私「来週にxxで飲み会します!参加希望の人はxx日までに連絡をください!」 A「飲み会いいですな。でも誰がこれ参加すんの?w」 「参加する人おしえて」って言いたいんだろうけど、「お前の飲み会に誰が参加すんの?w」って煽られている気がする。 こんな風に無意識下で人をイラッとさせる文章を書く人が周りに数名いるんだけど、 その人達とメールのやり取りをするのが本当に苦痛だ。 そんなつもり無いんだろうけど、見下されているような気がして気分が悪くなる。
私「来週にxxで飲み会します!参加希望の人はxx日までに連絡をください!」 A「飲み会いいですな。でも誰がこれ参加すんの?w」 「参加する人おしえて」って言いたいんだろうけど、「お前の飲み会に誰が参加すんの?w」って煽られている気がする。 こんな風に無意識下で人をイラッとさせる文章を書く人が周りに数名いるんだけど、 その人達とメールのやり取りをするのが本当に苦痛だ。 そんなつもり無いんだろうけど、見下されているような気がして気分が悪くなる。
くやしい 書きたいことが書けない 増田だったら匿名だからどんなことでも書けると思ったのに 特定のことを書こうと思うと自分の心が拒否してかけなかった 頭の中に文字は浮かぶけどそれをキーボードを通してテキストボックスに入力することができなかった おそらく怖いからなんだろう 自分が何を考えているのか、自分が無意識の中で何を考えているのかを意識的にとらえるのが怖いからなんだろう あるいは客観視するのが嫌なんだろうか?自分の声を録音して聞くのが嫌なように 自分の思考を受け入れるまでにどれくらいの時間がかかるんだろう いつかは受け入れられるときが来るんだろうか 分からない 「自分の弱さがわかった。ここから先に進んでいける」 それはそう。なぜ自分の生の声を書くのが怖いのか、ちゃんと考えていかないといけない 眠る前の、眠りに到達するまでのあの数時間をつかって、自分自身を解析していこう
ツイッターやネット掲示板に適応しすぎたのだろうか。 500文字を超える文章を書くことが出来なくなった。 単純に自分の知識量の不足から来る文章材料不足によるものなのだろうか。 起・承・転・結に与太話を挟んだものをいくら引き延ばそうとしても500文字を超えることが出来ない。 正確に言うと蛇足に当たる文章を書こうとすると体が震え始めて書くことができなくなる。 きっとこのネットの世界で読む価値の無い長文を見続けてきたせいだろう。 中身の無い文章、当初のテーマと違う話が始まること、そういった類の文字列を自分が書くことは許せないのだ。 とはいえ50文字程度ならそういった物も平気では有る。 さて、話は戻るが私はあまり長い文章を書くことが出来ない人間になってしまった。 小中学校の日本的国語教育で培われた何の価値もないただ文字数を増やすだけの言葉を紡ぐことが出来なくなっているのだ。 その上で自分自身から見て
文通始めたんだけど、すごく難しい。でも楽しい。 普段文字なんて書かないし、頭わるいから全然まとまらない。 頭語と結語、「拝啓/敬具」くらいは知ってたけど、色々な種類がある。 返事を書く場合は「拝復」なんてのもある。「かしこ」は女しか使えないんだね、知らなかった 時候のあいさつ、 「新緑の候」「風薫るさわやかな季節となりました。」「街路樹の葉が青々と生い茂り、目にあざやかに映ります。」 この一文が入るだけで品が出るような気がする。素敵 肝心の内容が一番悩む。 何もない平凡な日常を切り出して文章を書き上げるってまじ無理。。。 「趣味はアニメで一日中部屋に篭ってます!GWはずっとご飯食べたり寝たりしてました」 「最近体重が増えてズボンの上に肉が乗ります。セルライトがすさまじいです」 マイナスなことしか思い浮かばない…季節を感じさせる爽やかな文章なんて書けない…もっといろんなことしとけばよかった
数年前、母親(40半ば)の小6頃に書いた手紙を見た。 内容は良く覚えていないが、とても大人びた文章だった。 大人びたっていうのは、内容如何の話ではなくて、言葉遣いや文構成のはなし。あと字もきれいだった。 資料館とかに行くと、徴兵で戦地に行く17やそこらの子供たちの手紙なんかも すごくしっかりした文章だという印象が強い。 どうしてか、今の人たちの文章にはそれが無いように思う。 SNSが発達してとか、携帯やメールを使うようになったからとか、そういうことじゃないと思う。 自分は教育関係の仕事に携わるものでもなんでもないから、日本の教育論ってのは分からない。 でも、どうしてあの頃のようなしっかりとした文章が書けないんだろう? 「先生、あのね」なんて、いつから出てきたんだろう。 一概には言えないけど、昔の人と比べたら大半の日本人はアホになってると思う。 かくいう自分も、あんな文章は書けない。 どうい
「紺碧の真空に閃光が走った。それは少女が思う刹那の恋にも似た瞬間だった」 などという形容詞の連続で賢く見せている阿呆な文章が多いこと。かっこつけすぎてて逆にださくなってる。 斉藤和義風に言わせれば「フェンダーギブソンおもちゃじゃねえんだ」みたいな。
俺を知ってる人からすれば俺の書く文章は面白いしもっとブログ書けと言われるけど練りに練ってるんだよね 最近書いてなかったせいで増田で書こうとしたら文章まとまらなくて諦めてしまった。 諦めたと言ういきさつを書こうと思ったけどそれすら諦めて結局、こんな投稿になった。 そしてブログの記事の下書きだけが溜まってゆき、見かえして人で笑ったり悶えてるたりしてる
ブログで こんにちは○○です。いつもうどんばかり食べてますが実は蕎麦派です みたいな書き出しの人って結構いるじゃん?一応、つかみなんだろうけど、それってもうテンプレでしかないじゃん?あーゆー書き方をする人ってキャラクターを押し出してると思うんだけど、それってどうかなー。 お笑い芸人でもタレントでもキャラクターが愛されるというのはあると思う。というか皆そう。愛されないキャラクターでは笑いは生まれない。でもね、愛されるキャラクターであって、その上で何をやるかなんだよ。愛されるキャラクターでありつつ話芸が優れてるとか、本芸に秀でているとかそういうことなんだよ。キャラクターだけじゃないんだよ。 キャラだけで売ってる人もいるけど、そういうのは底が浅いじゃん。浅いの分かるじゃん。それではダメだと思うんだよね。 件の書き出しで始まるブロガーって、愛されるキャラを目指してるんだろうけど、本文はあんまり面白
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