江戸時代の始まりとなる1600年の関ヶ原の戦いにより、豊臣側の石田三成と徳川家康との間で決着がつきました。 しかし、豊臣側の代表は石田三成であり、豊臣の軍勢はまだ残っています。 そして豊臣の影響力は秀吉が居なくなってもなお大阪を中心に強く残っていました。 そこで、徳川が考えた最大の言いがかりと言える方広寺鐘名事件が起きました。 今回は、この『方広寺鐘名事件』について簡単にわかりやすく解説していきます。 方広寺鐘名事件とは (方広寺の梵鐘) 方広寺鐘名事件とは、1614年(慶長19年)に方広寺の梵鐘に刻まれた文字に対して徳川家康が激怒する事件のことです。 豊臣秀忠が方広寺の大仏を鋳造した際に合わせて作った梵鐘(ぼんしょう:大きな鐘のこと)に「君臣豊楽」「国家安康」という文字が彫られます。 徳川家康は、これが家康の文字を引き裂き呪いの文字だと激怒しました。 この事件をきっかけに大阪の陣が勃発。