん、プロポーズを実際にして、成功する夢よりも幸せな夢だった。あんがい何事も、結果よりも、過程の時点で、ピークがくる。幸せも不幸も。きっと、結果が出る前は0にも1にもなる可能性があり、その可能性が0と1それぞれを際立たせているのだ。幸せになるかもしれないけれど不幸になるかもしれない、というときの「不幸」は、実際に訪れる「不幸」よりも恐ろしい。もう一つの幸せという可能性が不幸の色を一層濃くするのだ。そして、それは幸せの場合だって

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  •  ネット!ネット!ネット! - 最果タヒ.blog

    現実の友達と繋がる為にネットを使う層と、現実と完全に切り離したネット用人格を隠し持つ層は、前者は後者を「現実がダメダメだからネットに逃げているだけ」と言うし、後者は前者を「ネットという新しい世界があるのにそこで新しい自分を一から作ろうともせず、現実世界の自分をトレースするだけで満足して、自分の世界を自ら狭めてる」というから永遠に分かり合えない。 2年前のブログ記事がいまなぜか再熱していて、おもしろいなあ、と思っている。おもにネットという場所における情報の保存のよさについて。 あの記事(「何の役に立つんですか?」の暴力性 という記事)は、この2年間タンブラやツイッターやはてブでいろいろ拡散されていたらしいんですけれども、そのたびにその記事は「生のもの」として扱われていたのが新鮮だった。なんというか、ネットにおける記事の新鮮さとは「書いたばかり」であることではなく、「たくさんの人に拡散されたば

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  •  絆未満の関係性すべて - 最果タヒ.blog

    もう私のことなど忘れてしまっているだろうけれど、と、言えばきっと「そんなことはないよ」と言ってくれるだろう。けれどそういうまでは忘れられているのと同じなのだから、これは、縁が切れたということなのだ。簡単につなぎなおせるけれど、だれも動こうとしないから、ぷちぷち切れていく縁というものが死と同じぐらいの頻度で地球上で起きていて、それは、喧嘩よりもたちがわるい。永遠でないのに、臆病さが一瞬を永遠にしてしまっている。 絆未満の関係性を、むりやり「絆」にしようとするような、乱暴なことはしたくない。中途半端に空いたお互いの距離を、そのままで楽しみたい。近しい人もいれば遠い人もいて、いいとおもう。だって、その人が見えないわけでも、存在しないわけでもないんだ。関係性があるってだけで、十分にすばらしい。

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  •  日々劣化をしていくものしか、地上にはない。 - 最果タヒ.blog

    きみが歩いたあとには頭のネジが落ちている。 季節やその他のものについて、人が、しみじみと考えているあいだにも、人の寿命は減っていく。それを無意味だという人もいる、非合理という人もいる。けれどつきつめて考えれば、きっと人間は「自分の人生を占めるすべてのもの・ことが非合理で無意味だ」という答えに行きつく。だからこそ季節を眺めることが人は好きなのだろう。「愚かしさ」は生きるためにあるのだろう。

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    shimomurayoshiko
    shimomurayoshiko 2012/03/25
    “きみが歩いたあとには頭のネジが落ちている”
  •  有意義は死んだ。 - 最果タヒ.blog

    正論を言い続けることはロボットに任せて、我々は不毛で不条理で支離滅裂な感情をぶつけあって泣き疲れたら眠りましょう。 知性とは結局、感情を解き放つためにあるのだと思うよ。戻ってこれる場所があるから、人は感情を優先できる。獣ならば、星に一瞬見とれただけでも天敵に捕されかねないけれど、人はほとんどの場合、感情を優先させても死なずに済む。 だから、感情を押し殺すことが知性の証だと信じている人間は、ただ知性にふりまわされているだけじゃないのかな、などと思ったりするの。感情を殺すことでしか、最善の方法がとれないなら、それは人としての敗北じゃないのかな。はじめからロボットに生まれとけばよかったのにね。 別マガ4月号発売しています。魔法少女WEB第3話掲載されています。新展開! 別冊 少年マガジン 2012年 04月号 [雑誌]Amazon.co.jp で詳細を見る

     有意義は死んだ。 - 最果タヒ.blog