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ひなぎくはてなに関するNettouochiのブックマーク (11)

  • 『1週間風呂入ってないけど、なんとかなる』へのコメント

    東日大震災のとき3週間くらい風呂に入れなかった。頭が痒くてしょうがないので電気ケトルでお湯を作って寸胴に溜めて頭だけ洗った。久々に風呂に入ったときは垢がすごく出た。なんとかなる

    『1週間風呂入ってないけど、なんとかなる』へのコメント
  • 福島の農家として生きた祖父の生涯

    温かいコメントをくれたブクマカたち、ありがとう。 増田に書いてみて初めて祖父の死に対して心の整理がついてないことに気付き、文は削除しました。 ご了承いただけますと幸いです。

    福島の農家として生きた祖父の生涯
    Nettouochi
    Nettouochi 2017/03/13
    魚拓あったので原文読んだ / 怒りの矛先が一番の加害者に向かってないように見えるが、なんでだろ?
  • 原発近くの街へ帰還が進まないニュースを見て思うこと

    当方、福島で建築で復興関係やってる人間。除染じゃないよ。地元の人とかともよく話すので、3.11前に少し思ったことを書いとく。 原発近くの浪江町の帰還が進まないっていうニュースがちらほらでてるけど、戻らない理由は放射能の他に3つあるかなと思ってる。 1.生活用品が揃えにくい実際は戻っていいと思ってる人も結構いる。慣れ親しんだ町なので、戻りたい気持ちはあるんだろうと思う。 ただ、生活がとんでもなくしづらい。 浪江町でいえば、現状コンビニが二件あるけれどどちらも夕方には閉まってしまう。スーパーに関しては、車で片道50分ぐらいかかる。一部、復興商店街みたいなのはあるがそれだけじゃ不十分な感じ。 そんな不便さを感じて、帰還がためらってる人が結構いる。薬局や飲店、ホームセンター等々生活で必要なものが買いにくい。 2.避難先で生活基盤ができてしまった地震が起きた3.11からもう長い年月がたち、最初は一

    原発近くの街へ帰還が進まないニュースを見て思うこと
  • 安心してください、東南海が来るまでですよ。

    私は日大好きですがこれはどうかと思う。(BBC流あいさつ) 神戸と違って、いつまでも被災地なんだろうなぁ。70年たっても戦後とか言ってるのと同じように the48the48のコメント 2017/03/06 15:35 http://b.hatena.ne.jp/entry/325623993/comment/the48 16.7メートルの津波は、ちょうどこの高さ―― ヤフーが出した防災広告に絶賛の声 - ねとらぼ http://b.hatena.ne.jp/entry/nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1703/06/news092.html 東京銀座のソニービルにヤフーが防災啓発広告を出した。 この記事への衝撃のファーストブクッマでいきなり被災地ガーと言われて、ガツンと頭を殴られた思いがあります。 これじゃあ150万円おごりおごられでいじめではなく電気消した

    安心してください、東南海が来るまでですよ。
  • 若い女性の画面の露出が速かった熊本大震災

    Nettouochi
    Nettouochi 2016/05/02
    はてな社は「ひなぎくはてな」みたく熊本大地震被災当事者の記録を集めるタグ作らないのですか?作ってほしい id:jusei
  • あのときのこと少しずつ振り返る。3.11 14:46~16:30

    震災から5年。 あのとき、当時していたmixi日記でこと詳しく記録していたが退会と同時に消去してしまった。 今あのときのことを少しずつ思い出し記録として残しておきたいと思う。 あのとき私は岩手県内陸部で生活していました。 2:46 震度6弱の揺れ 職場の施設で作業をしていました。揺れ直後、すぐさま1人屋外に逃げました。 共にいたのは、上司を含め社員が2、3人とパートのおばちゃん20人くらい。 社員であるのにも関わらず周囲のことに気を配ることのなかった私は自己中かもしれません。 こpの2日前にあった震度4の揺れでも1人屋外に逃げ周囲からはバカにされました。 だから今回もバカにされてもいい、とにかく逃げた。 揺れがおさまらない。 地面が波打っている。電柱も勢いよく揺れている。近くにあった大きいフォークリフトもガタガタ揺れている。 揺れがおさまったのはどのくらい経ってからか・・・ 2:50 職場

    あのときのこと少しずつ振り返る。3.11 14:46~16:30
  • あの日のうんこ

    2011年3月11日14時46分。その時、自分はトイレにいた。大のほうだった。 その日は午前中のリリース判定で4か月以上かけた担当案件が承認されたばかり。開放感でいっぱいで、ゆっくり昼を取ってまったり気分の昼下がりだった。 昼後にもよおすいつもの習慣に沿って、トイレに入った。 進捗が半分を超えたタイミングで、カタカタという揺れに気づいた。ああ地震かー最近多いな、と思っていたら揺れは収まるどころか持続し、さらに次第に強くなっていく。いつもの地震じゃない、大変だ!と緊急スイッチが入った。なんせいま現在、尻を晒したままだしヤツは尻から離れていないのだ。 下腹に力を込めて残りを排出し、尻を拭いてズボンを上げ、視線を落とした。黄土色のヤツは洋式便器の水に浮かび、23区近郊の地上4階の揺れに同期してちゃぷんちゃぷんと右に左に揺れている。ふと芥川の小説にあった、平安貴人の大便を捨てるため水を入れた箱

    あの日のうんこ
  • はてブで出会った一番記憶に残る記事

    はてブを使い始めてどれくらい経つか分からない(でもべつに古参なわけでもない)けど、 ふと一番印象に残っているものはと考えてみたら、先の震災後に書かれたひとつの記事を思い出した。 それは自宅が被害を受けて避難所に移ることになったある家族の話についてふれたものだった。 一家には家族同然に可愛がっている飼い犬がいたが、避難所に連れていくことはできないため、 やむなくボランティアだか保護団体だかに預けることになる。 まだ小さな娘は、「どうして一緒にいけないの!モモ(仮)は家族なんでしょ!?」と 離ればなれになることにどうしても納得できない。 そんな娘に対して父は、「モモ(仮)はたしかに家族だ。でも家族でも一緒に暮らせないこともある」といった感じで(曖昧)、 とても現実的で、また父親的な言葉で諭そうとする。 このエピソードについて記事を書いたひとは、 「娘を思う父親の気持ちは分かるが、それは欺瞞では

    はてブで出会った一番記憶に残る記事
  • 大地震に備えて

    東北大地震があった時、茨城に住んでいた。 ライフラインで最初に復旧したのはたしかガス(翌日?)で、母親が作ってくれた炊き加減のイマイチなおにぎりを家族でべた。 作ってから時間が経っていて、冷めていたがトラウマになるぐらい美味しかった。その次が電気でネットも復旧したので外とのやりとりが出来るようになった。 電気が復旧したあたりでコンビニに行ったら、普段のように立ち読みしてる人がいて非日常の中に日常を感じて笑えた。 水は住んでた地域の復旧が特に遅くて、結局10日以上復旧しなかった気がする。なにはともあれトイレ関係がキツかった。 料は思ってたよりスーパーやら近所の飲店やらで手に入りやすかったので苦労した記憶はない。寿司屋が販売してた海鮮丼が安くて美味しかった。 とにかく水があれば大丈夫だと感じた。個人的にはトイレを流せないのが当に苦痛だった。 飲料水は自衛隊が配りに来てくれるのだが、たし

    大地震に備えて
  • お役所と仕事すると言うこと

    緊デジ、私的な総括 ~東北のある制作サイドからの視点~ http://anond.hatelabo.jp/20140501223619 良く潰れなかったなあ。たぶん資金繰りの才能があるんだろう。人徳も。 全く人ごとじゃなくて笑えないから、 補助金関連事業に関わるときの心構えってのを、適度にボカしながら書く。 まず、補助金関連事業の読み方からコンテンツ緊急電子化事業、略して緊デジってのが何なのかを簡単に。 ・目標 予算規模 補助金額(上限) 約10億円事業総額 約20億円電子化書籍のアイテム数 約6万タイトルhttp://www.kindigi.jp/about/ コンテンツ緊急電子化事業特設サイト(緊デジ.jp)「緊デジとは」から「目標」部分のみ引用 ザッツお役所仕事の典型例。 概略を読むときも「電子書籍市場の拡大及びそれに伴う被災地域の知へのアクセスの向上に向けて」とかは読み飛ばして良い

    お役所と仕事すると言うこと
  • 緊デジ、私的な総括 ~東北のある制作サイドからの視点~

    緊デジ、私的な総括 http://www.pot.co.jp/default/20140501_150904493933661.html 大変興味深く読んだ。うちのことを書いているのかと思ったw 緊デジの話があったのはいつのころだったか。うちのような弱小制作会社にとってはとにかく大きな話だった。 そもそもなぜうちに問い合わせがあったのか今となってはそれもわからないが、改めて振り返る機会もなかったから、便乗して総括してみようと思う。 うちにとっての緊デジの結論は ・危うく倒産するところだった。というか話をそのまま鵜呑みにして"法律をしっかり守っていたら"多分倒産しただろう。さらに言えば、それが遠因となって倒産した福島の会社は現にある。 ・ようするに、こりごりだ。二度とやりたいとは思わない。 連絡をもらったのは確か2012年の年明けだ。 当時はまだ電子出版物を作るということしかわからなかった。

    緊デジ、私的な総括 ~東北のある制作サイドからの視点~
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