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思想と議論に関するlotus3000のブックマーク (8)

  • 「リベラル」って誰のこと? - 擬似環境の向こう側

    ネットではよく「戦後リベラルは…」といった物言いを目にする。そこで言及される「戦後リベラル」というのは大抵頭の悪そうな主張をしていて、柔軟性に欠ける一方、平気でダブルスタンダードを行使する卑劣な輩であったりする。 こういう物言いが気になるのは、ぼくが自分のことを(一応は)リベラルだと考えているからなのだろう。自分では全く支持しないような意見であっても「リベラル」だというだけで、それを支持していることにされてしまう。これはあまり愉快な経験ではない。 おそらくそれは「リベラル」に限った話ではないはずだ。「フェミニズム」、「サヨク」、「ウヨク」、「ネトウヨ」等々のカテゴリーにしても同様のはずだ。自分では口にしたこともないような意見についてまでそれを支持していることにされてしまう。実際、この手の粗雑なカテゴライズは緻密な議論を展開するうえではそれほど役に立たない。むしろ邪魔になることのほうが多いだ

    「リベラル」って誰のこと? - 擬似環境の向こう側
  • サービス終了のお知らせ - NAVER まとめ

    サービス終了のお知らせ NAVERまとめは2020年9月30日をもちましてサービス終了いたしました。 約11年間、NAVERまとめをご利用・ご愛顧いただき誠にありがとうございました。

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  • 小池隆太氏は『「知」の欺瞞』を読んだのか?

    小池隆太氏は『「知」の欺瞞』を読んだのか? 小池隆太氏の「ニセ・クリティーク: 5. 『知の欺瞞』の欺瞞」へのコメント 2001年5月3日微更新 (2001年4月30日公開) ★『「知」の欺瞞』は大学新入生におすすめ!★ 小池隆太氏は『「知」の欺瞞』を当に読んだんでしょうかね? 自分自身が『「知」の欺瞞』のターゲットになっていると自覚してしまった方がどのようになってしまうかの典型例に興味のある方は「ニセ・クリティーク: 5. 『知の欺瞞』の欺瞞」を読むと良い。 1971年京都市生まれの小池隆太氏による「『知の欺瞞』の欺瞞」は2000年9月5日に公開されました。菊池誠さんの書評にある『「知」の欺瞞』は『トンデモの世界』説への反応から始まってますが、公開された当初は菊池書評への言及がありませんでした。しばらくして、同じ大学内にいる菊池さん人からメールが届いたので、あわてて言い訳とリンクを

  • 中江兆民『三酔人経綸問答』評 - shinichiroinaba's blog

    ゼミでしゃべったことをもとに。 ================== 中江兆民『三酔人経綸問答』というの切迫感とアクチュアリティを支えているのはその独特の問答体、三人のキャラクターが、それぞれある程度一貫した政治思想的なスタンスのみならず、人格的な個性、肉体的な息遣いまでをも割り振られ、論争を繰り広げるという体裁である。これはたとえば丸山真男が指摘している通り、世界的にのみならず、日の思想史上もいくつかの先例を見つけることができるスタイルであるが、その中でもある種の突出性を帯びている。 複数の登場人物のうちの特定の一人、主人公格のキャラクターが、著者自身の思想を仮託され、他のキャラクターたちはこの主人公、すなわちは思想家としての著者自身に対する(仮想)論敵としてありうべき疑問、反論を突き付け、それに対して主人公が応じる、というスタイルは、ひとつのありふれたパターンである。はなはだしい場

    中江兆民『三酔人経綸問答』評 - shinichiroinaba's blog
  • 内田樹氏のどこがだめなのか: 黒木の世迷い言

    政治の美学化」と「美学の政治性」という2つの概念がある。 「政治の美学化」とは、政治的な議論を正しいか正しくないかではなく、美しいか美しくないかに置き換えてしまうこと。 「美学の政治性」とは美しいか美しくないかがいかに政治に作用してしまうか、という問題系のこと。 僕らよりの上の世代の仏文研究者には「政治の美学化」を好むものが多い。積極的に政治を語り、文学理論や所謂現代思想を応用することによって現状を分析し、自らの政治的前衛を誇るのである。その分析は面白いのだが、では具体的にどうすれば良いか、と問うと「現実を見ろ、という場合、この現実とはイデオロギーにしかすぎない」とか「直接行動を説く欺瞞性を弾劾しなければならない」とか「何もしないことが一番過激な政治運動なんだ」とか「具体的な政策を考えるのは政治家や官僚の仕事だ」などと言って、はぐらかす。 結局は、政治的発言を行なうことで格好つけているだ

    内田樹氏のどこがだめなのか: 黒木の世迷い言
  • 『動ポモ』再読(3)―スノビズム=シニシズムという短絡 - 白鳥のめがね

    東浩紀の『動物化するポストモダン』(『動ポモ』と略しています)を読み返すシリーズの続きです。 いままでのまとめと今回の論旨 第一回で私は、コジェーヴの日的スノビズム論には「特攻も歴史的意味を持たない形式的な自殺の一例である」という主張があり、日的スノビズムの頂点を武家的な教養である能や茶道のうちに見ているのに対し、東浩紀は特攻への言及を無視した上でその議論を「切腹」と「江戸の町民文化」に「代表」させることで、スノビズム論を日社会の歴史の一部にしかあてはまらないよう「局所化」し「無害化」し、オタク文化論に短絡させている、と論じておいた。 東浩紀は、コジェーヴの議論の都合の良いところだけを摘み取って、ad hocな議論をしている。コジェーヴには一貫した歴史哲学があるが、東浩紀には場当たり的な歴史判断しかない。 『動物ポモ』再読(1)―Kojeve/Yiyeasu/Snobisme -

  • SYNODOS JOURNAL : リチャード・ローティを脱構築する(3) 橋本努

    2010/9/230:0 リチャード・ローティを脱構築する(3) 橋努 3.アイロニストの三つの顔 ローティのいうアイロニストの特徴を要約すると、次のようになるだろう。まずアイロニストは、自分が現在使っている語彙を徹底的に疑い、絶えず疑問に思っている。 また彼は、この疑念を解消するための語彙を、現在の語彙の中から見つけ出すことができないと考える。なぜなら、他の語彙に、つまり自分が出会った人々や書物から受け取った終極の語彙に、彼は感銘を受けているからである。 他方でローティのアイロニストは、新しい語彙を旧い語彙と競わせつつ、新しい語彙に勢力を与えることによって、最大の快楽と社会的効果を引き出そうとする。アイロニーの対極にあるのは「常識」であり、「業界屋のパラダイム化された語彙」であり、また「政治的・芸術的に真面目なコミットメントを誘う語彙」である。これらの三つの語彙をはぐらかしながら新しい

  • 議論と多数派形成工作 - くっぱのブログ

    インターネット時代の初期には、「開かれた討議」がサイバースペースで実現して市民社会が良くなる、という「楽観論」も大手を振っていたが、それが鳴りを潜めたのは言うまでもない。「開かれた討議空間」のひとつである2ちゃんねるを見よ。 そこには馬鹿馬鹿しくて相手にしない者、愛想が尽きた者、うんざりして脱落した者、の存在を想定しない「開かれた議論」の自己満足と独善が存在する。「2ちゃんねるは批判に開かれています。だから批判がないのは正しいことです」として異論を集中放火して脱落させ、ブログを炎上させて閉鎖に追い込み、こうして愚にもつかないコンセンサスの全体主義は達成される。この最悪の全体主義を回避するために、「学者の言ってることだから正しいということにしておく」という空虚な権威主義がマシになる。 http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20100125/1264420312 実は「開

    議論と多数派形成工作 - くっぱのブログ
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