(城郭・戦国史研究家:西股 総生) 長い年月を隔てた過去との対話 大河ドラマで題材とされるできごとは、今から何百年も前に、たった一回だけ起きたものです。それらのできごとの痕跡は、古い紙に書かれて残っているか、遺跡として土に埋もれているか、です。 したがって、現代のわれわれが意識して文書や記録を読んだり、遺跡を掘り起こしたりしなければ、それらの痕跡が立ち現れることはありません。つまり、現代のわれわれが問いかけることによって、過去ははじめて「歴史」となるのです。
(城郭・戦国史研究家:西股 総生) 長い年月を隔てた過去との対話 大河ドラマで題材とされるできごとは、今から何百年も前に、たった一回だけ起きたものです。それらのできごとの痕跡は、古い紙に書かれて残っているか、遺跡として土に埋もれているか、です。 したがって、現代のわれわれが意識して文書や記録を読んだり、遺跡を掘り起こしたりしなければ、それらの痕跡が立ち現れることはありません。つまり、現代のわれわれが問いかけることによって、過去ははじめて「歴史」となるのです。
(城郭・戦国史研究家:西股 総生) 単なる歴史のドラマ化ではない「大河ドラマ」 『鎌倉殿の13人』、いかがでしたか? 僕は、「中世軍事考証」という立場で、ドラマ作りのお手伝いをさせていただきました。そこで連載のしめくくりとして、大河ドラマに携わった立場から、まとめと展望を少々、書いてみたいと思います。 まず、皆さんに再確認していただきたいことがあります。それは、大河ドラマは「歴史をドラマ化したものではない」ということです。だって、タイトルがそもそも「大河ドラマ」。「歴史」なんて一言もうたっていません。 長い時間の流れを一年間通してじっくり描くドラマだから、「大河ドラマ」。つまり「大河ドラマ」とは、「歴史をドラマ化したもの」ではなく、あくまで「歴史に題材をとったドラマ」なのです。そして、テレビドラマはエンタテインメントですから、本質的にはフィクションと考えるべきです。 とはいえ、歴史に題材を
日本史の一大転換点、承久の乱。その勝敗はいかにして決まったのだろうか。 『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビュー。最終回となる今回は、先週放送の第47話「ある朝敵、ある演説」、昨日放送の最終話「報いの時」について、専門家の立場から詳しく解説します。 『鎌倉殿の13人』の第47話では後鳥羽上皇の挙兵と北条政子の演説、最終回の第48話では承久の乱最大の激戦である宇治川の戦いと北条義時の最期が描かれた。己が果たせなかった夢を息子泰時に託そうとしていた義時は、志半ばで無念の死を遂げる。歴史学の観点から第47・48話のポイントを解説する。 院宣は発給されたか 承久3年(1221)5月15日、後鳥羽上皇の命を受けた大内惟信(平賀朝雅の甥)・三浦胤義(三浦義村の弟)ら800余騎が京都守護の伊賀光季(北条義時
(城郭・戦国史研究家:西股 総生) 政子が「尼将軍」と名乗った史実はない 一般に、北条政子は「尼将軍」として知られています。『鎌倉殿の13人』の中でも、小池栄子さん演ずる政子が、少々ドヤ顔気味に「尼将軍」を名乗っていましたね。ただし、史実では政子がそう名乗っていたわけでありません。 そもそも、征夷大将軍は朝廷が任ずる武官ですから、尼の政子が任官するはずはないのです。政子が幕府内に君臨する姿を、人々が「まるで尼将軍だね」と評したにすぎません。ではなぜ、政子は「尼将軍」と呼ばれるほどの存在感をもったのでしょう?
(城郭・戦国史研究家:西股 総生) 一掃された源家嫡流の血筋 源実朝が横死したのち、鎌倉幕府は新しい鎌倉殿として、頼朝の遠縁にあたる三寅を迎えます。わずか2才で鎌倉に下った三寅は、のちに元服して頼経と名乗りますが、彼の実家は摂関家の一つである九条家です。 公暁と阿野時元が相次いで討たれたことにより、源家嫡流の血筋が途絶えてしまったからです。将軍殺害の張本人である公暁は当然として、時元の方はどうでしょう? 『吾妻鏡』によれば、時元は「駿河国の山奥に武装拠点を構えて挙兵を企て、朝廷から宣旨をもらおうとしていた」となっていますが、本当のところはよくわかりません。そもそも鎌倉と京との間で、次期鎌倉殿として誰を下向させようか、という交渉を進めている最中に、時元を将軍に任ずる宣旨を出す、というのも考えにくい話です。
源実朝の暗殺には、真の黒幕がいた!? 『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビュー。今回は、先週放送の第45話「八幡宮の階段」、昨日放送の第46話「将軍になった女」について、専門家の立場から詳しく解説します。 『鎌倉殿の13人』の第45話では源実朝暗殺事件、第46話では阿野時元の乱と新鎌倉殿・三寅の鎌倉下向が描かれた。鎌倉殿の突然の死による幕府の混乱を収拾しつつ、後鳥羽上皇との駆け引きに奔走する北条義時。しかし、果断にして冷酷な権力者の横顔には深い孤独の影が差していた。歴史学の観点から45・46話のポイントを解説する。 公暁、実朝を暗殺する 建保7年(4月に承久に改元、1219)正月27日、拝賀の儀式が鶴岡八幡宮で行われた。『吾妻鏡』によれば、昼間は晴れていたものの、夜になって雪が降り、一晩で2尺
(城郭・戦国史研究家:西股 総生) 大江広元や三善康信は「正社員」 前回に引き続き、源仲章のお話です。いえ、別に生田斗真さんのファンというわけではなく、仲章のような人物の出現は、この時期の鎌倉幕府のあり方を象徴している、と考えられるからです。 ポイントは、大江広元や三善康信が幕府の「正社員」なのに対し、仲章は院からの「出向社員」という、前回持ち出したたとえです。鎌倉幕府のあり方を、おさらいしてみましょう。 もともと頼朝の挙兵は、追い詰められた流人によるイチかバチかの叛乱でした。ところが、三浦一族や上総介広常・千葉常胤といった有力武士団が合流したことにより、叛乱は坂東独立運動の性格を帯びるようになりました。 そして、頼朝が立ち上げた革命政府のような鎌倉には、広元や康信のような京下りの文官もやってきました。彼らは、何らかの事情で都に居づらくなったり、あるいは役人稼業に見切りをつけて来た人たち、
(城郭・戦国史研究家:西股 総生) 宇多天皇を祖とする宇多源氏 実朝とともに鶴岡の社頭で斬殺された、源仲章。 慈円僧正が書き記した『愚管抄(ぐかんしょう)』という書物は、実朝に付き従っているのはてっきり義時だと思った公暁が、仲章も斬ったという話を載せています。慈円は、「これは儀式に参列した人から聞いた話だ」とわざわざ断っているので、確度の高い情報と考えてよいでしょう。 そこで、仲章については、人違いで斬られてしまった気の毒な人物、のようなイメージを持たれてきました。というか、これまでさほど注目されてきた人物ではなかったのです。 ところが『鎌倉殿の13人』では、生田斗真さんが魅力的な悪役として仲章を演じていました。では、実際の仲章は、いったいどのような人物だったのでしょう。 仲章の家は文章博士(もんじょうはかせ)として代々院の近臣を務めてきたようで、仲章自身も後鳥羽上皇に仕えて、従四位上に任
『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビュー。今回は、先週放送の第43話「資格と死角」、昨日放送の第44話「審判の日」について、専門家の立場から詳しく解説します。 『鎌倉殿の13人』の第43話では親王将軍擁立工作、第44話では鶴岡八幡宮における源実朝の右大臣拝賀を舞台とした暗殺計画が描かれた。後鳥羽上皇、源実朝、公暁、北条義時、三浦義村、源仲章、それぞれの思惑が交錯し、事態は予想外の展開を見せた。歴史学の観点から第43・44話のポイントを解説する。 建保年間、幕政は安定していたが、一つ大きな問題が残されていた。実朝の後継者が不在であるという問題である。坊門信清の娘が将軍家に嫁いで12年の歳月が流れたが、2人の間には1人の子どもも生まれなかった。にもかかわらず、実朝は側室を持とうとしなかった。坂井孝
(城郭・戦国史研究家:西股 総生) 官職において頼朝を超えた実朝 建保6年(1218)3月、実朝は左近衛大将に任じられました。この時点で、実朝はすでに正二位の位階を得ています。亡き頼朝は正二位・右近衛大将でしたから、位階としては頼朝に並んでいます。 ただし、律令官制では右より左の方が格上。右大臣より左大臣、右衛門尉より左衛門尉の方が上となります。たとえて言うなら、同じ営業部でも第1部長の方が第2部長より格上、みたいなものです。 もちろん、右近衛大将より左近衛大将の方が格上ですから、官職において実朝は頼朝を超えたことになります。これと併行して、上洛した政子が従三位(じゅさんみ)の位を授けられています。 平安時代の貴族社会では、三位以上が政策決定に参与し、全国から吸い上げた富を山分けする立場のトップセレブ。すなわち、荘園領主=私領である荘園のオーナーや、知行国主=国のオーナーとなることのできる
広元と実朝とのやりとりの背景には、こんな事情がありました。とはいえ、実朝がついに子を為さなかった、という史実に照らして考えると、なかなか意味深なやり取りにも思えます(『吾妻鏡』の作文である可能性も否定できませんが)。 そこで、実朝が子を為さなかったのは、本人の性的能力または性的嗜好によるものではないか、と考える歴史学者も少なくありません。今回のドラマでは、泰時に対する秘めた想いという、まさかのBL的展開が話題になりましたが、まったく荒唐無稽な創作ではないのです。 ただ、もう少し別な考え方もできるように思います。 というのも、政子は当初、足利氏の娘を実朝にめあわせようとしました。ところが、実朝は京の貴族の娘を望んだため、坊門姫を迎えることとなった、という事情があるのです。これは、有力武士と婚姻関係を結んだ場合、政争に発展することを実朝が怖れたため、と考えてよいでしょう。この坊門姫が鎌倉に来た
(城郭・戦国史研究家:西股 総生) 史実をベースにエンタメに仕上げる妙 『鎌倉殿の13人』のストーリーは、史実をベースに構成されています。とはいえ、ドラマは本来はエンタテインメントですから、史実がそのまま描かれているわけではありません。むしろ、全体としてはフィクションだと考えた方がよいでしょう。 今回描かれた和田合戦の場合も、挙兵に至るいきさつや、戦いの展開などは、基本的にはフィクションです。まあ、視聴者の皆さんも、和田義盛が女装して御所に忍び込んだのが史実だとは、思っていないでしょうが(笑)。 ただ、その一方、意外に細かいところが、史料の記述に即して描かれていたりします。たとえば、和田一族が大挙して御所に押しかけ、その面前を後ろ手に縛られた胤長が歩かされるシーンなどは、『吾妻鏡』の記述そのままです。
仮に、関ヶ原合戦のときに20才だった者なら、島原の乱では57才。この世代の人たちは、実戦経験が豊富だったわけですが、島原の乱以降は少しずつ世を去ってゆくことになります。 ちなみに、島原の乱に20才で参加した者は、元禄元年(1688)には70才を過ぎている計算ですから、元禄年間ともなると、実戦経験のある人はもうほとんど残っていなかったことになります。こう考えてくると、「戦争を知らない世代」が中心となることによって、泰平の世が実現していったことがわかります。 同じような現象は、鎌倉時代にもあてはまりそうです。この解説の前々回で、北条時政と義時とのジェネレーションギャップの話を書きました。このジェネレーションギャップ問題は、義時と泰時との間にも当てはまるのです。つまり… 伊豆の田舎武士として生まれ育ったため、権力を持てあましがちな時政を鎌倉第1世代とすると、鎌倉幕府の成立過程が大人への成長過程に
(城郭・戦国史研究家:西股 総生) 上総介広常は上総一国の最高権力者 歴史ファンの中には、自分が住んでいる土地にちなんで、SNS上で「西股武蔵守」みたいに名乗る人、ときどきいますよね? まあ、微笑ましい名乗りといえますが、やってしまうと恥ずかしいのが「上総守」と「上野守」です。 なぜなら上総と上野は、「親王任国(しんのうにんごく)」といって、皇族の財政基盤として指定されている国だからです。当然、一般人は守になれません。それゆえ、上総介広常は上総一国の最高権力者だったのです。 実は、広常は正しくは「上総介」ではなく「上総権介(ごんのすけ)」でした。「権(ごん)」が付く官名は「権官(ごんかん)」といって、もともとは正規の職員だけでは業務をこなせないような場合の、臨時の増員措置でした。「臨時部長補佐」みたいな感じです。ところが、平安時代後期になると、貴族たちのハク付けのために「権官」が濫発される
『吾妻鏡』によれば、時政は後妻である牧の方(ドラマではりく)の讒言によって畠山討伐を決め、さらに牧の方に唆されて平賀朝雅を鎌倉殿に立てようと画策したことになっています。『鎌倉殿の13人』でも宮沢りえさんが、まるでシェイクスピア劇のように牧の方(りく)を熱演していました。 ただ、『吾妻鏡』の伝えるこの筋書を、筆者は鵜呑みにできません。この筋書は「継母(牧の方)-継子(義時・政子)」という、とてもわかりやすい図式による説明だからです。「わかりやすい」は、「教養のない当時の武士でも飲みこみやすい」と言い換えてもよいでしょう。 ご存じのように、執権北条氏の治世下で編まれた『吾妻鏡』は、北条氏の事績を正当化する傾向があります。とくに、義時の行動を正当化することに意を用いているようです。つまり、「重忠の乱も時政の失脚も牧の方が悪い」と主張しているように読めるのです。本当のところはどうなのでしょう? 以
『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビューする本企画。今回は、畠山重忠の乱を描いた先週放送の第36話「武士の鑑」、そしてタイトルも話題となった昨日放送の第37話「オンベレブンビンバ」について、専門家の立場から詳しく解説します。 『鎌倉殿の13人』の第36話では畠山重忠の戦死、第37話では北条時政の謀反が描かれた。北条義時は鎌倉幕府を守るため、ついに父・時政の排除を決断する。歴史学の観点から第36・37話のポイントを解説する。 畠山重忠の死 畠山重忠の排除を企む北条時政は、まず重忠の嫡男の重保を謀殺する。畠山重保は親戚の稲毛重成に招かれて鎌倉に来ていた(『吾妻鏡』元久二年六月二十日条)。だが重成は時政の娘婿であり、時政の指令に従って重保をおびき寄せたのである。 元久2年(1205)6月22日の朝、
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