原発処理水 迫る海洋放出 方法は?対策は?現地を訪ねた 2023年3月7日 福島第一原発を訪ねるとすぐに目にとまるのは、巨大なタンクの数々だ。 その数1000基余り。総容量はおよそ137万トンに及ぶ。 保管されているのは、トリチウムなどの放射性物質を含む処理水だ。この水の放出開始が、ことし春から夏ごろと目前に迫っている。 東京電力は国の基準を大幅に下回るよう薄めるというが、いったいどのように放出されるのか。2月、私たちはあらためて現地を取材した。 (科学文化部記者 橋口和門) 林立するタンク 私たちが訪れたのは、タンクが建ち並ぶエリア。 タンクの高さはおよそ15メートル。1基で1000トンの水をためることができる。 敷地内には、ここ以外にも多くのタンクエリアがある。そのほとんどはすでに容量いっぱいの処理水をためていて、2023年2月時点では、総容量の96%にあたる132万トン余りにのぼって
東京電力福島第1原発から海洋放出処分が計画されている処理水は、原発で発生が続く汚染水を浄化処理した後の水です。どのようにして処理しているのでしょうか。(小野沢健太) A 1~3号機内には事故で溶け落ちた核燃料(デブリ)があり、原子炉に注水してデブリを冷却する作業が続いています。デブリに触れた水は、高濃度の放射性物質を含む汚染水となります。建屋の損傷部分などから入ってきた雨水や地下水と混ざって量が増え、2022年度で1日約90トン発生しました。デブリへの注水と、建屋内への水の流入を止めない限り、汚染水は発生し続けます。
東京電力福島第1原発では、日々発生する高濃度汚染水を処理した後の水を海に放出する計画が大詰めを迎えている。漁業関係者らの反発は続くが、既に放出設備は準備が整い、政府の決定を待つだけの状況にある。本紙ヘリ「おおづる」から直近の状況を空撮した。(山川剛史)
2016年6月、福島民友新聞がひとつの記事を掲載した。 福岡を拠点とするグリーンコープの震災応援販売企画が「東北5県」となっており(東北は6県)、福島県を意図的に外した「福島外し」、つまり福島を差別している、との内容だった。この記事は、社会に大きな反響を呼び、その後の福島のイメージや、報じられ方、復興政策へも多大な影響を与えることになった。 ただ、それだけ大きな影響を与えたにもかかわらず、結論からいえば、この記事は、控えめに言って福島民友の「勇み足」、中立的に言えば「確認不足」、強く言えば「誤情報に基づく扇情報道」であった。 (元記事が見つからないので、当時のBuzzFeedのリンクを貼っておく。) グリーンコープ側の説明は、「東北5県」と表記したのは無神経であったが、この時の企画に福島の商品が用いられていなかったのは、たまたま適当な商品が見つからなかったためだ、というものだった。 そして
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読書感想文:『人びとのなかの冷戦世界ー想像が現実となるとき』ー「災害ユートピア」の後始末譚、あるいは、なぜ我々は原発事故のあとに「風評」という社会的装置を必要とするのか? 1950年の朝鮮戦争期のアメリカ、日本、中国を中心とした世界的な社会変化を、冷戦世界観がどのように凝固していくかという観点から読み解いた内容になる。 毎日新聞の書評で、日本近代史を専門とする加藤陽子さんの書評で その本を読む前と後で、目の前の風景が違って見える本に何冊出会えるかで人生は変わってくる。今回取り上げる本は私にとってまさにそのような一冊だった。 とまで評されている。学問的な意味のでの評価は私にはできないが、本書で提起されている問題把握のしかたは、読んでみると確かにそうだ、なぜ今まで気付かなかったのだろうと思えるようなものだ。 第二次世界大戦の参戦国は、戦後、「人びとの社会戦争」と呼ばれる社会の分断——戦争中の非
この間の正月までは健在だった本家の義伯父も、昨年、足を骨折したのち入院生活に入ったとのこと。齢100歳。お盆につくるぼた餅をご相伴に預かったのは、一昨年の夏だったか。いつまで食べられるかわからないと思い、子供の頃からあまり好物ではないぼた餅を口に運んだ。10年の間に、年寄りたちはひとり減り、ふたり減り、あるいは衰え介護施設に入り、病院に入院し、親戚付き合いもすっかり静かになった。 10月末に見て回っていたこともあり、今年は年末恒例の沿岸の風車めぐりに行かなかった。ここから先はどこまで行っても同じ風景、と感じるようになったことも大きい。復興で開発された景色や箱物は、違和感を感じるものも少なくないけれど、いくつか美しさを感じさせる景物もある。沿岸の巨大風車もそのひとつだ。採算があっているのかどうかはわからないけれど、冬の浜のキーンと冷えた青空と太平洋を背にすっくと立ち上がっている姿は、風景にな
福島第一原発(イチエフ)の廃炉作業には1日約4000人がかかわっている。敷地内で作業員の食事を出す「給食センター」ができたのは2015年のこと。そこで働く栄養士や調理師は、なぜイチエフを職場に選んだのか。ノンフィクション作家・稲泉連さんの著書『廃炉 「敗北の現場」で働く誇り』(新潮社)より、一部を抜粋して紹介する――。 食堂ができて、ようやく「普通の現場」になった 12時00分──。 福島第一原発の一日の中で大型休憩所が最も賑わうのは、誰もが想像する通り昼食の時間帯だ。 とりわけこの現場で長く働いている作業員や東電の社員にとって、休憩所内に食堂が完成した日の喜びは忘れ難いものだと言えるだろう。 Jヴィレッジに戻るまで食事はおろか、水分さえまともに補給できなかった事故の初動時。通勤時にいわきの市街地や国道沿いのコンビニで弁当やおにぎりを買い、それを冷えたまま食べることの多かった日々──。例え
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10年前の3月11日、私は民間任用(2年満期)の内閣審議官として、メディアが立ち入れぬ首相官邸の最奥部で、事態の渦中に居合わせていた。 そんな人間の1人として、テレビ各局の「3・11」10年関連特番を見ていて、特に心揺さぶられた番組が2つあった。1つは、日テレの金曜ロードSHOW!「Fukushima50」(去年の劇場公開とは違った意味で) 。 もう1つが、NHKのETV特集「原発事故 ”最悪のシナリオ”/その時誰が命をかけるのか」。 ーーーそれらについてちょっと書こうかな、と思っていたら、奇しくも同じ2番組を挙げて先にコメントしている人が、意外な所にいた。 フランス「リスク・危機研」研究員の賞賛と憤慨フランスの「リスク・危機研究センター」(Centre de recherche sur les Risques et les Crises)の一員として、3・11以降たびたび来日し、福島原
東日本大震災のあと、最大1000人を超える人が避難した「タワーマンション」があります。 東京・江東区の湾岸エリアにある36階建ての公務員宿舎「東雲住宅」です。多くの人が憧れる大都会の生活を過ごせるように見えるこの建物。 しかし今、ここに避難している人の中には、なかなか連絡がとれなくなっている人もいると言います。 震災発生から10年。高層階に避難する人たちに何が起きているのか。取材を始めました。 (首都圏局 直井良介 田元俊之、水戸局 佐藤志穂) 「避難生活を始めたころに比べると、建物がたくさん建って、風景が変わったね」。 3年前の12月。 福島からの避難生活を続ける男性が、東京の湾岸地域を歩いていた道すがらにつぶやいたひと言です。 東京では、震災のあとも高層ビルの建設が相次ぎ、五輪の開催に向けた施設も完成しています。 福島からの避難者には、原発事故で故郷を追われ、帰ることもできない状態が続
デイサービス運営で多忙な日々を送る大井千加子さん(左)。震災の悲しみを越え、生きる力を得る場だ=福島県南相馬市(本人提供) 高齢者に寄り添った日々が、東日本大震災で奪われた。10年前の当時、福島県南相馬市の介護施設で勤めた大井千加子さん(59)は救えなかった命を思い、心の不調に苦しんだ。それでも「忘れないことが恩返し」と体験を語り、その際に訪れた淡路島の住民らとも交流。福島第1原発事故に伴う避難指示の解除を受け、デイサービスを新設した。「安心して故郷に戻れる環境をつくる」と前を向く。(佐藤健介) 泥にまみれたお年寄りを抱いた重みが、今でも記憶によみがえり、涙する。 あの日、勤務先の介護老人保健施設「ヨッシーランド」(同市原町区)で激しい揺れに襲われた。肌を刺す浜風に震え、車いすやベッドに乗り、駐車場で助けを待つ利用者たち。風呂上がりで、バスタオルでくるんだだけの人もいた。 どす黒い津波が海
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