若い頃身近に米人がよくいて、蝉の声が聞こえる季節になると、あれって英語でなんていうのと聞いてみた。cicada、locustと、おきまりな答えなのだが、どうもイメージが違う。いや、それを指し示すという点では同じ実体を指すのだろうが、どうもなんか違うな、違う世界を見ているなという感じがする。なんというのか、あれ、おじゃる丸に出てくる電ボ三十郎みたいなイメージで、ああいう透明の大きな羽根をもってばたばたという存在を、cicada、locustと呼んでいるのだろうなと思った。 自分はセミというとなんだろ、とにかく米人たちのイメージのそれではない。なんというのか、もうちょっと奇っ怪なというかしょこたんが頭に飾っていたあれみたいな。 それと蝉の声がどう聞こえるかと聞いてみるのだが、要領を得ない。雑音が波音のように聞いているのかもしれない。米人の脳、みたいなアホーな議論をしたいわけではないが、蝉の声を
日本人にもいろいろあるように、なんてどころじゃないくらいアメリカ人というのはいろいろあって、みんながそれぞれ見えるところで象を撫でるの感だけど、逆にいえばそうして撫でた部分だけは経験の真実なんだろうと思う。まあ、だれもがそんなもの。でも、そのなかで、どこかしらアメリカってそういうことかみたいなものはある。抽象的に言えば、アメリカというのはNew Worldということなんだろうとおもうし、ドボルザーク的な響き。 話がわかりにくくなるけど、アメリカ人というのは世界の田舎者なんだ、そして、そのことを実に痛感している人々なんだという感じが、20代後半になってなんとくなくわかってきた。以前は日本人は海外団体ツアーで旗のもとにぞろぞろ歩いていたものでそれを揶揄されたものだけど、トルコとから観光旅行してみたら、それやっているのは米人だった。ああ、同じじゃん、と。 そのあと、一人でギリシアとか周って、観光
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