月末に福島を訪問しようと思っている。 この話をすると 「え?」 という反応が返ってくる。 「大丈夫なの?」 大丈夫に決まっている。福島の人たちは毎日そこで暮らしている。外から出かける人間が、2日か3日現地の空気を吸って土地の食べ物を食べたからといって何が危険だというのだ? もちろん、「大丈夫なのか」と尋ねた知人も、本気であぶないと思ってそう言ったのではない。「福島」という言葉を聞いて、反射的にそういう反応をしてしまったというだけのことだ。 この反応はわりあいに一般的だ。というよりもむしろ、ほとんどの人は、ちょっと驚いた態度を示すことになっている。 「えっ、フクシマ?」 「フクシマ? ヤバくないのか?」 「取材だよな?」 「どうしてよりによってフクシマに?」 「おお、チャレンジャーだな」 悪気があるわけではない。差別しているのでもない。ただ、現状の日本では、会話の中に出てくる「フクシマ」とい
第二次大戦以降、初めて日常性の断絶を日本人が経験している。三島由紀夫が呪詛した日常性が終ったのである。この悲惨な現実を克服する過程で、新しい復興という時代精神がこの島国に胚胎するかもしれない。
id:font-daさんにハイクのポストでidコール頂きました。 http://h.hatena.ne.jp/font-da/9258658669874907460 これについてid:elveさんにお返事まだ?と聞かれてブコメで「返事はこないだの記事に既に全部入っているのでしないです」と今朝書いたのですが、少し質問もあるのでやはり書いておこうと思います。 だいたいセクハラだと批判している人々の中で、自分の意見をちゃんとまとめてidコールしてくる人って、id:font-daさんくらいのものですし。*1 で、ほとんど書いてからfont-daさんがブログでずっと長くて丁寧な記事にしているのを見つけたのですわ(半分位は引用だけど)。あー‥‥。これに合わせて書き直す余力がない。でもハイクと重なる部分もありそうなので、あまり手を入れ直さないでこれはこれでアップしておきます。 id:ohonosakik
仙谷由人官房長官が18日の参院予算委員会で、「暴力装置でもある自衛隊はある種の軍事組織でもあるから、シビリアンコントロールも利かないとならない」と発言し、「自衛隊が暴力装置とはなにごとだ」という文脈で話題になった。仙谷官房長官も即座に失言を認め「実力組織」と言い換えた。 話としては、天皇機関説や女性機械説と同じ類の、学問をしてない人は誤解するということで、たいした失言でもないようにみえる。問題があるとすれば、仙谷官房長官の認識が間違っている点にある。自衛隊は暴力装置ではないのである。それは、タコ焼きがタコ焼き器ではないのと同じことなのだが、まあ、ご説明しようではないか。 社会学や政治学や法学の世界では「暴力」という言葉はドイツ語の"Gewalt"(ゲバルト)の定訳語として使われることがある。その意味で社会学での定訳語としての「暴力」は日常使う意味合いと異なることがある。 同じことは英語にも
報道に対する最初の発言が「怖いよ!」であることが、以降の反応を象徴している。 同性愛者ら「僕たちは身近にいます。どうか受け入れて」 札幌で700人が行進 特設ニュースちゃんねる 15 名前:名無しさん@十一周年[] 投稿日:2010/09/19(日) 17:06:15 id:nfSm89XW0 いやわかったから出てくるなwww 人に言えない性癖を持つ人間は山ほどいるんだから 他人だって聞かされるのなんて望んでないよwwww 17 名前:名無しさん@十一周年[sage] 投稿日:2010/09/19(日) 17:07:39 id:y3CUZhDS0 普通に生活してりゃいいのにこんなことするからじゃね 「デブ専で熟女フェチの僕を受け入れて」なんて行進して理解を求めようとは思わないもの 23 名前:名無しさん@十一周年[sage] 投稿日:2010/09/19(日) 17:10:20 id:rK
ネットに蔓延する科学教を考える : 情報学ブログ へ僕がブクマコメをしたことを皮切りに、ツィッター上で情報学ブログの人とやりとりをしていましたにゃ。 その経緯については、 地下猫氏とinfoblogaのやりとり - Togetter @infobloga vs @tikani_nemuru_Mのツイ談 - にらめったー(NearMetter) をご参照の程を。 で、とりあえず僕は情報学ブログの人とのやりとりは無意味なのでやめましたにゃ。 その判断理由について、以下に述べますにゃー。 1)情報学ブログは自分の発言に責任を持っていない 「痛いのやだ」「飢えるのやだ」という基本的な欲求から定量化がはじまってんの。まあ、そもそも痛みや飢えも定量的な側面を持つしな。 地下猫 http://twitter.com/tikani_nemuru_M/status/22497892869 ちなみに、まさか痛
先日、9月27日、秋葉原で在特会*1のデモが行われました。デモを行う街道で、一人の男性がビラに「排外主義 反対です」と書いて、無言で立ちました。在特会の人たちは、男性を取り囲み、日の丸を掲げて、男性を壁際に追いやりました。杖で殴ったと証言する在特会の人もいます。男性は警察の保護もあり、集団から逃れました。その様子を動画に撮り編集した人がいます。おそらく在特会のメンバーもしくは支持者でしょう。以下にリンクします(実際に殴っている様子もありますので、ご注意ください) 動画について、「排外主義はともかく、暴力はよくない」というコメントをする人が、たくさんいました。 このビラを持って立っていた男性は、id:toled(常野雄次郎)さんです。toledさんは、「はてなサヨク」を名乗るはてなダイアリーの書き手です。toledさんは、すべての暴力を、暴力であるがゆえに、否定する立場をとりません。フランス
承前*1 意識であれ社会であれ、なんらかの「二次的構成体」について、その基底である「一次的構成体」*2による「規定」という事実を指摘することは(あっ、駄洒落になってる)、当該の「二次的構成体」をその基底である「一次的構成体」によって「基礎付ける」ということを必ずしも意味しているわけではない。 そもそも、十分な観察や経験に基づき、かつ論理的に言っても十分な妥当性を有することを前提とすれば、ある事象に対する「基底」の指摘は基本的に「事実」の問題であって(むろん、それが誤謬である可能性はあるかもしれないが)、当該の事象を他の事象によって「基礎付け」しなければならないとか、「基礎付け」すべしとかいうような「当為」命題とは関係のない話である。 実際、意識であれ社会であれ、「二次的構成体」はすでにそれ自身として成立し機能しているのだから、その「二次的構成体」については独立して論じることはできる。だから
⇒おサルの世間の真正性 - 地下生活者の手遊び まず、私たちはサルではないし、遺伝子の産物でもない。この大前提について確認しておきたいと思います。 自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会は、ひいては公共は、価値的な人工物です。その価値に対するコミットは問われます。コミットなくして人工物は維持されないので。その人工物を抽象的な国家が代替する発想こそスターリニズムです。「その人工物を抽象的な国家が代替する発想」をtikani_nemuru_Mさんが一貫して退けておられることは知っています。 自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会――ひいては公共――という価値的な人工物に対するコミットは共同性に対する批判を含意する。なぜなら、共同性が喚起してきた殺し合いの歴史を私たちは知るから。近代以降にあって、共同性とは政治的な動員の装置でしかない。そもそも「共同性」の観念が近代の産物なので。「自然」の観念が近代
何を書いてもまともに意味さえ取れない人を相手にしてきたことに漸く気が付き、うんざりして降りたのだが*、議論自体があまりにも醜悪になってきたため、また更に醜悪な差別主義者が馬鹿を抜かし始めたため、一言口を挟ませていただこう。ただし、後に述べるように、差別に関する公共の議論は根本的に無意味であり、社会による調停は必然的に失敗する、という現在の立場から、この件に関して議論する気は全くない。 *前項について私が最後にはてなブックマークを見た時には、少なくとも三人は、どうにか読めたらしい人がいた。sk-44氏はそのいずれでもなく、よりにもよって一番お馬鹿な「スタージョンの法則」でお読みになったらしい——原理的に不可能、可能性ゼロ、が、どうして「スタージョンの法則」なんだ? 誰にでも解るように多少噛み砕いて言ってあげよう——エロを目指す表現とは、性そのものではなく性に向けられてきた既存の言説の中で行わ
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090716/p1 てゆーか、ぶっちゃけ戦略とかどうでもいいんですよね。ぼくの問題関心は、全体的な風潮としての反規制論と、規制派を「キチ○イ」「電波」の領域に落とし込むことでしょうか。 ■どう見てもバカなあいつのこと http://d.hatena.ne.jp/flurry/20080116#p1 自分のことに比べて、あいつのバカさ加減はなんと自明に思えることでしょう! さらに言うならば、ある種の信念は、他人と自分との認識のギャップであったり、無知な他人が居るという信念だったりに支えられているのではないでしょうか。 といういつものアレですが。 もしかすると「敵を悪魔化する手法」といったほうがとおりがいいかしら。 まあ、たとえば http://anond.hatelabo.jp/20090716142012 ですかしら。 これに
「固有性の棄却」 いろいろ来てますが、まぁ、一つずつやってくしかないですね。 今更こんなことを書かれるのであれば、一度、発端の記事に戻って検討して見せるしかないですね。>http://d.hatena.ne.jp/F1977/20090331/1238475336 (A)昔から、「民族意識をもて!」とか「民族の誇りを持って生きろ!」と言われることがとても嫌いでした。わたしは、「民族」である前に、ひとりの個人であるし、もし、何か誇りを持って生きることが「立派」で「正しい」ことなのだとしたら、それは「民族」としてではなく、ただの「個人」として誇りを持って「正しい」生き方をしたい、そう思っていました。だから、「民族」「民族」と、わたしに「民族」を押し付けてくる、一部の同胞の社会や人たちを敬遠していました。今でも、その思いはあまり変わりません。 (B)ただ、そういう人がなぜ「民族」「民族」と言って
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