恐妻で夫の秀忠も頭が上がらず、そのため側室も置くことができなかったと語られる「お江」。そんな「お江」のイメージは、どの様な資料に拠っているのでしょうか。 まずは、『台徳院殿御実紀』から。慶長16年(1611)5月7日条には、のちに会津松平家初代となる保科正之(ほしなまさゆき)の誕生のくだりが記されています。それによると、正之の生母は「しづの局」とよばれる女性で、正之出生時に秀忠は「御所は御子ともしたまはず」と、自らの子とは認めなかったこと、武田信玄の娘である見性院が養育し、のちに信濃高遠城主で旧武田家家臣の保科正光の養子となったことが記されています。続けて割注では、世間の噂話として、お江に憚って見性院のもとで養うことになったことが記されています。割注とはいえ、将軍の事績部分に記されている点で、編者がどのように「お江」を捉えていたのかが窺えるようです。 展示資料は、江戸幕府の正史である『御実