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鵠沼に関するrteeeeeeのブックマーク (2)

  • 芥川の直筆、鵠沼での晩年 郷土展示資料室で公開 | 藤沢 | タウンニュース

    鵠沼郷土資料展示室(鵠沼市民センター内)では、企画展「芥川龍之介直筆資料」「鵠沼に暮らした文人とその作品」を2016年1月15日(金)まで開催している。午前10時から午後4時(月曜・年末年始休館)。 神経衰弱や不眠症を患った芥川龍之介は、自死する半年前まで5カ月間、鵠沼の旅館「東屋」の貸別荘で過ごしており、富士(ふじ)山(たかし)医師の病院に通院していた。 企画展では、当時の病状や診察について語った富士氏による寄稿文や、芥川が自死した後のエピソードが記された東京の主治医・下島勲氏の日記資料、鵠沼で発見された文芸資料『葛巻文庫』の写しも公開。甥の葛巻義敏氏と姪左登子氏が所蔵していた約3000点の遺稿で、芥川直筆の回覧雑誌や表紙イラストなどを通じて芥川の新たな一面を知ることができる。そのほか、鵠沼に関わりのある文人の作品やエピソードなどを紹介する。 同展示室の内藤喜嗣さんは、「『葛巻文庫』は藤

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  • 民草の闘い

    鵠沼きっての古刹、鵠沼山(こうしょうざん)万福寺の裏門を出てすぐ西側の石垣の上に、下のような記念碑がひっそりと建っている。碑文は万福寺の荒木良正住職(鵠沼を語る会会員)の手によるものだが、極めて簡明で読みやすい。 その冒頭に、田中正造の歌が掲げられている。いうまでもなく、足尾銅山による渡良瀬川の鉱毒事件で被害者住民とともに闘った国会議員で、数々のエピソードが今日まで伝えられている。この事件は今から百年余り前に起き、別子銅山鉱毒事件とともに、日における公害問題の原点とされる。「公害」の語が一般的に定着するのは、水俣事件が明るみに出た1960年頃のことだが、この語自体は明治時代から使われていたらしい。公的に用いられた例としては、東京都が1949(昭和24)年に「公害防止条例」を作ったのが最初とされる。 この碑が建てられて間もなく、《藤沢市鵠沼神明公害対策委員会》は、公害闘争の経緯を『ここに歴

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