公正さをかなぐり捨てて言うなら、「ジェンダー」って言葉を使う人というのは大概において被害者意識に満ちあふれているよな。「ジェンダーの下、自分が加害者である」という意識を併せ持っている人というのはあまり多くない。 5:15 AM Mar 6th Twitから
公正さをかなぐり捨てて言うなら、「ジェンダー」って言葉を使う人というのは大概において被害者意識に満ちあふれているよな。「ジェンダーの下、自分が加害者である」という意識を併せ持っている人というのはあまり多くない。 5:15 AM Mar 6th Twitから
レイプ被害についての様々なやりとりが最近、あちこちを賑わせているのです。 この手のやりとりの恐ろしいところは、盛り上がれば盛り上がるほど、男と女というのが無闇に対立するような構造になりやすいところだと思っています。おまけにその構造は男は加害者、女は被害者みたいな二元論ぶりでおまけにその場合の男と女って、ヘテロ前提ですが何か?風に語られている気がして、それもまたよくないよねえ、と感じます。 そしてさらに、しばし待たれよ、ほんとにこの手の性犯罪と自衛を結びつけた議論において、男女は必ず対立するものなのですかどうなのですかそのへん。 『24人のビリー・ミリガン』において、レイプを行った加害者たる人格はアダラナという名の19歳女性の人格だったりすることを思い出したりして。 さて、レイプの話になると、自衛すべきだという意見は、大体こんな風になるのではないかと思います。 「もちろん加害者が悪いのは確か
結論から言えば、個別戦術を一般化させた戦略運用においては誤爆が多発する。 結局の所、個々別々の対象を乱暴に一般化して単一の戦術を全体に適用できるような対象と見なすことがそもそもの間違いの発端ではないのだろうか。 男が女を一般化すればセクハラという誤爆=性暴力被害が発生し、女が男を一般化すれば草食系=軟弱者という誤爆=中傷被害が発生する。 つまるところ、最大公約数的な解法としては「そういう人もいる」くらいのことしか言えないのではないのか。 しかし、こういったリベラルな態度が気に入らないという「肉食系女子」からの不満がたびたび漏れ聞こえてくるので、こんなコメントをしてみたわけだ。 ――元記事は故森繁久彌のセクハラ常習を「ほほえましいエピソード」化した朝日新聞「天声人語」*1への批評。 はてなブックマーク - これはひどい - Apes! Not Monkeys! 本館 http://b.ha
⇒世間では言えないが ⇒はてなブックマーク - 世間では言えないが 見方によっては、ぜんぜんむずかしくないわけで、言葉の暴力は、感じ方の問題だし、男の感じ方が問題なのだから、男の問題でしょ、FA そうじゃないっていうのは、男の問題であることをそらすためでしょ、そういう考え方は(中略)FA まあ、そんな感じかな。 現実的には、女性が言葉の暴力じゃなくて、実暴力を振るいだしているので、時間がたてば自然に解決する……つまり、ふつうのDV問題になるのだけど、その過程で被害になるのは男じゃなくて子供。そのあたりが問題というか、もっというと これとかも若干⇒極東ブログ: [書評]母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き(信田さよ子) まあ、ちょっと話が飛躍しすぎだけど。 個人的に、というか、俺も男だけど、女に暴力を振るったことはない(本人談)、というか想像もつかない。男性のDVは論外だと思うけど、他人事感は
2009年06月19日17:00 カテゴリPsychoengineering 正論即暴挙 そう考えるあなたは、悪くない。ただ一点を除いて。 minori kitahara column: 京都教育大学の集団強姦事件 女は自由にセックスをし、自分がいいと思う相手に気軽に股を開いていいんです。男がうじゃうじゃいる空間に行くということは、「そういう期待」をする、ということだって、あるんです。それがなにか? いけないことですか? なんですか? 自己防衛? なぜ私たちが? 自分のチンコ一つコントロールできずに男性ホルモンに支配されている男こそ、まず自身のホルモンからの自己防衛を心がけるべきでしょ? ミニスカート大賛成。胸見せる格好大好き。肉食系女子万歳。男を挑発上等。だけど、したくないことは、したくない。そんな簡単な理屈がなぜこうも通らないんでしょう。 頭が、悪い。 この「頭が、悪い」は「頭がいい」
スカート丈 中学生の娘を持つ母親が、 「最近の子のスカート丈は短くてけしからん」 と話していた。 「(…ミニスカの下に短パンを穿くのが流行ればいいのに。そうすればミラーマンも減るかも)」 と変態的なことを考えたが、流石に口にだせず、 「そうですね」 と言っておいた。 ややこしい話 事実上、多くの場合、求められるのは、合意の上で、よく社会化された「衝動の発露」と「その受容」であり、「何もおこらないこと」ではない件。 もちろん、いかなる場合であろうと、衝動の発露の対象となることを拒否する人もいて、それは尊重すべきと思う。当然、ポリシーを変更する自由はある。 ときたま、非合意の上で発露された衝動も賞賛してしまう人がいて、彼が非難されるのも仕方が無いかな。 で、合意が得られず、社会化できない「衝動」の行く末が、ちょっと気になる。
Gの本で、なぜか英語で覚えているのだが、No salt, no sugar という、彼お得意のナスレデッィン風の格言があったか。意味はよくわからないのだが、塩味がないと砂糖の甘さも効かないということかもしれない。Gは直接は悪を語っていない。Gはなにかもっとぞっとするような暗黒のようなものを語っている。彼にとって悪がなんであるかはわからないが、弟子との関わりでは、人が普通に悪と思うものについては寛容であったし、彼は意図的に悪を振る舞った。子どもだったピーターズはGにある女性になぜ不公平に振る舞うのかと問うたとき、Gはそれによって人が哀れみの心を持つと答えていた。たぶん、ある種の社会的な悪というのはGにとってはまったく意味の異なったものであり、存在の高度化はそうした機能的な悪との関わりを持つものでもあったのだろう。 ネットなどでも昔はそうでもなかったように思うのだが、ぞっとするような悪が露出す
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