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日本史に関するmasayoshinymのブックマーク (41)

  • 吉田松陰の松下村塾 仲間が集まり盛り上がるだけの場説も

    明治維新が素晴らしいものであるとの“常識”に疑義を呈したのは『明治維新という過ち』の著者で作家の原田伊織氏だ。氏は明治維新がその後の軍部の台頭を招き、また「官軍史観」が現代社会を歪めていると指摘する。 * * * 明治維新は、その後の日の不幸な歴史に直結する。「維新の精神的支柱」とされる吉田松陰ほどウソにまみれた人物はいない。その実態は乱暴者の多い長州人の中でもとりわけ過激な若者の一人に過ぎなかった。 長州の下級藩士出身の松陰が「維新の志士」を育てたとされる松下村塾は、叔父の玉木文之進が主宰していたものであり、松陰は一時的に塾を借りただけだ。しかも何かを講義したのではなく、仲間内で集まって盛り上がるだけの場だった。 松陰がひたすら唱えたのは「暗殺」と「天誅」である。彼は老中間部詮勝や大老井伊直弼の暗殺を主張し、武力による幕府転覆を訴えて、藩に対して大砲など武器の支給を願い出たほどである。

    吉田松陰の松下村塾 仲間が集まり盛り上がるだけの場説も
  • 【マンガ】時代劇では描かれない『江戸の庶民』の暮らし - イーアイデム「ジモコロ」

    武士・侍の生活は時代劇でよく見るけど、庶民は江戸でどんな生活してたの? 江戸東京博物館を回りながら専門家に話を聞きました!

    【マンガ】時代劇では描かれない『江戸の庶民』の暮らし - イーアイデム「ジモコロ」
  • 室町時代の日本人はめちゃくちゃ荒っぽかった? 明大教授が語る、ハードボイルドな日本人像

    清水克行の歴史エッセイ『室町は今日もハードボイルド』(新潮社)に取りあげられている中世の日人は、現代の日人像からあまりにかけ離れている。まるで、マンガ『北斗の拳』や映画『マッドマックス』のような世界観のようにもみえる。 農民が武器を手に隣村と戦(いくさ)をしたり、行きかう船から通行料をせしめる「賊」が横行していたり。家族のなかでも、人身売買で人が財産として扱われたり、夫の浮気相手をが仲間を引き連れて襲撃したり。室町時代(1336年〜1493年)の日人は、とかく荒っぽかった。 彼らはなぜ、ハードボイルドだったのか。なにゆえアナーキーでアウトローな生き方をしていたのだろうか。歴史学者で明治大学教授でもある著者に話を聞いた。(土井大輔) 「武士道」からも現代の価値観からもかけ離れた行動 ーー室町時代の人たちには、どのような面白みがあると考えていますか? 清水克行(以下、清水):たとえば、

    室町時代の日本人はめちゃくちゃ荒っぽかった? 明大教授が語る、ハードボイルドな日本人像
  • 麒麟がくる 最終回「本能寺の変」

    一二三 @nunonofuku123 天正10年(1582年)年表 3月11日天目山の戦いで勝頼死去 5月15日明智光秀が徳川家康の饗応役となる←先週ここ 6月2日能寺の変 4日家康が伊賀越で三河帰国 13日山崎の合戦→明智光秀落武者狩で死亡 14日明智秀満坂城で自害 27日清州会議 #麒麟がくる 2021-02-07 20:00:07 令和の土星人。'24@ワクチン4度接種&インフル接種完了 @4568Ts 1582年 主要人物年齢一覧(満年齢) 明智光秀 54歳 織田信長 48歳 羽柴秀吉 45歳 細川藤孝 48歳 徳川家康 39歳 近衛前久 46歳 明智左馬助 46歳 黒田官兵衛 36歳 筒井順慶 33歳 正親町天皇 65歳 斎藤利三 48歳 たま   19歳 細川忠興 19歳 森 蘭丸 17歳 #麒麟がくる 2021-02-07 20:06:31

    麒麟がくる 最終回「本能寺の変」
  • “新しい足利義満像” 示す新たな肖像画 発見 | NHKニュース

    室町幕府の将軍、足利義満の姿を描いたとみられる肖像画が、新たに見つかりました。黒々としたあごひげや若々しい表情などが特徴で、調査を行った専門家は「新しい義満像を読み取ることができる重要な発見だ」と指摘しています。 見つかった肖像画は、縦1メートル余り、横40センチほどの大きさで、僧侶の姿をした人物が畳に座っている様子が描かれています。 東京都内の男性が古美術商から購入し、その後、東京大学史料編纂所などが調査したところ、顔つきや衣装などから室町幕府の3代将軍、足利義満の出家後の姿を描いたと判断されました。 義満の肖像画として広く知られている京都の鹿苑寺所蔵のものと比べると、黒々としたあごひげや顔のしわが少なく若々しい表情などの特徴が見られます。 史料編纂所などは、この肖像画は描かれた布地の絹や押された印の特徴から、義満の死後150年ほどたった西暦1550年前後に描かれたとみています。 中世に

    “新しい足利義満像” 示す新たな肖像画 発見 | NHKニュース
  • 髭切と膝丸という刀剣が登場する浮世絵のお話|太田記念美術館

    刀の「髭切」と「膝丸」。ゲーム「刀剣乱舞」でも人気キャラクターとなっていますが、その姿は浮世絵の中にも描かれていますので、ご紹介したいと思います。 ※今回紹介する作品は、現在、太田記念美術館では展示しておりません。 髭切(ひげきり)まずは、「髭切」。『平家物語』剣巻によれば、平安時代、源満仲が刀鍛冶に作らせた2の刀が、髭切と膝丸でした。そのため、ゲーム「刀剣乱舞」の中では、兄弟という設定になっています。 髭切は、罪人の首を斬った際、髭もそのまま一緒に斬れたことから、その名前がつきました。髭切は、ある事件をきっかけに「鬼丸」という名前に変わるのですが、そのエピソードを描いた浮世絵がこちら。 楊洲周延の「東錦昼夜競 渡辺綱」です。『平家物語』剣巻によれば、平安時代の武将である渡辺綱(わたなべのつな)が、京都・一条の堀川に架かる戻橋のところで、一人の美女に出会います。五条のあたりまで送って

    髭切と膝丸という刀剣が登場する浮世絵のお話|太田記念美術館
  • 秀吉側近の武将 駒井重勝の日記 自筆原本見つかる | NHKニュース

    豊臣秀吉や養子の秀次の言動などを、そばで仕えた武将が記した「駒井日記」の自筆原の一部が見つかり、調査にあたった専門家は「当時の武将の日記の原が出てくることはほとんどなく、重要文化財クラスの価値がある」と指摘しています。 江戸時代の写しが数巻分残されているだけで原は失われていると考えられていましたが、東京大学史料編纂所がその一部とみられる日記をインターネットオークションで購入し、内容などを調べた結果、写しがある部分の自筆の原そのものと判断されました。 調査にあたった村井祐樹准教授によりますと、見つかったのは17巻以上あるとされる日記のうち第6巻の7割程度に相当し、西暦1594年にあたる文禄3年2月の出来事が記されています。 このうち22日には、秀吉の天下統一を支えた黒田官兵衛が体調を崩した際に、秀次が出した見舞いの手紙の内容が記されているほか、27日には秀吉と秀次が今の奈良県の吉野で

    秀吉側近の武将 駒井重勝の日記 自筆原本見つかる | NHKニュース
  • 歴史人物語り#101 明智光秀AIとの戦いと「麒麟がくる」の謎 - ツクモガタリ

    「麒麟がくる」の公式サイトやTwitterで キャストビジュアルが日々公開されています。 これ見てるだけでもワクワクしてきちゃうのは私だけでしょうか? 今公開されてる中では細川藤孝のビジュアルが 一番お気に入りですね! NHK「麒麟がくる」公式サイトより キャストビジュアル 細川藤孝 tsukumogatari.hatenablog.com 藤孝の異母兄・三淵藤英もいい存在感出してます! NHK「麒麟がくる」公式サイトより キャストビジュアル 三淵藤英 tsukumogatari.hatenablog.com そして剣豪将軍・足利義輝も源義経を彷彿させるような 鎧兜の出で立ちでかっこいんですよね~! NHK「麒麟がくる」公式サイトより キャストビジュアル 足利義輝 tsukumogatari.hatenablog.com さて、今回は前回第100回目にも登場した明智光秀AIとの会話と 「麒

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  • ドキッ! 死体だらけの平安京! ポロリもあるよ! ―命の重さの日本史― - バッタもん日記

    はじめに 私はノーテンキな進歩主義者です。人類は少しずつ、一進一退を繰り返しながらも精神面で進歩し続けていると固く信じています。その根拠の一つは、街中で歩きたばこや立小便や痰吐きなどの下品な行為を見かけることが減った、というような日常の些細な感覚です。そして最大の根拠は、「命が大事にされるようになったこと」です。具体的に数値で見ると、日における殺人事件は減り続けています。 参考:平成12年版 警察白書 平成29年版 犯罪白書 日人は長い年月を経て、命を大事にするようになりました。言い換えれば、昔の日人は命を大事にしない蛮族であったということです。平然と殺し合いをしていました。歴史家の言葉を引用します。 光源氏が王朝時代の貴公子の理想像であることについて、これまでのところ、その優れた容姿や豊かな才能などが取り沙汰されるのが普通であった。だが、実のところは、理不尽な暴力事件を起こさないと

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  • 「ヤベェ本を買ったぞ…」地元にひっそり置かれていた本を紹介、バズる→出版社の電話が鳴り止まない!重版決定!→著者がお礼のためにTwitter始めました

    robin■和装イラスト集出す人 @robiiiiiimmm ヤベェを買ったぞ… 昔の偉い人たち(ザックリ表現)の服の構造や成り立ち、色合いや文様の意味、アクセサリーの種類とかが分かりやすくまとめられてる。 ネット知識でフワッと把握してた所がしっかり解説されてて、痒いところに手が届く一冊だった… 絵描き字書き立体屋問わず全創作者にオススメ。 pic.twitter.com/z1W3Kgl1DL 2019-09-21 22:25:06

    「ヤベェ本を買ったぞ…」地元にひっそり置かれていた本を紹介、バズる→出版社の電話が鳴り止まない!重版決定!→著者がお礼のためにTwitter始めました
  • 新たな書状発見 豊臣秀吉 切腹直前の秀次の息子を「要職に」 | NHKニュース

    豊臣秀吉が、養子の秀次が切腹する3か月ほど前に、その息子を要職に就かせると発言していたことを示す書状が新たに見つかりました。秀吉は、実子の秀頼が生まれたことで秀次と不仲になったというのが通説ですが、調査にあたった専門家は「秀吉が簡単に秀次一家を潰そうとしていなかったことを示す意味のある発見だ」と指摘しています。 その結果、文禄4年(1595年)に豊臣秀吉の側近、木下吉隆が毛利輝元に送った書状と判断され、この中に、豊臣秀次の息子を今の奈良県にあたる大和の国主にするという秀吉の発言が記されていたということです。 秀次は、跡継ぎのいなかった秀吉の養子になったあと、関白の職についていましたが、この書状が書かれた3か月ほどあとに謹慎させられ切腹し、や子どもも処刑されました。 村井准教授によりますと、秀吉と秀次は、この2年前に秀吉の実子、秀頼が生まれたことをきっかけに不仲になったというのが通説ですが

    新たな書状発見 豊臣秀吉 切腹直前の秀次の息子を「要職に」 | NHKニュース
  • 毛利元就や輝元などの書状 原本約70通見つかる | NHKニュース

    毛利元就や孫の輝元など、戦国大名の毛利氏が隣国との戦の中で家臣に送った書状などの原が、およそ70通まとまった形で見つかりました。調査に当たった専門家は「原がこれだけ大量に出てくることはめったになく、貴重な発見だ」と指摘しています。 戦国時代に中国地方を治めていた毛利元就や息子の隆元、孫の輝元が家臣に送った書状を中心におよそ70通が残され、いずれも内容や筆跡などから、後世の写しではない「原」と判断されました。 このうち元就と隆元が連名で家臣に宛てた書状は、隣国の大内義長との戦の中で、「和睦を結ぶうわさがあるが、まだ決まったわけではない。もしそうなったら伝えるし、お前たちを悪いようにはしない」などと書かれていて、戦の実情や家臣を掌握する様子がうかがえます。 一連の書状は江戸時代に書かれた写しが残されていますが、原の所在はわかっていなかったということです。 調査にあたった東京大学史料編纂

    毛利元就や輝元などの書状 原本約70通見つかる | NHKニュース
  • 「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる | NHKニュース

    明智光秀が織田信長を討った「能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は「能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。 郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。 書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と、能寺の変について勝家の驚きのことばが記されています。そして明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて、当時の大坂にいた織田方の重臣、丹羽長秀と連携して光秀を討伐する計画を明らかにしています。 調査にあたった専門家によると、能寺の変のあと勝家が光秀の居場所に言及

    「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる | NHKニュース
  • 武士は戦さでポニーを駆る 『武士の日本史』 - HONZ

    侍ブルーと一銭五厘。書にあった言葉で私の印象に残ったのは、この二つだった。「サムライブルー」はサッカー日本代表のこと。「一銭五厘」は召集令状の葉書代のことで、兵隊の代わりなど葉書一枚で済むという意味がこめられている。書名にあるとおり、書はわが国の武士歴史をまとめるとともに、「武士道」などの精神史もたどっているだ。 書を読んだ直後にサッカーW杯を観ていたら、選手の口から「日人のメンタリティ」という言葉が出た。そのとき「おやっ」と思った。それは“強い相手に屈しない強靭な精神”を表現した発言だったが、その“メンタリティ”が日人固有のものなのか、私は違和感を覚えたのである。第2次世界大戦の当時によせて、このには、次のような指摘がある。 当時、物質文明は欧米の方が優れているかもしれないが、精神文明では日が優れている、だから日が勝つ、という主張がなされた。物質文明、つまり生産力や科

    武士は戦さでポニーを駆る 『武士の日本史』 - HONZ
  • 『お金の流れで見る戦国時代』って本が面白すぎたよ。|Rentio代表三輪のアウトプット用ブログ

    お金の流れで見る戦国時代 歴戦の武将も、そろばんには勝てないー (著)大村 大次郎 こんなを読みました。 歴史お金が大好きな僕からするとこんな面白いはないです。 すごく簡単にまとめると 『戦国時代もビジネス感覚って大事だよ』という内容でした。 権力だの武力だのと言っても結局のところ経済力が大事で、その経済力を強めるには経済のセンスが大事なんだという内容でした。 僕は当に歴史が好きで戦国時代も好きなので、織田信長は経済センスがあったことはわかっているつもりだったのですが、このを読むとそれが非常に具体的にわかります。 いくつか面白いエピソードがありましたがその中で一番面白かったのは織田信長は経済センスがあったから大きくなったけど武田信玄は経済オンチだったから滅亡したというお話でした。 この2者の対比をたくさんの事例を踏まえながら解説してくれているのですが、一部だけ紹介させてください。

    『お金の流れで見る戦国時代』って本が面白すぎたよ。|Rentio代表三輪のアウトプット用ブログ
    masayoshinym
    masayoshinym 2018/03/08
    それでも配下武将に軍師になれる人材の多い信玄の方が好き。(ソース:信長の野望 武将風雲録)
  • 平安時代もまずい。山城時代にしよう。 - 保立道久の研究雑記

    平安時代という時代呼称はどう考えてもまずい。奈良時代と対比して山城時代にするのがいいのではないかと考えている。 平安時代という歴史用語がいつどのように一般化したのかを調査してみる必要があるが、桓武による「平安遷都」の時の希望の歌に「平安」とあるのをそのままとった訳で、これはその時代の主観的希望にもとづいて時代名を命名するという学術的には最悪の方法である。人の客観的な姿をその自称から分析することはできないように、時代の主観によって時代の客観的な歴史像を描くことはできない。 たしかに、「平安時代」の「王権」は、王統間の軍事闘争が「保元の乱」までなかったという点では「平安」なのではある。しかし王権内部の矛盾が一貫して政治史を動かしてきたこと、そしてそれが徐々に確実に強化されてきたことを、この時代呼称はまったく曖昧にしてしまう。「平安」時代のどこが平安なのか、「平安京」のどこが平安なのかというのが

    平安時代もまずい。山城時代にしよう。 - 保立道久の研究雑記
  • 坂本龍馬:桂小五郎に敗れる 幻の剣術大会、新史料か - 毎日新聞

    龍馬と桂小五郎が対決--。幕末志士の両者が1857(安政4)年3月1日、江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で催された剣術大会で対戦し、2対3で龍馬が敗れたとする史料が、前橋市の群馬県立文書館に保管されていた。歴史研究家、あさくらゆうさん(48)が存在を確認した。龍馬は今年で没後150年。 藩主・山内豊信(後の容堂)の上覧試合とされた大会を巡っては、これまでも複数の史料の存在が伝えられている。だが、開催された日が既に龍馬が江戸を去った後だったり、小五郎の名前が当時は使用していない「木戸準一」だったりするため、いずれも「偽書」というのが定説。山内家の日記などにも記録はなく、大会そのものが作り話とされている。 文書館によると、今回の史料は前橋藩領だった上州・中箱田村(現在の群馬県渋川市北橘町箱田)で名主を務… この記事は有料記事です。 残り472文字(全文826文字)

    坂本龍馬:桂小五郎に敗れる 幻の剣術大会、新史料か - 毎日新聞
  • 足利尊氏の顔、これで決まり? 中世肖像画の写し発見:朝日新聞デジタル

    顔だちを巡って今も意見が分かれる室町幕府の初代将軍・足利尊氏(1305~58)。彼が亡くなってほどない時期に描かれたと見られる肖像画の写しが発見された。中世まで確実にさかのぼれる尊氏の肖像画は他に一例しかなく、専門家は「尊氏の顔がこれではっきりした」と話す。 確認された「足利尊氏像」は縦88・5センチ、横38・5センチ。軸装された画の下側に正装して着座する人物が描かれ、上方には十数行にわたって画中の人物の来歴をつづった文章がある。 個人が所有するもので、栃木県立博物館の田諭特別研究員や鎌倉歴史文化交流館の高橋真作学芸員らが、資料調査の際に発見。①尊氏を示す「長寿寺殿」という言葉がある②尊氏の業績として知られる国内の66州に寺や塔を建立した旨が記されている――などから尊氏像と判断した。 近年の研究で、歴史教科書などで尊氏像として紹介されてきた「騎馬武者像」(京都国立博物館蔵)は尊氏でない可

    足利尊氏の顔、これで決まり? 中世肖像画の写し発見:朝日新聞デジタル
  • 秀吉の書状 新たに発見 信長亡きあとの試行錯誤示す | NHKニュース

    能寺の変のあと混乱していた京都を治めていた豊臣秀吉が、治安を回復するために進めてきた略奪品の返却を諦める内容を記した書状が、新たに見つかり、調査に当たった専門家は「織田信長亡きあとの秀吉が試行錯誤をしていたことがわかる貴重な発見だ」と指摘しています。 その結果、書状は、織田信長が明智光秀に討たれた能寺の変の2か月ほどあとに、当時京都を治めていた豊臣秀吉が家臣に宛てて出したもので、秀吉が直筆で花押と呼ばれるサインを記していることが確認できたということです。 村井准教授によりますと、能寺の変の直後の京都では明智光秀の軍勢が略奪を行ったうえ、その後、元の持ち主に返す作業に関わっていた秀吉の家臣も自分のものなどにしていたということです。 こうした状況のなか、今回見つかった書状には「略奪されたものには、今後一切関知しない」と記され、秀吉が京都の治安を回復するために進めてきた略奪品の返却を途中で

    秀吉の書状 新たに発見 信長亡きあとの試行錯誤示す | NHKニュース
  • 本能寺直後の秀吉、信長ゆかりの品の略奪許さず : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    織田信長が明智光秀に討たれた1582年(天正10年)の能寺の変の直後、羽柴(豊臣)秀吉が家臣に宛てた書状が愛媛県内の個人宅で発見された。 変後に横行した京都市中での略奪に対し、信長ゆかりの品物に限っては持ち主に返すよう命じた内容だ。亡き主君・信長を変後も秀吉が尊重していたことを示す史料として注目される。 東京大史料編纂(へんさん)所の村井祐樹准教授が25日に現地で調査し、筆跡や内容から新発見の書状と判断した。天正10年8月14日付で、秀吉が堀尾毛介(もすけ)(吉晴)ら3人の家臣に宛て、文末に「筑前守 秀吉」の名と花押がある。 戦国時代、略奪を避けるため武士や公家が寺社に財産を預ける「預物(あずけもの)」の慣行があったが、変後は明智勢による預物の略奪が頻発。明智勢を破って入京した秀吉は、それらの略奪物の持ち主を確認するよう家臣に命じたが、秀吉の家臣までもが預物の略奪を始めた。 書状では、家

    本能寺直後の秀吉、信長ゆかりの品の略奪許さず : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)