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上山和樹に関するlotus3000のブックマーク (16)

  • 「ひきこもる人の自殺」をめぐる解釈 - Freezing Point

    【承前】  以下のような見解があり得ます。 斎藤環氏が「純粋なひきこもり事例には自殺がない」と言っているのは、うつ病や統合失調症の診断を受けていない人たちの話。ところが今回紹介された「KHJ親の会」のエピソードは、精神病圏もごっちゃにしている。だから、斎藤氏が「自殺はない」と言い、KHJ が「自殺は多い」と言うのは、当たり前。 自殺はほとんどが、うつ病や統合失調症の結果として起こっている。 これでは、自殺を選ばせる葛藤には、病気しかあり得ないことになります。*1 医療目線からは、自殺は「病気の結果」でしかない。 悩む人からすれば、社会的・思想的要因を無視できない。 そういう平行線でしかないのかどうか。 言説の権威性が3つある。  【参照】 (1)医療・アカデミズム  (2)社会運動体  (3)マイノリティ性を抱えた人 それぞれが自分の内的論理で語るので、簡単な互換性はありません。 それ

    「ひきこもる人の自殺」をめぐる解釈 - Freezing Point
  • むしろ、「中間集団2.0」が要る - Freezing Point

    一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル 作者: 東浩紀出版社/メーカー: 講談社発売日: 2011/11/22メディア: 新書購入: 14人 クリック: 581回この商品を含むブログ (164件) を見る 既存の政治に絶望し、人間関係に苦しさを抱える私にとって(参照)、 このの提案は、一度は存在してもらわないと困るものです。 ひきこもり周辺のかたは、「どんな議論か」ぐらいは知っておく必要があると思います。 彼〔ルソー〕はいわば、ひきこもりの作る公共性に賭けた思想家だったのである。(同書p.170) あちこちで「わかりやすい」と言われていますし、たしかに専門書に比べると読みやすいですが*1、それなりの忍耐は必要です。ひとことで言うと、《政策審議に『ニコニコ生放送』を導入する》という提案を、冗談ではなく気で論じたです。 参照:「アーキテクチャ、「一般意志2.0」、ドゥルーズ(引用集)

    むしろ、「中間集団2.0」が要る - Freezing Point
  • 惰性が最適解ではないとして - Freezing Point

    「くそまじめをすることで信用を作ろう」・・・・くそまじめしか出来ない奴に柔軟な相談はできない。 「最適解がわからない」という意味で、政治が分からない*1。 駄目な政治家しかいないなら、「誰も選ばない」が解になる、しかしそれでは回らない。 けっきょく惰性でいちばんダメな選択肢を “選んで” いる。 惰性で「それしかできなかった」ことと、意思的選択は見分けがつかない*2。 何が合理的かは、周囲に誰がいるか、自分の主観性がどういう事情にあるかで違う*3。 合理性の解をプレイヤーでそろえてしか計算できないゲーム理論? ひきこもった経験を持つことは、日の環境では信用を失うことに等しい。――主観性がうまくまとめられないことと、「ルールを平気で破る」ことが、他者からは同じに見える。 その人としてはそれが誠実なふるまいだったらしいが、こちらからはバカに見える。 「そういう固執を生きるしかできない」、誰で

    惰性が最適解ではないとして - Freezing Point
  • 形式的禁止――無宗教ゆえの処方箋 - Freezing Point

    内面や環境・関係性の技法として最重要の、 形式的禁止 + 再帰的組み替え について、もとになった議論を引用しておく。 イデオロギーの崇高な対象 作者: スラヴォイジジェク,Slavoj Zizek,鈴木晶出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2001/01メディア: 単行購入: 3人 クリック: 49回この商品を含むブログ (66件) を見るpp.59-70 より。 以下の引用部分で、強調は全て引用者。 われわれのいう「社会的現実」とは、究極的に倫理的構成物である。 それは、ある種の「あたかも・・・・のように」に支えられている(われわれは、あたかも官僚制の全能を信じているかのように、あたかも大統領が人民の具現であるかのように、共産党が労働者階級の客観的利益の表現であるかのように、行動する)。 その信念(ここで再び思い出さねばならない。 信念は絶対に「心理的」レベルで捉えてはならない。

    形式的禁止――無宗教ゆえの処方箋 - Freezing Point
  • メタ言説への、解離的な居直り - Freezing Point

    ★雑誌『ビッグイシュー』 第105号 発売中 斎藤環さんと私の往復書簡 「和樹と環のひきこもり社会論」 は、今号で最終回です。 最後は私で、『順応状態の完成より、手続きの整備を』。 支援する側もされる側も、完成された順応状態を想定するのはまずい。 政治的にもまずいが、何より臨床的にまずい。 このポイントに照準し、最後まで全力でお返事を試みています(前号)。 支援する側が、ひきこもる人を「対象」として観察する。 支援される側が自分を “当事者” として、特権を享受しようとする*1。 双方とも、自分の目線や役割をメタに固定しています。 ひきこもる人がひきこもり論をすればするほどしんどくなるのは、こうしたメタ目線を保ったままだからで、支援者たちと同じ病理にはまり込んでいるわけです。 これを状況論として主題化しないと、何が臨床の核であるかが見えてこない。 ポストモダンとは、単にバラバラなのではなく

    メタ言説への、解離的な居直り - Freezing Point
  • 《縁》という言葉で何を前提にしているか - Freezing Point

    藤井誠二氏と石井政之氏の、twitter でのやり取りをヒントにしつつ(強調は引用者)*1: 藤井 社会的にひきこもっている若い人たちと個別にふだんメールでやりとりしているのだけど、彼らの「無縁社会に対する警鐘」に対してのリアクションに考えさせられた。たしかに無縁死はこわいけど、日の(とくに非都市部での)濃厚な「縁強制社会」みたいなもののほうがこわい、と。とくに女性がそう思って 藤井 (続き) 結婚したその「家」にはいったらどんな理不尽なことでもきかねばならない、付き合わねばならない「縁」のほうが嫌だ、と。たしかに「無縁」を選択した人にはそういう理由も少なくないはず。ぼくとつながっていることが社会とつながっている一の線と彼らは言ってくれるが、それもなあ・・・。 石井  良き縁を作るのが大人では? 極論に影響されてはいけないよ。 藤井 だいじょうぶですよ。御安心を。極から極を見渡すのがぼ

    《縁》という言葉で何を前提にしているか - Freezing Point
  • コミュニティ臨床と、「社会関係の再分配」 - Freezing Point

    文化系トークラジオ『Life』 2009/08/16 「Life 政策審議会」 以前から発言に注目している樋口明彦氏が出ておられて、4時間ほどある podcast をすべて聴きました。 番組のテーマは、「私たちは、そもそも何を望んでいるのか。それを実現するには、どういう政策を求めればいいか」。 選挙直前の放送だったせいもあると思いますが、シニカルさよりも、意思決定にかかわろうとする意欲が前提であり、雇用やベーシックインカムをめぐる具体的な議論になっていました。 『朝まで生テレビ』より前に、こちらで盛り上がっていたとは。 ただ、私がどうしても気になるのが、そこで設定された《つながりのありかた》です。 誰のためのどんな政策なのか、というのは、「誰と誰が、どんな理由でつながるのか」でもあります。 経済学者の飯田泰之氏は、「同世代で団結しなければ」というのですが、それは「世代間の利害対立のため」で

    コミュニティ臨床と、「社会関係の再分配」 - Freezing Point
  • 環境と臨床 - Freezing Point

    NHKブックス別巻 思想地図 vol.4 特集・想像力 作者: 東浩紀,北田暁大,宇野常寛(編集協力)出版社/メーカー: NHK出版発売日: 2009/11/26メディア: 単行(ソフトカバー)購入: 81人 クリック: 2,260回この商品を含むブログ (90件) を見るあまり期待せずに、宮崎哲弥氏の座談会を読み始めたら面白くて、けっきょく購入。 まだ読んでいない章もあるが、決定的だと思った箇所から、理解や方針のちがいを整理してみる(以下、強調はすべて引用者)。 中沢新一: ひとつの問題点は、(略) 人間の思考というのは平面を作り出してしまうことの問題性なんだと思います。 思考するときに必ず何らかの平明を作り出してしまう。 (略) 思考し始めるだけではなくて、これを商売とする人たち、なりわいとする人たちが出てくる。 それから、それをひとつの社会組織にまで展開してくる運動が同時に発生して

    環境と臨床 - Freezing Point
  • 問題化の手続き - Freezing Point

    拙エントリを受けて追加された酒井さんのコメントより: 上山: 「逸脱研究」という問いの作法が先にあって、そこから若者を見ようとする、メタ視点への欲望 ──そうじゃなくて。 ヤンキーたちは「逸脱」してようがそんなに困らないよね?という話でした。 (はてブ) 日の大学進学率は、1990年で25%くらい、2000年で40%くらいであるらしい(Wikipedia:「進学率」)。 「学卒即就職」という「ライフコース」ビジョンは、そのパーセンテージ周辺の人たちにしか関係がない。 たとえば、多くの「ヤンキー」には、こういうビジョンはぜんぜん関係がない。また──ヤンキーではなくても──たとえば高校生活を地方都市でおくった私にとっても、「大学に進むか否か」というのは 明確に「選択の問題」であった。(実際 私自身はかなり悩んだ末に進学を決めた。) (参照) 「そんなの、一部の恵まれた人間の悩みでしかない」と

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  • 「無縁死でいいじゃないか」 - Freezing Point

    hizzz 独り死で何が悪い! 有無を言わさない縁無縁での叙情共同体強調は、ひいては靖国的な国家包摂を要請することにも繋がることになりかねない方向へ。 生前の引きこもり問題が、 生活や権利の実務レベル  国家との関係では、《社会権》*1 「さびしい」といった価値観レベル  国家との関係では、《自由権》 に分かれるように、《死ぬこと》についても、この2つが分かれます。 価値観としては、「放っておいてもらう権利」は、ものすごく重要だと思うのです*2。 しかし、無縁死の状態は、「望んでそれを手に入れた」のか、「やむなくそうなった」のか*3。 独りで死んで、弔ってもらえないということは、生前にも「SOSを出せない状態」です。 ひとりでいることは、「さみしい」とかの価値観レベルで論じられがちですが、当の問題は、それが圧倒的に弱い立場であるということです。 無縁死という言葉に潜む「孤独なのは悪いこと

    「無縁死でいいじゃないか」 - Freezing Point
  • 「The Personal is Political」(個人的なことは政治的なこと) - Freezing Point

    たとえばストーカー関連では、刑事的なトラブルが起こらないかぎり、あるいは長期にわたって繰り返し自宅前に来られたりしないかぎり、現状のストーカー規制法では対応できない。 だから警察は頼れないが、いちいち裁判を起こしていたのでは、残りの人生が裁判だけで終わってしまう。 ⇒集団的対応ができる環境作りをしなければ、どんどん追い詰められてしまう。 「スルーできること」と、「警察・司法に頼れること」のあいだには、深い溝がある。 宮崎学『法と掟と この国の捨て方 (角川文庫)』  「これは犯罪だが、掟は守った」(全体社会と部分社会) 法治国家では自力救済は禁止されており、うかつに「自分で解決」しようとすると、違法行為になってしまう。 「誰かに都合の悪い事実」は、統計に現れない。 表向きの顔と、プライベートな関係実態の乖離。 孤立した人間ほど、紛争処理にコストがかかりすぎる。 集団的に取り組める態勢を作ら

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  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • 解きほぐすのが難しい疑念 - Freezing Point

    孤独死や自殺の現場を清掃する会社のレポートを観た*1。 ※動画の一部:「A&Tコーポレーション 事件現場清掃会社」 【代表:高江州 敦氏】 賃貸で一人暮らしのケースでは、ご遺族に連絡しても90%以上が引き取りを拒否するという*2。 けっきょく大家さんが、清掃を実費で引き受けざるを得ない*3。 ⇒孤独死する率が高そうな人ほど、部屋を貸すのがリスキーになる。(孤独死を見越したシステム設計が必要に思える。) 自殺した20代後半の男性が、母親と姉にあてた肉筆の遺書: 残りの人生を一人ぼっちで生きていくのが怖くなりました アパートだったこのケースでは周辺住民のほとんどが転居してしまい*4、オーナーがご遺族に賠償請求していた。 生きていても死んでいても、人には関わりたくない。 人間は基的に、お互いが「リスク」でしかない。 孤独はリスクだが、人とかかわってもトラブルだけ。 「人と関わろうとすること」そ

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  • ドゥルーズが解説する、グァタリの中間集団論 - Freezing Point

    「一般意志2.0」の議論では、「中間集団の否定」という文脈で、 ドゥルーズの「非コミュニケーション」が引用されています。*1 言論も、コミュニケーションも、すでに腐りきっているかもしれないのです。言論とコミュニケーションはすみずみまで金銭に浸されている。しかも偶然そうなったのではなく、もともと金銭に毒されていたのです。だから言論の方向転換が必要なのです。創造するということは、これまでも常にコミュニケーションとは異なる活動でした。そこで重要になってくるのは、非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、管理からの逃走をこころみることだろうと思います。 (ジル・ドゥルーズ 『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』 p.352、ネグりによるインタビュー) 一方ドゥルーズは、『アンチ・オイディプス』と同じ1972年に出た『精神分析と transversalité ―制度分析

    ドゥルーズが解説する、グァタリの中間集団論 - Freezing Point
  • 社会化の方針 - Freezing Point

    私は、「もう一度考え直す」のが仕事だと思っている。 【当事者主義、制度分析】 彼らは、「できたことにしてしまう」のが仕事だと思っている。 【専門家主義、商品化】 一緒にやれるわけがない。 追記(10月03日) 私はここで、《分析的な再素材化》と、《アリバイへの居直り》を対比させている。 弱者カテゴリーに居直る “当事者” は、関係者としてのリアルタイムの分析を拒否し、特権的アリバイを主張する*1。 その意味で、労働者よりは資家に似ている。 「金はないが、分析を拒否して居直ってもいいことにしてしまう」。 アリバイがメタに確保され、ディテールの再検証と改編を逃れる。 私は、実情への理解と労働の態勢がメタに固定されることに、いわば身体的に激怒している。 現場にある生身の分節過程が否定され、そこにこそ疎外があるからだ*2。 労働過程の疎外を、労使関係に還元して悦に入っている限り、この話は見えてこ

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  • 無記名的な素材としての自分 - Freezing Point

    「暇すぎて死にそうなので>>4の半生でも聞こうと思う」(ニコニコVIP2ch) 【はてブ】 凝った筆名や実名ではなく、「4」「325」など、番号だけで「自分語り」がされていく。 当に目指すべきはこっちだ。 2000年前後に「当事者」が流行ったが、そうしたの著者名には、「>>4」という意味しかない。 誰が語ろうと、それは数ある検証素材の一つであり、番号のついた一事例でしかない。 ところが商業的には、あくまでキャラ立ちが目指される。 「この人はいかに特殊か」という演出で、商品の価値が仮構される。 現代人の社会化は、常にこのように詐欺的な方法をとる。 「自分はいかに特権的な一回性か」を、ウソをついて誇示する。 商品市場では、自分をフェティッシュとして確立できた人間の勝ちなのだ*1。 この方向には、ナルシシズムの確保しかない。 ちやほやされ、消費財として利用される「当事者」しかいない。 「当

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