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論理と青空文庫に関するcastleのブックマーク (2)

  • 夏目漱石 イズムの功過

    大抵のイズムとか主義とかいうものは無数の事実を几帳面(きちょうめん)な男が束(たば)にして頭の抽出(ひきだし)へ入れやすいように拵(こしら)えてくれたものである。一纏(ひとまと)めにきちりと片付いている代りには、出すのが臆劫(おっくう)になったり、解(ほど)くのに手数がかかったりするので、いざという場合には間に合わない事が多い。大抵のイズムはこの点において、実生活上の行為を直接に支配するために作られたる指南車(しなんしゃ)というよりは、吾人(ごじん)の知識欲を充たすための統一函である。文章ではなくって字引である。 同時に多くのイズムは、零砕(れいさい)の類例が、比較的緻密(ちみつ)な頭脳に濾過(ろか)されて凝結(ぎょうけつ)した時に取る一種の形である。形といわんよりはむしろ輪廓(りんかく)である。中味(なかみ)のないものである。中味を棄てて輪廓だけを畳(たた)み込むのは、天保銭(てんぽうせ

    castle
    castle 2009/01/14
    「(多くのイズムは)形よりはむしろ輪廓である。中味のないものである」「吾人がもし一イズムに支配されんとするとき、吾人は直に与えられたる輪廓のために生存するの苦痛を感ずる」「自然主義もまた一つのイズム」
  • 絶対矛盾的自己同一

    西田幾多郎 一 現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物

    castle
    castle 2006/03/30
    「我々の生物的身体というものが歴史的生命として既に技術的である。身体的発展は自然のポイエシスである。しかし我々の社会的生命において、それが真に技術的となる。我々の身体は歴史的身体的と考えられる」
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