理系は文系を騙してきたのか 「原発問題は、人災だ」といろんなところで言われている。 こういうのは、危険な言い方だけど、世の中の大半の人は、事故が起こるたびに 「『理系=強者』が『文系=弱者』を騙してきた」 と感じているのかもしれない・・・などと、最近は思ってしまうのですよ、加害妄想症の理系人間としては。 ナイーブな嘘の告発 僕がこんなことを言い出したのは、このサイトを読んだからだ。 2011-04-08(金) [長年日記] 斉藤和義の「ずっと嘘だった」という歌が評判だというので聴いてみたけど、「なんだこりゃ」だった。 (中略) こんな歌、十代の子供なら許されるかも知れないけど、斉藤和義はもう44歳、おれと同世代じゃないか。この歳になったら言っていいのは「(自分より若い世代に対して)無知でごめんなさい、騙されててごめんなさい、黙っててごめんなさい」だろうよ。いい大人がイノセンスぶって責
八百長より恐ろしいもの なんか、世の中が大相撲の八百長で大騒ぎしているらしい。 別にそんなもん、どうでもいいじゃねえのか、とか思うのだが。 * そもそも「相撲に八百長は一切無い」と、心のそこから信じていた日本人って、何人くらいいるんだろう?たぶん、あんまりいないんじゃないかなあ、と思う。 週刊誌では、相撲の八百長の話がずっと書かれていたし、いろんなところで言われていた。でも、証拠が無いから、まあ「見なかったこと」にしていたわけなのだろう。 ホンネでは八百長があることを知りつつ、タテマエのうえでは八百長のことはいわない。ところが、証拠が見つかってタテマエの世界に出たとたんに、すげえ大騒ぎになる。 正直言うとなんか、こういう世界の仕組みが、ちょっと気持ち悪い。 * こういう話は、どこにでも転がっている。このまえは、検察で大騒ぎしていた。 検察が強引な取調べとか、でっち上げしているのは、
時計職人の愛と解剖 僕は、困った人間で、壊れたものを直すのは得意だけれど、動いているものを壊さないのは苦手だ。どうも、そういう困った人間は、ある種の業界に多いらしい。 WIRED VISIONで「「注意力散漫」とインターネットと創造性」という記事があった。 ・・・創造性とオープンな考え方とに関係があることは長らく知られているが、注意力散漫というのは、考え方がこれ以上ないほどオープンな状態と見ることもできるからだ。 潜在抑制の機能の低い人は、文字通り「心を閉ざす」ことができなくて、注目というスポットライトを舞台の隅々にまで走らせ続けている。その結果否応なく、これらの人は思いがけないものについて深く考察するようになる。 まあ、そういう「ADHD的な何か」を抱えている人間としては、ついつい「創造性」という怪しげな宗教に救いを見出したくなってしまうのは事実だ。そして、やはり物書きには、そういう社
ホンネとタテマエ文化の再構築 今週のヤングジャンプのサラリーマン金太郎で、例によってタナボタで出版社の経営者になった金太郎が、経営会議の場で 「黒字のときに、バカ正直に税金払っていたのが間違い。節税のために土地でも買っておけ」 という、《経済バカ+バブルバカ》な発言をしていた。 ・・・・金太郎よ、お前もか。 昔は、「自分が損してスジを通す」という古いヤクザ価値観のキャラだったのになあ。そういう自己犠牲キャラは、主語が「会社」になると、ねじが外れたように酷い利己主義者になったりする。 以前、立ち読みの話題(http://togetter.com/li/46420)があった。 「税金払う奴がバカ。税金を逃れるのが賢くてカッコいい」 という価値観は、「新刊買いたく無いでござる、金を払わず立ち読みするのが賢い」 という価値観とも、通じるものがある気がする。 つまり、言いたいのは、 損得勘定
「マナーを守りましょう」だとか、「患者さんに敬意を持って接しましょ う」だとか、理念を毎日唱えても、人の行動は変わらない。 何かを変えるときには、考えかたを改めて、結果として振るまいが変わっ ていくのが正いけれど、たいていそれは上手くいかない。 ある振るまいかたを外側から強制することで、たとえば特定の単語を使用 禁止にしたり、特別な会話のルールを作って、病棟にいるときにはそれを 守ってもらうようにすると、面白いことがおきる。 変更されたのは「外面」 だけなのに、それを続けて慣れてしまうと、その人の考えかたが、根本から 書き換わってくる。 「言って」を「教えて」に言い換える 病棟では普段、患者さんに対して、「何かあったら言って下さい」という 言い回しを、当たり前のように使う。 たとえば「言って下さい」の代わりに、「教えて下さい」という言葉を使う というルール作ると、「言って」が染みついている
西尾維新と、日本の幸福な密室 書類を整理していたら、アイデアメモがでてきた。 「西尾維新にとってのギャルゲーシステムとは、密室?」 と書いてあった。 昔の俺、結構おもしろい目の付けどころだと思った。自画自賛。コレだけだと普通の人には分かりにくいので、メモの意味を説明すると、こうなる ↓ 西尾維新の密室 西尾維新は、ミステリ作家でもある。 ライトノベルの能力が高すぎて見過ごされがちだが、ミステリ作家としての西尾維新も結構おもしろい。 西尾維新のミステリは、とことん「密室」に戦力を集中している。たとえば、戯言シリーズは最終話をのぞいてすべて密室ミステリだ。 多分、ミステリとしての完成度は、「クビシメロマンチスト」が一番高いだろう。とはいえ、他のバトルと独り言の印象が激しすぎて、そもそもこれが密室ミステリであることを覚えている人はほとんど居ないのだが。 この本でもそうだが、単なるトリック
ブクマで人気のある増田をたまに読む。怒りとか死とかレイプとか、まあ、人は関心をもつよなというテーマの作文がある。ああ、これは本当だろうなと感じるのと、ああ、これはネタだろうなと感じるのがある。後者は、文章技術だ。あ、これは書き慣れている人の技術だという兆候があると、嘘くさいなと思う。こことここがその兆候だよ指摘するのもなんだしなとも思う。まあ、簡単にいうと関心の釣り方と転がし方だ。つまり、それが気を引いて読ませになっている。 人間の実体験というのは、それがユニークなものほど実は伝わりにくい。そしてそれはうまく言語になってこない。 文章というには技術もあるし天性もある。技術というのはしかたない面もある。でも、"Don't be evil" という感じは、私はするな。 文章の技術というのは思考の型でもあるから、対人的な意識の踏み込みにどうしても甘い部分が出てくる。
空を見上げると春霞といったようす。春だなと思う。昨日、村上宣寛氏の書籍の紹介で親の育児態度の影響は子の性格にはあまり関係ないというよく知られた話に触れたが、そうはいっても人間の個人の自身の性格の理解は物語の構造を取るもので、過去の事件や親子の関係がそれなりに物語化されている。それを脱構築というか解体することは、それほど容易なことではない。ふと思ったのだが、恋愛や結婚の関係、あるいは長い職場関係もそうか、こうした比較的長期に及ぶ関係もその理解は一つの物語の形を取るのだろう。そして、多少なり、世界や自分を客観視できる人ならあるいはそういう客観視をせざるを得ない人なら物語性のもつ胡散臭さを直感している。あるいは。誰にもそうした直感はあり、物語を強化する必要---感情的な必要---があって、そこから物語の希求が起こり、実は「正義」や「他者の排除」ということはその物語の要請から起きるのかもしれない。
『週刊現代』を編集の方から頂戴したのでパラパラみてたら、表紙にあったハマコーの「小沢くんはさびしい」とかいう特集は、これはまるごとただのハマコーのTwitter論になっていて結構面白い。ただ中味がある発言はハマコーは別にしてなく、いままでもただ読んでて面白いだけで、そのうち飽きてしまったが いまやTwitterにみんな参入している時代だが、正直、このブログのコメント欄でも稲葉振一郎が唸っているように「ムダムダムダ」とジョジョも真っ青な評価が半分は正しいのかもしれない。特にあるときなど数十回2時間ぐらいの間に、同じ人の質問に答えたことがある。質問への答えで終わるのではなく、ネットではしばしば見かけるパターンだが、その答えを無視してどんどん問いを重ねるタイプのやりとりだったので正直疲れたw。その後、その人のtwitterをみたら「専門家だから逃げ方を知っている」と一言ww どんだけ人に質問を答
【酒井泰斗さんへのお返事であり、「4」のつづきです。】 私がエスノメソドロジー(EM)に求めたのは、 投げ入れられた状況に一方的に流されたり利用されたりしている人に、 状況を問題化するための手続きを与える ことであり、例えば以下のような必要がありました*1。 記述したディテールが、責任追及のための証拠価値を持つ 一方的な被害者意識ではなく、関係や事案のオリジナルな言語化を手助けする 誰に対しても、逸脱や制度順応そのものを口実にさせない 問題処理のパターンそのものをテーマにできる 現状のひきこもり論は、「わかりやすいけど、必要なことを考えてない」ような議論ばかりだし、たとえば「法的に」取り組んでも、必要な問題構造を扱ったことになりません(訴訟が意味を持てば別ですが)。 以下で詳しく論じますが、 弱者に味方しているから許される 学問的に語っているから許される ○○当事者だから許される この3つ
『日本辺境論』の書評がだいぶ前の「赤旗」に出ていた(昨日、アダチさんがファックスしてくれた)。 いろいろな媒体に取り上げられたけれど、「赤旗」とはね・・・ 代々木の(けっこう)えらい党員知識人であるところのワルモノ先生と共著で『若者よ、マルクスを読もう!』(仮題)を執筆中であることは党本部のすでに知るところであろうから、「ウチダ本は代々木的には OK」というご判断がくだったのかも知れない。 私は右も左もなく、頼まれればほいほい寄稿する。 国民協会でも(ボツになっちゃったけど)、『第三文明』でも、『月刊・社民』でも、『赤旗』でも、身体が空いていれば、取材も寄稿も「いいすよ」と引き受ける。 私は政治イデオロギーによって人を差別しない。 人々が固有の政治イデオロギーを奉ずるに至るには、余人には窺い知れぬ個人的ご事情というものがあって、それはやはりできる限り配慮せねばならないと思うからである。 そ
日本における「真面目」という言葉の使われ方は「多数派や権力者の意見に素直に従う」「長い物に巻かれる≒空気を読む力がある」辺り。子供の頃における権力者はおおむね親や教師辺りなので、イエスマンになれば自動的に「真面目」という属性が付属することになる。
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