ここんところ『宮』『歩歩驚心』と、立て続けに清朝康熙年間の宮廷ドラマを見ているので、ついでにドラマに出て来る康熙帝の皇子たちを紹介してみることにしました。(注:史実ではなく、あくまでもドラマでの設定に基づいた紹介です。) 大阿哥胤 長男だが、母親の身分とか本人の能力とか諸々の事情により太子になれず、二阿哥をライバル視。 二阿哥胤礽(理親王) 皇后赫舎里氏が産んだ唯一の男児ということで皇太子となるが、地位に奢り、私党を組んで利権を貪ったりして二度にわたって廃嫡される。 三阿哥胤祉 学者肌。 四阿哥胤(雍親王) 言うまでもなく後の雍正帝で、非リアの星。康熙帝の皇子たちの中できたないなさすがを体現する存在。当初は二阿哥の子分だったが、父帝にきたないなさすがな所と、息子の乾隆帝の資質を見込まれ、後継者の座をゲット。即位後にコスプレ趣味が開花し、乾隆帝にその資質が受け継がれる。 八阿哥胤禩(廉親
長崎県対馬市上県町佐護の西海岸で8月上旬、漂着しているのが見つかった木造の仏像について、韓国教員大の鄭永ホ(チョンヨンホ)名誉教授が23日、保管されている同町瀬田の円明寺(坂田全宥(ぜんゆう)住職)を訪れ、14~17世紀の中国・明代に作られた菩薩(ぼさつ)座像との見方を示した。(ホは金へんに高) 鄭氏は仏像の専門家で、対馬の各地で安置されている渡来仏の調査にも携わってきた。今回、漂着した仏像を紹介する新聞記事を見て、円明寺に足を運んだ。 鄭氏によると、仏像に制作者や年代などの表記はなかったが、大きく開いた目や表情、上のほうに付いた耳、膨らんだ腹など、明代の作品の特徴と一致する点が確認された。宗教的な文化財が破壊された文化大革命(1966~76年)の頃、海に捨てられて流れ着いた可能性もあるという。 腐食を防ぐ漆も塗られており、鄭氏は「漆や大陸からの海流などを研究するうえで貴重な資料だ」として
【新華社広州8月2日】広州のある建設現場で先ごろ、古代の墓群と遺物が出土した。広州市文物考古研究所が1日明らかにした。出土した墓群は、前漢(紀元前206~西暦8年)、東晋(西暦317~420年)、南朝(劉宋・420~479年、南斉・479~502年、梁・502~557年、陳・557~589年)、五代南漢(909~971年)、宋(960~1279年)、明(1368~1644年)の六つの王朝にわたっており、青釉磁碗、土地購入券などの副葬品が出土した。 今回発見された墓群は広州市茘湾区の小さな丘の上にある。広州市文物考古研究所の専門家である易西兵氏は次のように説明した。この丘は背後が山で川に面しており、「風水上の最高の土地」だ。そのため古代人はここを墓地として選んだのだろう。今回出土した墓は約60基で、惜しいことに、ほとんど盗掘されていて、墓と遺物はほぼ破壊されている。 ある南朝の磚室墓は、墓室
と言うワケで、こないだの記事で《満洲実録》を扱ってから悶々としていた宣和堂です。うーん。実はこの辺が良くわからんのですよね…。 ご存じの通り、現在知られる満洲語の歴史書で一番有名なのは、内藤湖南が日露戦争終結の頃に瀋陽故宮で発見した、通称《満文老檔》です。 で、この際に見つかった他の書物が清朝歴代皇帝の実録である《清朝実録》 と、合戦絵図と言われる《満洲実録》です…。中身や成立過程については後回しにしましょう。 あと同じく名前が挙がるのが《五体清文鑑》ですね。元々は満洲語の辞典で元々の題名も《Han i araha manju gisun i buleku bithe(漢語題名《清文鑑》)》。これが増補を繰り返し、漢語、チベット語、モンゴル語、ウイグル語をも収録した拡張版が《五体清文鑑》と言うコトのようです。検索したらこれに関してはさっくり画像がありました→《五体清文鑑》早稲田スゲー!むし
6月 22, 2011 (中国通信=東京)石家荘22日発新華社電によると、南水北調プロジェクト(水が不足している北京や天津などの中国北部に長江の水を導水する事業)の実施にあわせて、河北省の考古関係者は永年県申氏家族墓で5カ月にわたる緊急発掘を行い、明清時代の墓191基を発掘し、787点の遺物を掘り出して、当時の埋葬習慣の研究に大量の資料を提供した。 申氏家族墓は永年県メイ(江の工を名に)関鎮大油村の南部にあり、墓地の面積は約4万平方メートル。墳墓は1000基を超え、現地では「申家墳」と呼ばれている。墓地は山のふもとの丘陵地帯にあり、東側、南側、西側の3面は明山などの太行山脈の山々に囲まれている。 南水北調の工事が「申家墳」の一部にかかっているため、現地の考古関係者は昨年の5~7月期と11~12月期に、2度の緊急発掘を行い、土器、銅銭、墓志銘、石碑などを含む787点の遺物を掘り出した。 専門
と、久しぶりに辮髪ネタです。以前、金銭鼠尾と言う記事で、辮髪の変遷について触れました。うーん、正直あそこで書かれたような具合に変遷してきたかというと、疑問は残ります。というか、事実とは違うのではないかという気がしています。 と、以下に参考資料をズラズラ上げてみましょう。 まず、前期とされる時期の絵画資料デス。 ダイ・チングルン…というかマンジュ・グルン建国当初の基本資料である所の所謂《満洲実録》です。 いきなり生首で恐縮ですが、絵入りの史料にもかかわらず意外と辮髪を真正面から書いた絵が少ないです。基本的に帽子を被るのが満洲旗人の嗜みですから、事実がどうあれ絵画に描かれるのは帽子なり兜を被った状態のモノが殆どですねぇ…。まあ、自分も手元に史料を持っているわけではないので他の確認が出来ていないので何とも言えませんが…。 絵はヌルハチに敵対したジュシェン(女真)の実力者・ニカンワイランの首級をヌ
【新華社広州6月2日】明代の沈没船「南澳1号」の2011年度水中考古発掘作業は約半分が終了した。作業は大きく進み、大量の完形遺物と美しく、新しい遺物が引き揚げられ、沈没船の船体構造も徐々に明らかになってきた。
「推背図」について教えてください 中国の預言書ということです 20年くらい前に祖父からもらいずっと保管していました。 最近どこかでその名前を目にしてから気になり調べてみたのですが 自分の持っている推背図についての記述はほとんどなく これは果たして本物か、それともまがい物もたくさん出回っているみたいだし・・・ 詳しい方にお聞きしてみたいと思いました。 全部で三巻に分かれています。 本の表記には洪武30年?劉伯温 著とあります。 洪武30年というのは1300年代後期頃だと思いますが、 推背図は唐時代に作られたものらしいし これは一体どういうものなのだろうと思っていました。 もし本物なら600年以上前の本だし、ちょっとビビッてしまいます。 写真も載せましたので、ご存じの方どうぞよろしくお願いします。
【新華社瀋陽5月7日】遼寧省の文物局と測量・地図作製局は先ごろ、長城資源調査報告の中で、山海関の外側の遼寧省綏中県で長約20キロの長城跡を新たに見つけたことを初めて明らかにした。今回見つかったのは「南線長城」で、遼東鎮長城と薊鎮長城の関係が確認された。 新たに見つかった城壁は、綏中県永安堡郷ショウ(けものへん+章)狼銃村溝外屯の南嶺山長城第1区間から南線に属する李家堡郷婁家溝村荊条溝屯の荊条溝北山長城までで、北線の錐子山~金牛洞区間の長城と並行している。調査の基準に従い、この区間を32に分けている。城壁は石垣が中心で、南嶺山の自然の地形を巧みに利用し、北線長城と呼応する形で強固な防護障壁を築いていた。 調査に参加した遼寧省の考古学専門家、王綿厚氏は次のように述べた。学術界と文献資料では、遼東鎮長城の遼西区間と薊鎮長城の西端の接点について、見解が異なっていた。今回の発見で錐子山を境にした薊遼
漢軍八旗の構成員は基本的には漢人です。 (当時は民族の定義があいまいなので、漢族というよりも漢人と言った方がいいかと思います) ヌルハチ(努爾哈赤)の時代、後金に降った漢人により十六佐領が編成されました。 (佐領は金の言葉で「牛録(ニル)」という戸口軍事編成単位です。ヌルハチの頃、一牛録300人と決められました) 漢人の十六佐領は満洲八旗に属しました。 ホンタイジ(皇太極)の時、漢人が火器をよく使うので、漢人による部隊を編成しました。 これを「烏真超哈」といいます。「烏真」は「重い」、「超哈」は「兵、軍」の意味です。 満人の佟養性が昂邦章京(総管)となりました。 その後、漢人部隊は拡大を続け、二旗、四旗と分かれ、最終的に八旗一百二十九佐領、二万四千五百人が編成されました。 八旗の都統(固山額真。グサ・エジェン)は祖澤潤﹑劉之源﹑呉守進﹑金礪﹑佟図頼﹑石廷柱﹑巴顔﹑李国翰です。 祖澤潤のよう
と言うワケで辮髪画像が整理つかなくなってきたので、その過程で見つけた…というか今まで気がつかなかっただけなんですが、黄馬掛の画像を見つけたので、お茶濁すべくアップ。 と、ココで黄馬掛について少し。今を去ること十数年前…自分は学生時代、上海に一年間留学して、帰国の際に友誼商店で清代の衣服である長衫と馬掛を買って帰りました(当然お土産物のレプリカです)。黒い長衫と臙脂の馬掛でした。折角買ってきたので、大学の卒業式に長衫と馬掛を着て出席しました。と、それを見かけた顔見知りの先生から「どうせ馬掛着て来るなら黄色にせんとあかんやろ!」と言われました。当時は清代についての知識はほぼゼロだった自分はキョトンとして、何で黄色じゃなくてはいけないのか?と、先生に聞きましたが、結局教えて頂けませんでした(まあ、意地の悪い先生だったので卒業式でそう言うコトするわけです)。 以来、なんで馬掛が黄色でなくてはならな
Twitterで辮髪好きな方と絡むことも多くなったんですが、未知の大地に辮髪の花は開くモンなんですね。日本にもこんなに辮髪を愛する人たちがいるなんて胸が熱くなりすぎます。時代は変わったよ…ボクは一人じゃないんだ…と、独りごちるコトしばしです。 で、その中で、ラーメンマン辮髪について話が出たりしたわけですが、自分もネットか何かでラーメンマン辮髪も史実として存在したという記事を見たことがあります。しかも、ラーメンマン辮髪自体は正当なマンジュ風俗で、映画等にでてる辮髪は清末の大衆的な髪型であって、どちらも正解という感じでした。そんなこんなで、ラーメンマン辮髪の正式な言い方の方はすっかり失念していたんですが、ご指摘いただいたとおり、金銭鼠尾という名称みたいですね。語源は、銅銭程度の髪を残して、鼠の尻尾のように結んで垂らす…というところみたいです。 ちなみに、清朝において薙髪令で定められたあの髪型の
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