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宗教と哲学に関するcastleのブックマーク (122)

  • エッセ - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "エッセ" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年1月) エッセ(ラテン語:Esse)は、キリスト教のスコラ哲学における神学用語で、神から事物に付与される「存在性」を意味する。ラテン語の動詞 sum(存在する・ある・コプラ動詞)の不定形である。 トマス・アクィナスの思想の中核概念とされる。 ヘーゲルやハイデッガーの哲学用語としての「ザイン Sein(「存在する」という動詞の不定形)」は、エッセの概念を参照している。

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    castle 2024/03/22
    「スコラ哲学における神学用語で、神から事物に付与される「存在性」~ラテン語の動詞 sumの不定形~トマス・アクィナスの思想の中核概念」「「ザイン Sein(「存在する」という動詞の不定形)」はエッセの概念を参照」
  • 西田幾多郎 愚禿親鸞

    余は真宗の家に生れ、余の母は真宗の信者であるに拘(かかわ)らず、余自身は真宗の信者でもなければ、また真宗について多く知るものでもない。ただ上人(しょうにん)が在世の時自ら愚禿(ぐとく)と称しこの二字に重きを置かれたという話から、余の知る所を以て推すと、愚禿の二字は能(よ)く上人の為人(ひととなり)を表すと共に、真宗の教義を標榜し、兼て宗教その者の質を示すものではなかろうか。人間には智者もあり、愚者もあり、徳者もあり、不徳者もある。しかしいかに大なるとも人間の智は人間の智であり、人間の徳は人間の徳である。三角形の辺はいかに長くとも総べての角の和が二直角に等しというには何の変りもなかろう。ただ翻身(ほんしん)一回、此(この)智、此(この)徳を捨てた所に、新な智を得、新な徳を具(そな)え、新な生命に入ることができるのである。これが宗教の真髄である。宗教の事は世のいわゆる学問知識と何ら交渉もない

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    castle 2023/12/31
    「上人が在世の時自ら愚禿と称しこの二字に重きを置かれたという話から、余の知る所を以て推すと、愚禿の二字は能く上人の為人を表すと共に、真宗の教義を標榜し、兼て宗教その者の本質を示すものではなかろうか」
  • アルケー - Wikipedia

    この項目では、宇宙の神的・神話的な起原について説明しています。その他のアルケーについては「アルケー (曖昧さ回避)」をご覧ください。 アルケー(古希: ἀρχή)とは、はじめ・始源・原初・根源・原理・根拠 等のことであり、哲学用語としては「万物の始源[1]」また「(宇宙の)根源的原理」を指す。 概説[編集] 主にミレトス学派の自然哲学で議論された。古代ギリシアのアナクシマンドロスがはじめてアルケーの語を用いたとされる。 アリストテレスはその著書『形而上学』 (τὰ μετὰ τὰ φυσικά、あるいはΜεταφυσικά[2]) において、哲学の祖はミレトスのタレースであり、彼は万物の根源(アルケー)を水であるとした、と記している[3]。 また、ヘラクレイトスは火を、ピタゴラスは数をアルケーとし、エンペドクレースは土・水・火・空気の四大からなるリゾーマタ、デモクリトスはアトモス(不可分体

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    castle 2023/02/15
    「はじめ・始源・原初・根源・原理・根拠~哲学用語としては「万物の始源」~「(宇宙の)根源的原理」」「『形而上学』Aにおいて、哲学の祖はミレトスのタレースであり、彼は万物の根源(アルケー)を水であると」
  • 不動智神妙録 - Wikipedia

    不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)は、江戸時代初期の禅僧・沢庵宗彭が執筆した「剣法(兵法)と禅法の一致(剣禅一致)」についての書物である。執筆時期は諸説あるが、内容から見て寛永年間(1624年から1645年)であろうと推測される[1]。別称を『不動智』、『剣術法語』、『神妙録』とも呼ばれ、原は存在せず、宗矩に与えられた書も、手紙かか詳しい形式は判明していない[2]。 概要[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "不動智神妙録" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年7月) 徳川将軍家兵法指南役・柳生宗矩に与えられ、『五輪書』、『兵法家伝書』等と並

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    castle 2023/02/08
    「江戸時代初期の禅僧・沢庵宗彭が執筆した「剣法(兵法)と禅法の一致(剣禅一致)」についての書物」「徳川将軍家兵法指南役・柳生宗矩に与えられ『五輪書』『兵法家伝書』等と並び、後の武道に多大な影響を与え」
  • 「なぜ私たちは自殺をしてはならないのか?」、哲学・思想の歴史から導かれる「意外な答え」(ベンジャミン・クリッツァー) @gendai_biz

    「なぜ自殺をしてはならないのか」。この問いに導かれて、アメリカ歴史学者ジェニファー・マイケル・ヘクトが哲学の歴史の森に分け入り、思索し、著した『自殺の思想史――抗って生きるために』の邦訳が、このたび、みすず書房より刊行された。批評家のベンジャミン・クリッツァー氏が、同書の議論を紹介する。 「自殺」の論じられにくさ 「自殺」は重大な問題だ。大半の人は、家族や友人が自殺をしようと考えていることを知ったらそれを阻止しようと努力するだろうし、親密な相手が自殺を検討したことがあるという事実を知るだけでもショックを受けるだろう。自分自身が自殺を考えていた時期がある人は、その時分の記憶を苦々しさや不安と共に思い返すはずである。そして、実際に家族や友人に自殺してしまい、心に傷を抱えながら生きている人は多々いる。 また、自殺は個人的にだけでなく社会的にも重大な問題と見なされている。自殺者が多い社会はそうで

    「なぜ私たちは自殺をしてはならないのか?」、哲学・思想の歴史から導かれる「意外な答え」(ベンジャミン・クリッツァー) @gendai_biz
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    castle 2022/10/13
    「自殺は「伝染」する」「自由を放棄する自由は認められない(ミル)」「「自分が孤独であるという感覚」は人を自殺に導く主な要因だ(心理学者ジョイナー)」「破局視(未来は悪くなるに決まっていると思い込む)」
  • 魂の三分説 - Wikipedia

    魂の三分説(たましいのさんぶんせつ)とは、プラトンが『国家』『パイドロス』『ティマイオス』等で提示[1][2][3]した、人間の魂(プシュケー)を3つの性質に分ける考え方のこと。魂の三区分説、魂の三部分説などとも。 構成[編集] 以下の3つから成る。 理知(希: λόγος, ロゴス) 気概(希: θυμός, テューモス) 欲望(希: ἐπιθυμία, エピテューミア) 典拠[編集] プラトンは、『国家』『パイドロス』『ティマイオス』内で、この魂の三分説に言及している。 まず『国家』の第4巻(434D-441C)では、ソクラテス等が「国家」にとっての「知恵/勇気/節制/正義」(枢要徳) を、「政務(立法)/軍事/商業」の関係性/役割分担によって定義した後、その定義を「個人」へと類比的 (アナロジカル) に適用していくに当たり、「国家」の「政務(立法)/軍事/商業」という3部分に相当する

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    castle 2022/08/12
    「プラトンが『国家』『パイドロス』『ティマイオス』等で提示した人間の魂(プシュケー)を3つの性質に分ける考え方~理知 ロゴス/気概 テューモス/欲望 エピテューミア」「国家の政務(立法)/軍事/商業~に相当」
  • 主意主義 - Wikipedia

    この項目では、主知主義に対しての主意主義(voluntarism)について説明しています。右派リバタリアン思想の一つ(voluntaryism)については「主意主義 (思想)」をご覧ください。 主意主義(しゅいしゅぎ、英: voluntarism)とは、人間の精神(魂)中で、意志の働きを(知性・理性や感情よりも)重視する哲学・神学・心理学・文学上の立場のこと。知性・理性の働きを重視する主知主義(英: intellectualism)や、感情の働きを重視する主情主義(英: emotionalism)と対置される。 ただし、これはあくまでも相対的な立ち位置を表現するものであって、そこに絶対的な基準は無く、「何(どのような思想的立ち位置の人・集団)と対比されるか」に、その位置付けが依存していることに注意が必要。 歴史[編集] 中世[編集] 中世のキリスト教神学においては、アウグスティヌスやドゥン

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    castle 2022/08/12
    「人間の精神(魂)中で、意志の働きを(知性・理性や感情よりも)重視する」「アウグスティヌスやドゥンス・スコトゥス等が(主知主義として言及されるトマス・アクィナス等との対比において)主意主義として言及」
  • 0251夜『歴史哲学』ヴォルテール ー松岡正剛の千夜千冊~歴象篇~

    先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。 ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。 それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、

    0251夜『歴史哲学』ヴォルテール ー松岡正剛の千夜千冊~歴象篇~
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    castle 2022/07/11
    「①聖俗を分離させる②為政者は個人の信仰問題に干渉しない③宗教的認識についての正否を問える知識には確実なものがない、等を(ロックは)強調」「(『哲学書簡』を読むと)中身は英国通信ともいうべきものだ」
  • ヌース - Wikipedia

    英語版記事を日語へ機械翻訳したバージョン(Google翻訳)。 万が一翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いた場合、翻訳者は必ず翻訳元原文を参照して機械翻訳の誤りを訂正し、正確な翻訳にしなければなりません。これが成されていない場合、記事は削除の方針G-3に基づき、削除される可能性があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|en|Nous|…}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明があります。 ヌース(

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    castle 2022/06/26
    「知性、理性、精神、魂」「アナクサゴラスは世界はヌースが支配しており、人間はヌースを把握する事ができると~プロティノスは万物は一者から流出したヌースの働きによると~ストア派においてはロゴスとほぼ同義」
  • 敬虔 - Wikipedia

    敬虔(けいけん、希: ὁσιότης , εὐσέβεια、羅: pietas、英: piety)とは、古代ギリシア以来の西洋の徳目の1つであり、親や神々に対する忠誠心、崇敬心、孝心を意味する。 キリスト教で敬虔というと、信心[1]を意味するプロテスタントの用語である[2]。 歴史[編集] 古代ギリシャ[編集] プラトンの対話篇では、『エウテュプロン』でこの概念が主題的に扱われる他、『プロタゴラス』や『ゴルギアス』でも、四元徳(知慮・正義・節制・勇気)と並んで言及される[3][4]。 古代ローマ[編集]

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    castle 2022/06/25
    「古代ギリシア以来の西洋の徳目~親や神々に対する忠誠心、崇敬心、孝心」「(キリスト教では)信心を意味するプロテスタントの用語」「プラトンの対話篇では~四元徳(知慮・正義・節制・勇気)と並んで言及され」
  • すべての犯人は時間(限定すること)だった - 伊勢ー白山 道

    「大きな視点に成るほど大丈夫と成ります」(2011-10-05) 人間の「信」仰の「信じる」とは、死後も自分の心が継続するのか?どうかを「信じる」のか否かと言うことだとも言えます。 とにかく死後の心の存続を信じるか否かが、すべての分岐点なのです。 単純に考えましても、この世だけで当に終わるのであれば、悪い事でもやった者勝ち、他人を苦しめてでも楽しんだ者の得、などの思考にも成りがちです。 この単純な大問題は、実は今の人類の古代宗教においても、大きな原点のテーマなのです。 多くの古代宗教に影響を与えたゾロアスター教の神話では、「永遠」と呼ばれた創造神(この場合の名称はズルワーン)が、今という瞬間ではなしに、「時間を掛けて」善なる世界を創造するという「時間の概念」を抱いた瞬間に、善神アフラ・マズダーと、悪神アンラ・マンユが即座に宇宙に誕生して闘争を始めた伝承があります。 つまり、時間の認識が、

    すべての犯人は時間(限定すること)だった - 伊勢ー白山 道
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    castle 2013/05/20
    「(ナム“アミ”ダブツの)“阿弥”陀如来の起源は、“アミ”ターバ。別名“アミ”ターユス~「無限の寿命」という意味~有限な時間を信じるのでは無しに、「私は永遠性を信じます」が阿弥陀如来への信仰の本質」
  • プシュケー - Wikipedia

    この項目では、一般的概念としてのプシュケーについて説明しています。ギリシャ神話に登場する存在については「プシューケー」をご覧ください。 プシュケー(希: Ψυχή、ラテン文字表記:Psyche)とは、古代ギリシアの言葉で、もともとは息(いき、呼吸)を意味しており、転じて生きること(いのち、生命)、また心や魂を意味するようになった言葉である。 希: Ψυχήはもともと息(呼吸)を意味していた。呼吸は生命のしるしとして最も顕著なものであったので、やがてこのプシュケーという言葉は、生命を意味するようになり、それが転じて、やがて心や魂も意味するようになった[1]。そのような語義になったのも当然[1]と指摘されている。[注 1] 「プシュケー」という言葉を現代日語に訳す場合、ひとつの訳語で押し通すことは困難なことが多々ある。同一の文献でも、ある文脈では「いのち」と、ある文脈では「心」あるいは「魂」

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    castle 2013/02/12
    「息を意味しており、転じて生きること(命、生命)、心や魂を意味するように」「ソクラテスはプシュケーを知と徳の座だとした。<よく生きる>ことを《プシュケーの気遣い》として、プシュケーの世話をせよ、と」
  • 無我 - Wikipedia

    無我(むが、巴: anattā, アナッター[注 1]、梵: अनात्मन, anātman, アナートマン, nairātmya[3], ナイラートミャ)は、あらゆる事物は現象として生成しているだけであり、それ自体を根拠づける不変的な質は存在しないという意味の仏教用語[3][4]。非我とも訳される[4]。我(アートマン)とは、永遠に変化せず(常)・独立的に自存し(一)・中心的な所有主として(主)・支配能力がある(宰)と考えられる実在を意味する[4]。全てのものにはこのような我がなく、全てのものはこのような我ではないと説くのを諸法無我という[4]。 アナッター(無我)は生物の性質であり、加えてアニッチャ(無常、非恒常、永遠でないこと)、ドゥッカ(苦、不満足なこと)を加えて仏教の三相をなし、また三法印と四法印の1つ[3][4][5][6]。これはダンマパダなど多くの経典で確認される[7]

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    castle 2013/02/03
    「我(自己, 魂)を「私のもの/私/私の我(自己、魂)」の3種に分かち、一切の具体的なもの、具体的な事の一つ一つに「これは私のものではない/これは私ではない/これは私の我ではない」と3つの立場から観察」
  • 悪の問題

    「どうしてこんな目に遭わなくてはならないのか」 「なぜこういうことが起こってしまったのだろうか」 このように思うことは誰でもあります。自分自身について、あるいは世界の出来事について、しばしばそんなふうに感じます。言うならば「神も仏もあるものか」という気持ちです。 それは、人間は苦しみに出会った時に、苦しみにどういう意味があるのか、その意味を見出したいという気持ちになりますし、「なぜ」という問いに答えてほしいと、何かに対して思うからです。 そして、人生を肯定したい、いろんな苦しみはあるけれども、全体として肯定したい、そういう願いを人間は持っています。その願いに応えるのが宗教だと思います。 「なぜ」という問いに対して答えようとするキリスト教の試みが神義論ということだと思います。神義論とは、「この世に悪が存在するにもかかわらず、神は正しく正義である」ことを示そうとする議論です。つまり、悪があるに

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    castle 2012/02/22
    「人間は苦しみに出会った時に、苦しみにどういう意味があるのか~「なぜ」という問いに答えてほしいと、何かに対して思う~人生を肯定したい、色んな苦しみはあるけれども全体として肯定したい、そういう願いを」
  • 詩とコギト: 悪は欠如である/ライプニッツ形而上学序説から

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    castle 2012/02/22
    「「善」は欠如としての「悪」をそのうちに含む」「善なる意志ないし意欲の表象・表出の欠如」「「可能態(実現しつつある可能性)」ではない「善」は「善」とは言えないから、その欠如において「悪」と呼ばれる」
  • 真の知識にあうことは:無疑と不疑

    稲城選恵和上のを読ませていただきました。 ……真実の信心は無疑と先哲もいわれている。しかるに無疑と不疑とは同一の如く思われるが異なるようである。不疑の場合は現在今こゝでの場でない場合に用いる。 たとえば明日の天気はテレビでも放送していたから晴天であると疑っていないという。しかし、今日の今の天気を晴天であると「疑っていません」という人はだれもいわない。願には遇うという言葉を用いられている。『一念多念証文』にも『浄土論』の「観仏願力、遇无空過者」を釈して 「遇はまうあふといふ。まうあふとまふすは願力を信ずるなり。……」 とあり、遇うは我と汝の二者を場とし、現実の今こゝを場とする。それ故、『教行信証』総序の結尾にも 「遇い難くして今遇うことを得たり。……」 とあり、今こゝは概念思弁の世界を突破して我と汝という二者を場とする。 只今の天気が晴天であるということは天気そのものが晴天であり、ご

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    castle 2011/12/28
    「無疑は我と汝という二者を場とし、今こゝという最も具体的な立場に於ていわれる。不疑は明日の天気に向う場合であるから、思う事もいうことも必要とする。この場合は間違いないのは思う側ではなく、天気そのもの」
  • 意識 (仏教) - Wikipedia

    仏教用語での意識(いしき、サンスクリット語: मनोविज्ञान、mano-vijñāna)とは、意(mano)+ 識(vijnana)の熟語であり、六識の一つ[1]。意根(mano)によって起こり、法境を了別する心王(しんのう、心の主たるもの)をいう。これに4種ある。 独頭意識 他の五識とともに起こることなく、独り生起して広く十八界を縁じる。 五同縁意識 他の五識と同時に起こって、ともにその境を縁じ、明了依となる。心の現量。 五倶意識 五識と同時に起こって五境を縁じ、傍らに十八界を縁じる。 五後意識 五倶意識の後念に生じて、前念の五境の境を縁じて、他一切法を縁じる。 「識」は心王を表し、意識は、五感の眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)の前五識と区別される第6番目の心(第六識)である(処も参照)。 よく自覚的という意味で「意識する」ということがいわれるが、それは仏教で

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    castle 2011/04/25
    「よく自覚的という意味で「意識する」ということがいわれるが、それは仏教では心所(個別の心作用)の作意(注意する働き)、あるいは唯識でいう自証分の働き」「意識は過去・未来・現在の三世を対象とする」
  • 識 - Wikipedia

    識(しき、巴: viññāṇa ヴィニャーナ, 梵: vijñāna ヴィジュニャーナ)とは、意識、生命力、心[1]、洞察力[2]との意味の仏教用語である。認識対象を区別して知覚する精神作用を言う。 この語は、vi(分析・分割)+√jñā(知)の合成語であって、対象を分析し分類して認識する作用のことである。釈迦在世当時から、この認識作用に関する研究が行われ、さまざまな論証や考え方が広まっており、それぞれの考え方は互いに批判し合いながら、より煩瑣な体系を作り上げた。 しかし、大乗仏教全般で言うならば、分析的に認識する「識」ではなく、観法によるより直接的な認識である般若(はんにゃ、プラジュニャー(prajñā)、パンニャー(paññā))が得られることで成仏するのだと考えられるようになって重要視された[3]。 パーリ仏典において[編集] パーリ経蔵においては、識は少なくとも3種の意味合いで登場

    識 - Wikipedia
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    castle 2011/04/25
    「「了別」の意味の仏教用語。認識対象を区別して知覚する精神作用」「vi(分析・分割)+√jJaa(知)の合成語であって、対象を分析し分類して認識する作用のこと」「色受想行の四識住が識の働くよりどころであるとする」
  • 友愛 - Wikipedia

    ギリシア語の愛「φιλία (philia)」については「フィリア」を、組織名称の「Fraternity」については「フラタニティとソロリティ」を、鳩山由紀夫の財団法人については「友愛 (公益財団法人)」をご覧ください。 友愛(ゆうあい、希: φιλία、羅: fraternitas、仏: fraternité、英: fraternity)とは、兄弟(兄弟姉妹)間の愛、友人間の愛、友情などを意味する。倫理道徳の一つであり、哲学思想の主題となることがある。 日語の友愛[編集] 日語の「友愛」については日の各辞典が主として「兄弟」「友人」「友情」「友誼」などに言及する。例えば、広辞苑第5版は、兄弟、友人、友情、友誼に言及する。大辞泉第1版は、兄弟、友人、友情、友誼。大辞林第3版は、兄弟、友人、友情。広辞林第6版は、兄弟、友人。言泉第1版は、兄弟、友人。講談社日語大辞典第1版は、兄弟、友

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    castle 2011/02/17
    「fraternity 兄弟姉妹愛」「おまえが自分自身を愛するのと同じようにおまえの隣人を愛せよ」「汝らはラビと呼ばれてはならぬ。汝らの師は唯一、汝らは皆兄弟姉妹だ」「信仰する者達が2つに分かれて争うならば仲裁せよ」
  • 松岡正剛の千夜千冊『世の初めから隠されていること』ルネ・ジラール

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    castle 2010/12/03
    「暴力が民族学あるいは民族心理学の課題に所属すべき問題である事、共同体の維持と成長に不可避なものである事、暴力は暴力を防止するために発生しつづけるものである事」「「供犠」と「復讐」の必然的な関係」