どうせネタ無いし、よそのブログや報道記事の 朴李ばかりでは気が引けるので、本から朴る。 でも、全部は面倒だし著作権の問題もあるだろうから (殊勝だな♪)、少し(多めに)丸写しします。 得と思えば儲けもの。 どんどん付け足そうかな。 中央公論新社には、こちらに連絡して頂ければ、 事後処理御相手致します。 小室直樹 『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』 1976年10月ダイヤモンド社刊 1991年2月10日 中央公論社刊 はしがき 「これは、ナチスや軍国主義者でも企てなかった文化破壊 である」と、大学紛争の兵火にかかって烏有に帰した 東大法学部の廃墟に立って、丸山真男教授はこう叫んだと 言い伝えられる。戦後四半世紀を経て、デモクラシー教育は、 とんでもない鬼子を生み育ててしまったようだ。大学紛争を 契機として血のタブーが破られることによって、あんなにも 厳重にとじこめておいたはずの暴力主義の
小室直樹氏によると、戦前も戦後も、エリートというのは、同じ考えで動いているという。 それが「盲目的予定調和説」というもの。 現在の特権官僚・ビジネス・エリートの思想と行動とが、いかにエリート吟じんのそれと類似しているか、それどころか、構造的に同型であるか明白であろう。戦後日本においても、特権官僚とビジネス・エリートとの特権は依然として大きい。ここに、特権官僚とは、国家公務員上級職を上位の成績でパスして本省採用となった、いわゆるキャリア組をいう。彼らは、超特急のスピードで昇進し、若くして国策を左右しうる地位に就き、早々に退職して、ビジネス・エリートとなり財界の支配権を握る。また彼らは、政界に進出しても極めて有利な位置に立つ。このような特権的立場は、彼らにノブレス・オブリッジ(優者の責任)の意識を生み、また彼らは、極めて優れた人材でもある。愛国心と自己犠牲の精神にも富み、現在日本の発展は彼
以下は、早朝勉強会及び大学の「文化人類学Ⅱ」のレポート用に『危機の構造』(小室直樹著 中央公論社 1991)を要約したものである。 まず、第一章の要約を載せておく。 (開始) 『危機の構造』要旨 P7~P35 近代国家のひとつの要素である近代デモクラシーの理念は、制度は作為であり、人の手で変えたり壊したりできるというものである。日本も近代憲法を輸入するなどデモクラシーという体制へと切り替えようとした。しかし、日本では明治期以降、欧米列強に独立国家という承認を得る必要から近代理念を輸入したに過ぎず、西洋のように歴史の中で長い時間をかけて形成したわけではないという現実があった。この、現実と理念の矛盾を象徴しているのが戦後デモクラシーであり、「制度や慣行は確固不動の所与である」という認識のため、機能しないどころか支障をきたしているのである。例えば、ロッキード事件とニクソン追放を比較すればそれがわ
小室直樹の「危機の構造」ははじめ1976年にダイヤモンド社から刊行された氏の処女作である。のちに中公文庫の収められた。わたくしのもっているのはその文庫版(1991年)であるが、それも現在絶版のようである。 本書をもって氏の最高の著作とするものも多い。ここでいわれている「盲目的予定調和説」と「中立の権利の尊重」を、全共闘運動との関係で考えてみたい。 まず「盲目的予定調和説」:これは(1)大多数の無自覚な国民とは異なり、自分たちは自覚したエリートである。日本の運命は自分たちの努力にかかっている。(2)この努力は「特定の行動」の遂行という形でなされる。これに全身全霊を打ち込むが、それと関係ないことは無視する。「その他の事情」は自動的にうまくいき、日本は安泰となる。(3)だから「特定の行動」の遂行こそが肝要なのであり、成果は問題にされなくてよい、というものである。 小室氏はこれが連合赤軍の基礎をな
ご無沙汰です! うっかり2カ月近くブログを放置してしまいました。たいへんすみません。 今日から心を入れ替えて、なるべくまめに更新します……というわけではないのですが、先日特別なことがあったのでそれを記しておきます。 3月6日に大岡山の東京工業大学で行われた「小室直樹博士記念シンポジウム」を参観してきたのです。東工大のキャンパスは日当たりの良い芝生があったりして素敵でした。 ■小室直樹先生と僕の、かすかだけど忘れられない思い出 小室直樹先生は、僕が会社に入った直後から5年くらいお付き合いさせてさせていただいた、天才学者だ。そして政治評論、経済学指南、社会学、歴史……当時僕がいた新書判ビジネス書編集部の堂々たる主力兵器、いや決戦兵器だった。何か社会的に大きなトピックがあると「小室さんに書いてもらわなきゃ」「読者は先生の本を待ってる!」と先生に頼り切っていた。「最近売れんなー」「ここらでベストセ
徳間書店 2000年6月 小室直樹氏は“文明開化の人”だと思う。変な言いかたかもしれないが、学問の神髄は西洋にあるので、学問を志すものは徹底的に西洋に、それも一流の西洋に学ばなくてはいけないとする人とでもいうような意味である。 だから経済学でいえば、ケインズやサミュエルソン、社会学でいえばマックス・ヴェーバー、デュルケイム、パーソンズといった人々を徹底的に学んで自家薬籠中のものとするという方向である。小室氏の本でケインズやヴェーバーの説について批判的に言及されているのを見たことがない。 本書はキリスト教、仏教、イスラム教、儒教をとりあげた宗教原論であるが、それが依拠しているのはヴェーバーの宗教社会学なのではないかと思う(わたくしは「プロテスタンティズムの倫理・・」以外の本を読んでいないので判断する資格はないが)。橋本治氏の「宗教なんかこわくない!」を読んでいて本書を思い出した。以前に買って
Open The Triangle Gate & Naoki Tanizaki Naming Rights Akira Tozawa & BxB Hulk & Fake Naoki Tanizaki (C) vs Ryo Jimmy Saito & Genki Horiguchi & NT
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く