「戦争体験を聞く」というテーマは基本的にWW2を想定して聞いていると思われるが、その当時の人に「聞く」ことのハードルが高くなっている現在、それ以外の戦争(昨今なら湾岸戦争やイラク戦争など)の体験を聞いてもおかしくはないと思うのだがどうだろうかという話。実際に提出して呼び出されたという体験談も。
「ヒトラー政権下でナチス・ドイツの市民として過ごしたけど、何か聞きたいことはある?」95歳の女性が質問に答える 第二次世界大戦をリアルタイムで知る世代も少なくなってきました。 ヒトラー率いるナチス政権下のドイツで、市民として当時を過ごしたという95歳の老齢の女性が、孫の力を借りて海外掲示板で質問を受け付けていました。 興味深いQ&Aをご覧ください。 95歳の祖母に、ナチスの市民として過ごしたのはどういうことだったのか、どんな状況だったのかを、掲示板を通して質問を受け付け、回答してもらったそうです。 女性は1920年に生まれ、戦時中(1939年〜1945年)はオーナーの妻とその兄弟がユダヤ人のハーフという会社に勤めていました。村で収容されなかったユダヤ人は彼らだけだったそうです。 会社が兵士の制服などを作っていたため、戦争にとても重要だったからとのことです。 当時の彼女の写真。 現在の彼女と
〈問い〉 日本軍の戦死者の6割が餓死だったというのは本当ですか?(神奈川県・一読者) 〈答え〉 アジア太平洋戦争において戦没した日本軍人・軍属の総数は約230万人にのぼります。その過半数は、戦闘行動による戦死ではなく、食糧が補給されないために起きた飢餓地獄の中での野垂れ死でした。この事実は、歴史学者である故・藤原彰氏が『餓死(うえじに)した英霊たち』(青木書店・01年)で実証的に明らかにしました。 自らも中隊長として中国大陸を転戦した経歴を持つ藤原氏は、大量餓死をもたらした日本軍の体質を明らかにし、この無残な死に対して直接の責任を負う日本の軍事指導者を告発するために、この本を書いたといいます。 近代初期の日本の戦争研究のなかに餓死の研究はなく、死因別統計もありませんでした。このため、藤原氏は、南方関係の資料や兵士の手記などを丹念に調査し、地域別に戦死者中の餓死者数を割り出しました。 餓死の
by ライブドアニュース編集部 ざっくり言うと 6日、田母神氏がTwitterで「大東亜戦争は聖戦である」と投稿した 大東亜戦争の意義に触れ、捻じ曲げられた歴史観についての持論を展開 日本の歴史観は、アメリカによって刷り込みが行われているとも主張している ◆田母神氏が「大東亜戦争は聖戦」だとして持論を展開 一昨日金沢護国神社で大東亜聖戦祭が開かれました私は4年前から大東亜聖戦大碑護持会の会長になっています。前会長は元参議院議員の板垣正さんでした。全国から有志が集まって毎年8月4日に大東亜聖戦祭が開かれています。大東亜戦争は聖戦だったのです。その結果人種平等の世界がきました。 この記事を見るためには この記事はlivedoorNEWSアプリ限定です。 (アプリが無いと開けません) 各ストアにスマートフォンでアクセスし、 手順に従ってアプリをインストールしてください。 関連の最新ニュース 記事
目次(PDF形式) はじめに―『フォークランド戦争史』刊行に寄せて(PDF形式) 石津 朋之 序章―フォークランド戦争とは何だったのか?(PDF形式) 第1節 フォークランド戦争に至るまでの歴史的背景 第2節 サッチャーとフォークランド問題 第3節 イギリスの対応 第4節 アルゼンチン側の思惑、そして誤算と誤解 第5節 イギリスの政治的制約と軍事的制約 第6節 戦争指導を考える―「戦時内閣」を手掛かりとして 第7節 サッチャーの戦争指導 第1部 フォークランド戦争の外交的側面 第1章 フォークランド問題の起源(PDF形式) 第1節 前史 第2節 交渉開始 第2章 1970年代の交渉の進展と停滞(PDF形式) 第1節 共同管理案の挫折 第2節 シャックルトン報告書 第3節 シャックルトン事件 第4節 キャラハン内閣と防衛問題 第3章 サッチャー政権以降のイギリス・アルゼンチン関係(PDF形式
小野田寛郎さんが91歳で亡くなってから1週間がたった。じつは、私の父・津田信は、1974年に小野田寛郎さんがルバング島から帰還したとき、小説を一時的に書かなくなって、『週刊現代』などの週刊誌のアンカー原稿を書いていた。その縁で小野田さんの手記のゴーストライターとなり、『週刊現代』に「わがルバング島の30年戦争」(のちに講談社から出版された)を連載した。そして、それから3年後、小野田手記は小野田さんが話したことを脚色したものであることを、『幻想の英雄』という本で明らかにした。 当時、私は大学生で、世間が小野田さんの帰還に大騒ぎをしているのは知っていたが、まさか父親が手記を代筆しているとは知らなかった。もとより、「最後の日本兵」と言われてもピンと来なかった。 それが、あるとき、父から頼まれて「着替えを持ってきてほしい」ということで、一気に小野田さんが身近な存在になった。というのは、父は手記を書
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