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思想に関するlotus3000のブックマーク (17)

  • レヴィ=ストロース鎮魂のため数学野郎にお願い(追記アリ - 地下生活者の手遊び

    レヴィ=ストロースが亡くなりましたにゃー。生きたまま即身仏になったのではにゃーかと思っていたけど、やっぱりニンゲンだったかー。 さて、僕の脳内のレヴィ=ストロース鎮魂のために*1、数学野郎・プログラム野郎どもにお知恵を拝借したく思いますにゃー。 お題は 平面上にいくつかの点がある。点と点が線で結ばれている。1任意の1点から出ている線の数はN。任意の2点を取り出すと、その2点は直接、あるいは、別の1点を経由してつながっている。このような状況が可能な点の個数の最大値は? 知り合いの数学野郎に聞いてみたのだけど、一筋縄でいかにゃー問題みたいですにゃ。 で、 なんでこれがレヴィ=ストロースに関係があるかについては以下で説明しますにゃー。 ダンバー数とは? 「人間とは何か」京大霊長類研シンポジウムレポート(前) - 地下生活者の手遊び 「ありもしないものを見る」のが人間@京大霊長類研シンポレポ(後

    レヴィ=ストロース鎮魂のため数学野郎にお願い(追記アリ - 地下生活者の手遊び
  • 自由主義と民主主義のお勉強 - on the ground

    2006/10/31(火) 14:32:03 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-288.html 複数のブログで採り上げられているのを見て、薬師院仁志『日とフランス 二つの民主主義』(光文社新書、2006年)を読んでみた。すると、ページを繰るたびに物凄く違和感を覚える。著者の「自由主義」や「民主主義」についての理解がかなり粗放なためだ。問題意識は理解できるし、具体的記述については首肯できるところもそれなりにあるのだが、政治理論・政治思想史プロパーの人が読んだら言葉を失うのではないかと心配するほどである(私が何プロパーかは不明)。社会学者が書いた新書にすぎないのだから、それほど目くじらを立てるべきじゃないのかもしれないが、よく知らないくせにやけに自信満々な書きぶりが若干ムカつくので、一応基礎的な部分で批判を加えておきたい。 まず「自由だけが民主主義

    自由主義と民主主義のお勉強 - on the ground
  • 1968年の後遺症 長崎浩

  • ララビアータ:神様っているの? - livedoor Blog(ブログ)

    『ドリーム・ナビ』の原稿で、執筆予定者のS氏からの原稿が届かないという緊急事態で、急遽ピンチ・ヒッターとして執筆を要請された。「神様っているの?」という題で、3日以内に原稿を送れという。その間に大先生からの原稿がとどけば、私の原稿は没になるらしい。あんまりな条件だと思わないでもないが、物書きの能に従ってつい原稿を書いてしまった。じゃらしのようなものである。こうやってホイホイ原稿を書いてしまうところが、とかく編集者の方から私が軽んじられる理由かもしれない。とにかくそうやって書いた原稿が、以下のものである。 ――「信頼」のように生まれつつある神―― サンタクロースを気で信じる人などいないだろうが、幼い時は、下の中の贈り物はサンタさんからだと言われる。それは、両親がそっと置いたもの。 けど、両親は何故こんな手の込んだ嘘をつくのだろう?自分たちの贈り物を他の誰かからのものだと思わせよう

  • (5) 【追記】 民族浄化ならぬ、当事者浄化 - Freezing Point

    連続エントリ: 第1回 「《つながりの作法》 としての差別」 第2回 「《不定詞の束としての人格》という考え方」 第3回 「生の様式そのものとしての不定詞 infinitif」 第4回 「差別と批判の見分け方」 第5回 「【追記】 民族浄化ならぬ、当事者浄化」(今回) 【承前】  名詞形の当事者論は、《純粋な○○》 を探し始めます。 「より純粋な○○はどっちか」 の競争になる。*1 しかし動詞形で 《当事化する》 と考えるかぎり、その衝動は起こりません。 多角的な当事化がお互いを調べるのは、あくまで動詞形ミッションとの関係において、 つまり必要な変化との関係においてであって、「固定された性質」を記述するためではない。 名詞形にもとづく倫理は、差別と同じ 左翼系論者が差別をやめられないことと、名詞形「当事者」論は、リンクしています。 彼らは、名詞形の概念枠をやめられないのです。 自分を否定す

    (5) 【追記】 民族浄化ならぬ、当事者浄化 - Freezing Point
  • 徴兵制云々 - 虚舟庵雑録

    どこぞのポピュリスト知事が 思い付きで徴兵制について発言したところ、 あたかも燎原の火の如く、 瞬く間にネットと各メディアに 反発と軽蔑を撒き散らされた。 その場のノリでこのような発言をするのは、 確かに言語道断ではあるのだが、 必ずしも非現実的な話という訳でもない。 平等主義の観点から、 http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50959485.html 小飼弾氏がやや肯定的に論じておられる位で、 いわゆるリアリストを自任する人々や あるいは軍事に関心を持つ人々は、 専ら徴兵制は非現実的と断じておられる。 http://d.hatena.ne.jp/welldefined/20071129/1196346529 『東瀛倭族拝天朝』というブログで 「徴兵は時代遅れか」と題した論考が 読まれているエントリの中では ほとんど例外的に徴兵制も“現実的に

    徴兵制云々 - 虚舟庵雑録
  • 道徳性を支える認知的・進化的な5要素

    Nikon Coolpix / Shibuya / Tokyo. ハーバード大学の心理学教授、Steven Pinker(スティーブン・ピンカー)がNYTに書いた道徳の認知科学についての記事を紹介した、前回のエントリーのつづき。 ■道徳の進化的・普遍的な5要素 心理学者のJonathan Haidtや文化人類学者のRichard ShwederとAlan Fiske によれば、道徳的思考モードが喚起される(進化的に備わった普遍的な)条件は、次の5要素に集約されるそうだ。この5つが道徳性を支える進化的・認知科学的要素であり、これらの要素が犯されたときに道徳的思考モードが立ち上がり、人々は怒り狂いはじめるという。 1.Harm(他人を害するのは良くないこと/他人を助けるのは良いこと) 2.Fairness(親切にされたらお返しすべし/利他的な者を褒め、裏切り者を罰するべし) 3.Communi

    道徳性を支える認知的・進化的な5要素
  • 個人がなし得ることは小さい。世界全部を変革することを個人は要求されているのではない - ujikenorio’s blog

    - 個人がなし得ることは小さい。世界全部を変革することを個人は要求されているのではない。世界全部を変革するのでなければ思想でないという考え方は、有効性をテコにとって簡単に自分が転向してしまうか、あるいは非常に残虐な思想に向かわせます。 残虐行為をした人もいる。これも昨年だが、私は仁木靖武という人の『戦塵』というを読んだ。私は偶然、ここにそのを一冊もっていますから、欲しいといわれる方は最初の方に差し上げます。(申し出た方にあげました)軽くして京都に帰りたいので……。この人は徳島の生まれです。彼は中国戦線に行ってこの戦争の空気の中で捕虜虐殺をする。そのことをすらっと書いている。ふつう、この虐殺のことを書く人は、自分がすまなかったとか、人道にもとるとか、今の思想に立っていろいろな言い訳を書く、その記憶が何となく、文章として具合が悪くなるんですが……。この人は自分のしたことをすらりと書く。 な

    個人がなし得ることは小さい。世界全部を変革することを個人は要求されているのではない - ujikenorio’s blog
    lotus3000
    lotus3000 2012/11/07
    ”世界全部を変革するのでなければ思想でないという考え方は、有効性をテコにとって簡単に自分が転向してしまうか、あるいは非常に残虐な思想に向かわせます。”
  • 2012-11-01

    なんだか三題噺みたいだが、最近目についた以下の3つには共通する問題がある気がする。 尼崎の連続変死事件 遠隔操作ウイルスによる犯行予告なりすまし事件での「やってない容疑の自白」 ブラック企業(参照) 要するに「人はどういう状況に陥ると他人の言いなりになってしまうのか」という問題だ。 わたしは、尼崎の事件の報道にも使われた「洗脳」という言葉には、昔から違和感がある。 この言葉は、オウム真理教のようなカルト宗教団体がらみの事件や、X JAPANのToshiが自己啓発セミナーにはまった件やらオセロ中島と占い師の件やらにも使われたが、なんだか「洗脳する側」が何か異常なカリスマ性や技術を持ってるかのようなイメージがある。 だが、こういうと矛盾のように聞こえるが、洗脳された人間は当人の自発的意志で動いている。つまり、そうしなければならない、と思い込むように仕向けられているのだ。 うろ覚えだが、たしか『

    2012-11-01
    lotus3000
    lotus3000 2012/11/02
    日本人が洗脳に弱い理由。ある意味思想をしるということはこういうウィルスに対抗するためのワクチンを得るという側面がある。心のサンクコストを図るための手段としてもつかえる。
  • ニセ科学批判と科学批判と権威主義 - 地下生活者の手遊び

    ネット右翼とニセ科学批判者はまったく違う 前回のエントリにいくつか否定的トラバをもらったので、おいしくいただくことにしますにゃ。 にゃんといっても興味深かったのが、「ネット右翼と疑似科学批判は似ている」とかいうお話だにゃ。 今日の雑談 あたりからjura03によっていくつものエントリで展開されている(というか自壊している)お話にゃんね。そして、この与太を肯定するお方まででてきているわけですにゃ。 この場合だったらネット右翼や疑似科学者がどういう点でもっとも批判されているかという点が重要でしょう。それは罵倒コメントなど、正しさを指摘したいあまり過激になる点でしょ。その点が「似ている」のなら、ほかに違いがあっても一応批判にはなってるんだよ。それに反論したいなら、いや「その点は問題ない」というか、それをふっ飛ばすくらいのだめな点が、ネット右翼にはあって、疑似科学批判者はない、といわなきゃだめ。

    ニセ科学批判と科学批判と権威主義 - 地下生活者の手遊び
  • 道徳なき経済は犯罪、経済なき道徳は寝言(追記アリ - 地下生活者の手遊び

    タイトルは二宮尊徳のことばとされていますにゃ。 今日はPHPっぽくいってみるかにゃー。 リスク管理の主体は誰であるべきか?(追記アリ - 地下生活者の手遊び 男はフェミである必要などまったくない(追記アリ - 地下生活者の手遊び あたりと関連し 幻影随想: 「ビタミンAがなければ、リンゴをべればいいじゃない」byヴァンダナ・シヴァ に刺激をうけて書いていますにゃー*1。 経済学と倫理学 経済学*2の主要な取り扱い対象に、「生産と分配」がありますにゃ。これは伝統的に倫理学の取り扱い対象であったといえますにゃ。アリストテレスも倫理と分配について述べているし、近代経済学の祖であるアダム・スミスが当代一級の倫理哲学者であったことも当然のことなのでしょうにゃ。そのガクモンとしての実証性はともかくとして、マルクス主義哲学も、倫理哲学と経済学の結合であるといえるでしょうにゃ。 ハイエクにしろケインズに

    道徳なき経済は犯罪、経済なき道徳は寝言(追記アリ - 地下生活者の手遊び
    lotus3000
    lotus3000 2012/10/27
    二宮尊徳の先見性。明治生まれの大叔父はイギリス社会主義のラスキンの影響を受け、最終的に二宮尊徳に帰ったというのは聞いていたけど、こういう背景があるなら当然だろう。
  • 坂本龍一の存在は、彼が高校生だったときから知っていた。

    笠井 潔氏も知らなかったし(スミマセン)、http://goo.gl/OgqX4 社会思想とか社会運動とかにも興味はないんですが、なんか最近日の左系マスコミに露出して受けを狙いに行っているように見える "ミュージシャン"坂龍一は何してるんだろう?と思っていたのが、( ・∀・)シ∩へぇ~という感じで納得できました。 "新左翼過激派"の"新宿高校の赤色戦線"でしたか。今の人は知らないでしょうねえ。今持ち上げているマスコミの連中もたぶん。 続きを読む

    坂本龍一の存在は、彼が高校生だったときから知っていた。
    lotus3000
    lotus3000 2012/10/24
    新左翼時代の坂本龍一の笠井潔のエピソード。20年の繁栄がもたらしたもの。
  • フランス自由主義の両義的位置――三浦信孝編『自由論の討議空間』 - on the ground

    三浦信孝編『自由論の討議空間――フランス・リベラリズムの系譜』勁草書房、2010年 「フランス自由主義」なる言葉遣いは,聞く人を怪訝にさせるかもしれない.まるでそれは語義矛盾であるかのように,「フランス」と「自由主義」が寄り添って私たちの会話の中に座るのは稀な出来事である.「ドイツ」「ロシア」「日」といった語との距離はそれ自体として測られる必要があるとしても,「自由主義」はいつも「イギリス」と,あるいはやや違った相貌を備えた“Liberalism”として,「アメリカ」の語と同席してきた.対して,「フランス」の語には「自由主義/Liberalism」よりも,「民主主義」や「共和主義」が結び付けられることが常であった. 「フランス・リベラリズムの系譜」を副題に持つ書は,このように祝福されてこなかった交際について,その馴れ初めと道程を,個々の思想家に即して語ろうとする営みの収穫である(200

    フランス自由主義の両義的位置――三浦信孝編『自由論の討議空間』 - on the ground
    lotus3000
    lotus3000 2012/10/17
    フランスの自由主義と共和主義との関係が興味深い。多分この溝は日本のリベラリズムの受容にも大きく影響がありそうだ。
  • ロシア・マルクス主義について今更見直し - shinichiroinaba's blog

    ――といっても全然体系的ではないけれど、10年、ものによっては20年積読だったをついに紐解く。 ボリシェヴィズムと“新しい人間”―20世紀ロシアの宇宙進化論 作者: 佐藤正則出版社/メーカー: 水声社発売日: 2000/03メディア: 単行購入: 1人 クリック: 137回この商品を含むブログ (3件) を見る全体芸術様式スターリン 作者: ボリスグロイス,亀山郁夫,古賀義顕出版社/メーカー: 現代思潮新社発売日: 2000/07/01メディア: 単行 クリック: 13回この商品を含むブログ (9件) を見るコミンテルンと帝国主義―1919-1932 作者: 嶺野修出版社/メーカー: 勁草書房発売日: 1992/02メディア: 単行 クリック: 1回この商品を含むブログ (1件) を見る 西洋マルクス主義を持ち上げてロシア・マルクス主義を不当に貶めることはやっぱりよろしくない。しか

    ロシア・マルクス主義について今更見直し - shinichiroinaba's blog
  • 正しいのはオレだ - on the ground

    例えば音楽で世界を変えようとすることは、愚かなことだろうか。「愛と平和」と叫んで暴力を止めようとすることは、馬鹿げているだろうか。気で世界を変えようとしている人は馬鹿と呼ばれても別に何も思わないだろうが、実際のところ馬鹿でもなんでもない。確かに、争いの無い世界を皆で想像すれば争いを無くすことができると考えるのは、社会科学的観点からして認められない見解である。けれども、そう考えることは間違いでも、それを実行しようとすることは社会科学と相容れないわけではない。 もちろん、音楽では世界を変えることはできない。そんなことは、いい大人なら誰でも薄々解っていることだ。でも、世の中には歌う人がいる。音楽に限らず、人に世界を変えることは不可能である。それでも、人はそれをしようとする。そして、それは決して愚かな行為ではない。 なぜか。世界を変えることはできないと解っていて、それでもなお変えようとすることが

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  • ララビアータ:田中聡の暴言 - livedoor Blog(ブログ)

    私はいままで新聞を取ったことがないが、新聞を無益なものなどとは考えない。世の中の動きを知るうえでは、ほとんど役には立たないが、新聞の動きを知るうえでは有益である。先日、行きつけの定屋で読売新聞(2日朝刊)を見たら、例の防衛省の田中聡沖縄防衛局長の暴言についてなかなか面白い動きを見せていた。 琉球新報の普久原均編集局次長が、読売新聞の取材に対し、「著しく人権感覚を欠いた発言で、広く県民に知らせるべきだと考えた」と回答。記者が懇談の場で田中氏にオフレコの撤回を求めなかったことについては、「想像できないような発言に記者が驚いてしまったため、その場で田中氏にオフレコ解除を申し入れることはしなかった」としている。 とある。極めて興味深い記事である。読売の記者は、琉球新報によるオフレコというコードの違反をとがめ立てているのだ。しかし、そこに同席した琉球新報以外の記者たち(読売の記者も含む)は、どうし

  • 道徳の厚みと広がり

    歴史的な文脈の制約を受けることのない普遍的な正義と呼べるようなものが存在するとすれば、それは各人が自らの置かれた歴史的な文脈を徹底的に掘り下げることによってしか見出すことのできないなにものかであろう。すなわち、われわれは、専ら自らが属する特定の境界内のマキシマルな「濃厚な道徳」を深めることによってのみ、境界を超えるミニマルな「広く薄い道徳」に到達しうる(『道徳の厚みと広がり』)。--徹底した歴史的文脈主義の中から哲学的普遍主義の可能性を導き出すこと、コミュニタリアニズムの認識を深めることによって、コミュニタリアニズムを超え、リベラリズムを一歩先に進めること。マイケル・ウォルツァーはこうした逆説的な議論を得意としており、書『政治と情念』においてもまた、従来のリベラリズムが排除してきた幾つかの主題--非自発的なアソシエーション、集団的な無力、文化的な周辺性が惹き起こす諸問題、市民社会に内在す

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