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小学生からやり直しに関するMidasのブックマーク (2)

  • 監視カメラは21世紀の“神様”になれるか - シロクマの屑籠

    規律や道徳が内面化されている人は、状況や他人の目線だけに依存せず、他人の目線が届かない時にも、盗みや怠惰に陥らず行動できる。万が一、盗みをせざるを得ない時にも、それが罪*1であるという葛藤のもとで盗むだろう。誰もいないところでも、怠惰や堕落に陥りにくい。 対照的に、自分の内側に規律や道徳がまったく内在化していない、状況や他人の目線だけに左右される人は、全てが状況任せ・他人任せになる。そのような人は、もちろんポリシーなど持っていないし、ただ、状況に流されるだけだ。周りがルールを守っている時には同じように行動するかもしれないが、他人の目線の届かない時にはルールもクソも無い。信号だって無視するし、他人の目の届かない(例えばプライベートな)空間では、やりたい放題やるだろう。怠惰や堕落を許す状況に対しても、なんらかの衝動に対しても、これといった免疫も無い。自分の内側に自分を制御する要素が無いのだから

    監視カメラは21世紀の“神様”になれるか - シロクマの屑籠
    Midas
    Midas 2011/12/02
    この主張がなぜデタラメかというと結局その監視社会では概念『道徳』が成立しなくなる(道徳的な人ばかりなら神様はいらない、が誤りなのと同じ)から。内面化すべきだった参照先としての社会規範(他者)も消えてしまう
  • 政治は何のために存在するか?と愚問して陳腐な結論に至る: 極東ブログ

    政治は何のために存在するか? 自明のように思えるので、あらためて問うと愚問のようだが、そのことが実際には世界で日で、各所で問われている時代なのではないかと思う。 政治は何のために存在するか、という問いは、政治とは何かという問いとは微妙に異なっている。政治とは何か、というのであれば、まずその語感から、"government"と"politics"の二面が想起される。 "government"であれば、"governance"つまり「統治・支配」のあり方が問われる。これを日国憲法のように広義に"control"(制御)と考えてもよいのかもしれない。"politics"であれば、そのまま「政治学」ともなりうるが、支配の含みもあり、支配力の関係が問われることになる。それは政策でもあるが党略とも言えるし、つまるところ政争であれ権力闘争であるとも言える。二面に共通なのは、「権力」のあり方が問われる

    Midas
    Midas 2011/11/23
    リバタリアンとコミュニタリアンが偽の対立なのは前者の「俺だけの善」が「彼の善は俺の悪」を、後者が「君の善と俺の善は同じだから俺によこせ」を排除できないから。政治倫理とは価値を社会(他人)から自律させる事
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