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ブックマーク / note.com/onoholiday (14)

  • 「わかりやすい言説」はなぜウケるのか?|小野ほりでい

    デマや陰謀論、疑似科学、メディアが報じないニュースの「裏側」、巨大組織に隠蔽された不都合な真実・・・現在、かくも多様な「真実」が並行する世界をしてポスト・ファクトなどと呼んだりしますね。各々の信じる現実が自由市場経済的にその存在を許されているとき、ひとつの必然的帰結として「わかりやすい言説」が支持され、比較的複雑で、一筋縄ではいかないような現実認識のほうが淘汰されるということが起こり得ます。 「わかりやすい言説」の数々を生む欲望のひとつには、あるひとつの言説が、全世界中の不都合をたったひとつの法則から無矛盾的に説明してくれれば「都合がよい」というものがあります。今回は、このような「わかりやすい言説」の組成を、「無矛盾性、万能性」への欲望からわかりやすく説明してみましょう。 1.思考のショートカットー「裏にある真実」の誘惑 さて、人間の思考について私たちが指摘できる大きな特徴のひとつは、それ

    「わかりやすい言説」はなぜウケるのか?|小野ほりでい
    june29
    june29 2021/05/14
  • 「お母さん食堂」のどこが問題なのか|小野ほりでい

    政府見通しによれば、2020年の出生数は5年連続で過去最少を更新しての84万人台にまで落ち込む。社会が継続するための最低条件である出生数の漸減は、そのまま私たちの社会が緩やかだが確実に破滅へと向かっていることを示している。 しかし、この傾向は日に限らずほとんどの先進国が共通して抱えている問題であり、環境問題とならんで後期資主義国が直面する大きな矛盾のひとつである。 恐れ多くも私見を述べさせてもらえば、そしていきなり結論から述べてしまえば、この問題の根は市場原理―――生産的か非生産的か―――が社会全体を覆い尽くしてしまったことにある。 つまり、生産的<価値を生み出す>か非生産的<価値を生まない>の軸で考えれば、生産的な人間とは何らかの形で金銭を発生させる人間のことであり、価値をうまない「子ども」とは非生産的であるばかりか過大な金銭・時間的負担を要求するものでしかない。20年近くを費やし

    「お母さん食堂」のどこが問題なのか|小野ほりでい
  • 【新型コロナウイルス】を軽視した2020年を振り返る|小野ほりでい

    新型コロナウイルスとともにあった2020年に私たちが知ったただひとつの事実は、よく言われるように、たとえ人類共通の危機にあっても人々は協調するどころか分裂し、仲違いするということだった。私たちの敗因は、ウイルスという見えないリスクへの認識を統一し、それに立ち向かうための共同の文化を形成できなかった点にある。 ウイルスのリスクは、まずその多寡の評価において分裂しており、続いてその[責任]の所在―――発生源である外国にあるのか、対策を怠る政府にあるのか、身勝手な市民にあるのか、あるいは[騒ぎ立てるマスコミ]にあるのか、といった具合に分岐する。 しかし、これらの「イデオロギー的な対立」は表層的なものであり、むしろこのリスクを「イデオロギー的に見る」こと自体がひとつの罠にはまっている。この前提を得るためにそもそもの「文化」の意義を振り返ってみたい。 自然には、人間のいかなる強制もあざ笑うようなさま

    【新型コロナウイルス】を軽視した2020年を振り返る|小野ほりでい
    june29
    june29 2021/01/07
    現実と現実界、という整理がおもしろかった。
  • ”一発アウト”の文化 キャンセル・カルチャーに未来はあるか|小野ほりでい

    「あなたを応援していましたが、今回の発言には失望しました。これでもうファンをやめさせて頂きます。」 アメリカでは有名人や影響力のある発信者の言動をめぐって公の場に引きずり出し、罰したり恥じ入らせたりする文化がコールアウト・カルチャーと呼ばれるが、なかでも発信側の個人や企業に「深く失望」し、「あなたは用済みだ」と再起不能の烙印を押すような文化はキャンセル・カルチャーと呼ばれる。 キャンセル・カルチャーの支持者の視点では、この文化は権力者やマジョリティに対する「弱者のカウンター」であり、キャンセル・カルチャーの有効性を問い直すことはそれ自体が「強者への加担」だということになる。 しかし、実のところキャンセル・カルチャーという手法はイデオロギーをまたいで日常的に利用されている。たとえば有力者の差別・偏見に基づいた発言、ハラスメントや搾取を発端としたキャンセルはリベラル的な立場と結び付けられるが、

    ”一発アウト”の文化 キャンセル・カルチャーに未来はあるか|小野ほりでい
    june29
    june29 2020/12/27
  • 政治の話をやめて、猫や犬の画像でも見ましょう|小野ほりでい

    cakesという媒体がこの2ヶ月で立て続けの炎上を経験している。3回目になる今回は、ざっくり言えば声優・文筆家のあさのますみさんが以前からcakesでの掲載に向けて準備していた友人の死にまつわる連載が、cakes1回目の炎上(DV被害を虚偽と決めつけた人生相談)、そして2回目の炎上ホームレス取材記事)を受けて「センシティブな内容だから」という理由で反故にされ、掲載を拒否されてしまったというものだ。(詳しくは人の記事を参照。) 言うまでもなく、この掲載拒否の動機は内容に関する倫理的な吟味によってではなく「炎上するかもしれないから、もう炎上したくないから」という消極的な理由によるもので、その判断が裏目に出てかえって炎上してしまった格好になる。 しかし、今回の件についてのcakes側の粗末な対応は、cakesが抱えている特別な問題ではなく、断言してもいいが、ほとんど全てのメディアで日常茶飯事

    政治の話をやめて、猫や犬の画像でも見ましょう|小野ほりでい
    june29
    june29 2020/12/11
  • 弱者はなぜ非弱者を不快にさせるのか|小野ほりでい

    ライターであり小説家の品田遊の著書「名称未設定ファイル」の中に「を持ち上げるな」という短編がある。を持ち上げるというごく一般的な行為があるきっかけで「虐待ではないのか」と問題視され、いわゆる炎上に発展していく内容なのだが、示唆的なのはこの「過剰動物愛護」的な炎上が単にを見たくないという「動物嫌い」の支持を受け、正反対の二者が奇妙な連帯関係を結んでしまうという描写だ。 終わってしまったことを蒸し返すようで悪いが、先日のcakes記事ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした 記事の炎上はこの短編を思い起こさせる側面があった。件の記事は、「(救われるべき)社会弱者としてのホームレス」という同情的な視点を遮断し、非干渉的な態度での観察を試みているもので、一般的に不気味なものであることは間違いなく、また「弱者をコンテンツ化するな」という批判はまっとうだといえる。 しかし、それ

    弱者はなぜ非弱者を不快にさせるのか|小野ほりでい
    june29
    june29 2020/11/27
  • 「甘やかされて育った」人生は実は苦しく厳しい|小野ほりでい

    親が子どもの境界を尊重せず、境界を侵犯すると、親は子どもを人間として尊重していないというメッセージを与えることになります。それは「自分には価値がない」というメッセージとして内在化されます。子どもとの境界を認めない親は、「おまえは私のニーズを満たすために存在している」「私はおまえより大切な人間だ」「個別の感情、欲望、ニーズをもつ自分自身であってはならない」といったメッセージを与えることになります。このようなメッセージは、子どもたちは他の人の役に立つために、自分自身をあきらめなければならないと暗に言っているのです。 「私は親のようにならない」、C・ブラック 「愛されて育った人は幸せになる」という前提は自立した精神に関する様々な誤解の原因となる。 たとえば、過保護は親による境界侵犯の一例であるが、過保護の親は「十分に愛された子どもは幸福になるだろう」あるいは「愛情の不足によって子どもは不幸になる

    「甘やかされて育った」人生は実は苦しく厳しい|小野ほりでい
    june29
    june29 2020/10/22
  • 成り上がりコンプレックス|小野ほりでい

    性別や境遇、社会的地位など「自分が不幸なのは〇〇だから」と”属性”のせいにするのは楽ですが、これは単に根的な問題から目を逸らしてるだけなので、なにも解決しないまま時が過ぎてゆきます。 — 深爪 (@fukazume_taro) September 7, 2020 先日、タイムラインに上のようなつぶやきが漂着して来ました。皆さんは、これを読んで「その通りだ」と思うでしょうか、それとも「うーん…」と感じるでしょうか。個人的な話をすれば、数年前までの自分なら「その通り」だと思っていただろうし(というより、まんまこういう文章を書いたことがあります)、今は「怖いな」と感じる部分もあります。 まず、この文章に関して私たちが賛同すべき部分をあげると、自分に起きている問題をすべて環境や境遇に帰結していると一種の宿命論的な諦観が身につき、自分の行動や問題に対する関わり方という主体性にかかる部分に責任が持て

    成り上がりコンプレックス|小野ほりでい
    june29
    june29 2020/09/18
    “「成り上がり」や「自助努力」という救済のシステムが存在することが、「被支配者の合意」という支配構造を長続きさせる理由の一端を担っている、というのが<メリトクラシー>という言葉を味わい深いものに”
  • 「嫉妬する人」との付き合い方|小野ほりでい

    精神的に自立していない人間は他者との境界が曖昧だといわれる。このような関係で働いているのはいつでも投影、すなわち自分の抱えている問題を他人のものにすり替える力学である。 たとえば精神的に自立していない親の典型的な例として、自分が勉強してこなかった過去への悔恨、無知や無学さへのコンプレックスを子どもに対して投影し、無目的に勉強するように強要する場合がある。この場合、子どもはどうして、どのように、どの程度勉強すればよいかについて納得のいく説明を受けることなく、どれだけ勉強してもまだ足りないと言われることになるが、それは子どもが勉強することによって解決されるべき問題が親の無学、無知へのコンプレックスだからである。 人がなぜ自分の問題の存在を認めずに、他人の問題だと考えたがるかについて、ひとつの指針になるのが認知不協和という考え方である。認知不協和理論では、ある人の現実認識と行動が明らかに矛盾して

    「嫉妬する人」との付き合い方|小野ほりでい
    june29
    june29 2020/08/31
  • 炎上マーケティングしたときに起こること|小野ほりでい

    Go Toでちょっと高い旅館に泊まったら、大失敗。出てきた夕がこれ。さらに天麩羅とごはん、お吸い物。多すぎて到底べきれない。シニア層がメインターゲットのはずなので、つまり廃棄前提(としか思えないし、実際にかなりの廃棄が出ているはず)。不味くはないけど、体験価値としては…… pic.twitter.com/hw3xsCQTfM — よりかね けいいち@子どもに伝えたいIT/メディアリテラシー(noteサークル) (@k_yorikane) August 10, 2020 先日、「旅館で出てきた料理が多すぎる」という苦言風のtweetが拡散し、結果的に宣伝効果があったこと、そして発信者のプロフィールに「田端大学」というキーワードがあったことから「炎上マーケティングではないか」と話題になりました。 この田端信太郎という方を調べてみると、以前にも「コロナ禍で同業者が倒産すれば競合が減るのだから

    炎上マーケティングしたときに起こること|小野ほりでい
    june29
    june29 2020/08/20
    "「強気な意志」の演出" ってところが特におもしろかった / 小野ほりでいさんがご自身の過去のお仕事をこんなふうに感じているとは知らなかった
  • 「傷つかない心」の危うさ|小野ほりでい

    メンタリストDaiGo 4年で変わってしまったな。 他人に人生をコントロールされてしまっている…。 pic.twitter.com/xXnoHzGmxK — こがねぃ (@koganeaki25) July 24, 2020 先日、Twitterで上のような発言が流れてきた。かつて悪口や批判に対して「相手にしなければ影響はない」「気にするのは他人に人生をコントロールされることだ」と表明していたメンタリストDaiGoさんが誹謗中傷に対する徹底抗戦の構えを見せたという、言ってみれば180°の方向転換について指摘するものだ。 「心の強さ」という概念に関しては私たちはまだ知らない部分が多いらしく、一定の持論や自負のある人がその「強さ」の秘訣についてレクチャーを試みたあとに何らかの方向転換を迫られるという事態は存外よく起こる。たとえば「死ぬこと以外かすり傷」という勇ましいタイトルの著者である箕輪厚介

    「傷つかない心」の危うさ|小野ほりでい
    june29
    june29 2020/08/07
    おもしろかった。
  • 【コロナ】怖がってくれない人たちについて|小野ほりでい

    今回のコロナ禍では、世界中で「どうしてそうなるの?」と疑問に思うようなできごとがたくさん起きていますね。記憶に新しいのは、テキサスで「ウイルスはデマだ」と考えていた30歳の男性が罹患者と触れ合ういわゆる「コロナパーティ」に参加し、死亡したというニュース(付記:このニュース自体がデマではないかという指摘もあります)です。 人間は何らかのリスクに直面すると(生命でなく)精神を防衛するためにさまざまな策をめぐらすのですが、この性質についてよく知っておくと今起きていること、今後起こるであろうことに対する理解が深まるかもしれません。今から書く見方は仮定を多分に含みますが、身近な考える足がかりにしていただければと思います。 頑なにリスクを認めない人 さて、まず問題になるのはどんなに説得してもリスクを認めようとしない人々のことです。コロナは単なる風邪だとか、昔からある病気だから今までどおりに過ごすべきだ

    【コロナ】怖がってくれない人たちについて|小野ほりでい
  • 疫病は精神論を侵すか|小野ほりでい

    ここ最近のネットを見ていて、ついに政権批判の声が政権擁護の声より大きくなり始めたというのを実感する。少なくとも私にとっては、こんなことは今まであり得なかったというか、不可能ではないかというふうに感じられていた。あくまで見た感じの印象ではあるが、これまで政権批判的な意見はどんなものであっても「自己責任論・個人帰結」型のリアリズム、すなわち「この人間(ないしこの者が擁護している人間)は個人的な努力、工夫を怠った責任を社会やシステムに求めているだけなのだ」という万能の理論で一刀両断されるというのが常で、この万能さをもって必ず右派と左派の論争は形式じみた応援合戦的な対立としてなあなあで終結するのが常だったように思う。そのパワーバランスが変わっているのは何故だろうか? 私の理解では、日社会の全体的な雰囲気は「精神論型メリトクラシー」である。メリトクラシー<実力社会、成果主義>は来(機会としての)

    疫病は精神論を侵すか|小野ほりでい
  • "話をかんたんにする人"が求められる理由|小野ほりでい|note

    何か不愉快な出来事が起こるとまず「誰が悪いのか」という話になる。大きな話だと、ずっと低迷している国では絶対に特定の人種が悪いとかどこの国が悪いんだという論調が台頭してひとつの勢力になったりする。あるいはちょうど今は、たちの悪い伝染病が流行っていてこれが人種差別に繋がっていたりする。もっと身近な話では、システムがうまくいかなかったり同じ問題に直面し続けるととりあえず誰かのせいにしてその人に怒ることで納得しようとする人がいるだろう。たいへんなことや解決不可能な事態が起こっているのにその原因が分からないという状態は非常にモヤモヤする。経済学、科学、政治といった専門的な話題は専門的な人にしか分からないので、ややこしい話はさておいて結局誰を殴ればよいのだ、ということになる。「メロスには政治が分からぬ」といった具合だ。 また、大量殺人事件のように厳密に責任者が存在する場合もその犯人が「いかに異常で」「

    "話をかんたんにする人"が求められる理由|小野ほりでい|note
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