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エッセイに関するlotus3000のブックマーク (16)

  • 「愛国的リバタリアン」という怪物 - 内田樹の研究室

    金滿里さんが主宰する劇団「態変」の出している『イマージュ』という媒体が「相模原事件」を特集した。そこに事件についてのコメントを寄稿した。なかなか手に取ることのない媒体なので、ブログに採録しておく。 相模原の大量殺人事件のもたらした最大の衝撃は、植松聖容疑者が事前に安倍晋三首相宛てと大島理森衆院議長宛てに犯行を予告する内容の書簡を届けていたことにある。それは単に権力者を挑発するための犯行予告ではなく、自分の行為が政権と国会多数派には「好ましい」ものとして受け止められ、権力からの同意と保護を得られるだろうという期待をこめたものだった。逮捕後も容疑者は「権力者に守られているので、自分は死刑にはならない」という趣旨の発言をしている。 もちろん、これは容疑者の妄想に過ぎない。けれども、何の現実的根拠もない妄想ではない。彼の妄想形成を強化するような現実が今の日社会内部にはたしかに存在しているからであ

  • 『ぼくらの昭和オカルト大百科  70年代オカルトブーム再考』(初見健一): 馬場秀和ブログ

    「あのころ、子どもたちは変わりばえのしない日々に、つまらない「ここ=現実」にうんざりしていた。今日と同じ明日が永久に続いていくような世界に退屈しながら、いつかその世界に「亀裂」が入り、そこからありもしない「向こう側」が見える日を心待ちにしていた」(文庫版p.311) ノストラダムスの大予言、ツチノコ探検隊、スプーン曲げ、介良UFO捕獲事件、コックリさん、恐怖の心霊写真集。70年代に全国のチビっ子たちを直撃し、心の奥深くにある何かを決定的に駄目にしてしまった(ような気がする)あの常軌を逸したオカルトブーム。あれはいったい何だったのかを振り返る一冊。文庫版(大空出版)出版は、2012年11月です。 「王道に対するアンチとしてのサブカルチャーがネガティブだったのではなく、時代のオフィシャルな部分、根幹そのものになにか漠とした不安が宿っていて、その「嫌な予感」がサブカルチャー、キッズカルチャーの末

    『ぼくらの昭和オカルト大百科  70年代オカルトブーム再考』(初見健一): 馬場秀和ブログ
  • ほぼ日刊イトイ新聞 - 言葉の戦争と平和。

    人を表現するのに、天才だの達人だの鬼だの名人だのという 冠になるような言葉があるのだけれど、 米原万里さんのような人は、どう言われるのだろうか。 高等数学の記号を扱うような細密さで言葉をあつかい、 しかも笑顔のような見えない言葉も見逃さない。 米原さんのを読んでいたら、 すごい人だなぁということはわかるのだけれど、 じかにお会いして、正直言って、ぼくは圧倒された。 こういう人に会うのは、初めてのことだった。 米原さんの冠が、天才なのか達人なのかわからないけれど、 数十年後にも確実に残っている人なんだろうなぁ ということは、つくづく思った。 そんなぼくのショックが、 伝わってくれたら、おもしろいんだけど。 どうだろうか? 最新作は『オリガ・モリソヴナの反語法』(集英社)。 もっと楽しく読めるエッセイもたくさんありますが、 この小説は、すごい。 19  記憶は創造の源泉 □■■□■■□■■□

    lotus3000
    lotus3000 2012/10/27
    記憶と言語との関係について。
  • 第3回 本で埋め尽くされた書斎をどうするか

    をテーマにしたエッセイや随筆、棚を紹介するを漁ってみると、僕が知らないだけで、実は「床抜け」はそんなに珍しいことではなく、起こりうるということを思い知った。それどころか床が抜けなくても、が大量にあるというだけで十分大変だということも、嫌というほどに理解した。 との格闘 その中から故・草森紳一のケースを紹介してみたい。著書の『随筆 が崩れる』(文春新書)には次のようなことが書いてあった。 ドドッと、の崩れる音がする。首をすくめると、またドドッと崩れる音。一ヶ所が崩れると、あちこち連鎖反応してぶつかり合い、積んであるが四散する。と、またドドッ。耳を塞ぎたくなる。あいつら、俺をあざ笑っているな、と思う。こいつは、また元へ戻すのに骨だぞ、と顔をしかめ、首をふる。 これは草森さんが風呂に入ろうとしての山が崩れ、浴室に閉じ込められたときの様子である。彼の住む2DKの空間の中でまったく

  • 橋下徹について語らない文化人たち - 一人でお茶を

    私もすべての雑誌や新聞に目を通しているわけではないので、こう決めつけるのもよくないんだろうが、時事を取り上げて語る類のエッセイやコラムをお書きになっている方たちは、現政権の悪口を言うことはあっても、いまや渦中の人と化した橋下徹や彼の率いる維新の会については触れるのを避けているように見える。 マスコミの取り上げ方や一般人への受け方について、文化人として何か言いたくなることはないのだろうか。小泉ブームのときは、いろいろなところで揶揄や苦言を目にしたものだが。 『世界』2012年7月号の特集「橋下維新」では、さすがに橋下ブームについての観察と分析も読むことができた。以前にもこの日記で紹介した、想田和弘『言葉が「支配」するもの』だ。ツイッターでの橋下発言や支持者の書き込みを追い、そこに見える特徴を示し、なぜそれに引かれる人がかなりの数出るのかを分析、こういう事態を招いたのはこれまでのリベラルといわ

    橋下徹について語らない文化人たち - 一人でお茶を
  • 選別の手段としての学問と科学 - 痴呆でいいもん

    学校の教師だから思うのかもしれないが、日教育制度がそのままのうちは、疑似科学問題は起りつづけるように感じる。教育、学問、科学といったものは、日人の大半にとって、その内容以前に選別される経験である。私や私の同僚の大学の教師もふくめて、日人のほとんどは自分の学歴になんらかのコンプレックスを抱いている。たとえ、東大卒であっても、自分にとっての値打なりアイデンティティが東大卒であることだけによっているなら、それもある意味で学歴コンプレックスである。そうしたコンプレックスとまるで無関係に科学や学問とつきあうことは、とてもむずかしいはずだ。 私は海外の事情にうといが、すくなくとも、(1)日の中学以降の教育が事実上、一部の平均以上の学力もつ人間をのぞけば、選別の手段でしかないことと、(2)一発の入学試験という学力の測定手段としては、きわめていいかげんな手段によって、選別が実行されていることは日

    選別の手段としての学問と科学 - 痴呆でいいもん
  • 『民主主義を眺めるミネルヴァの梟(エッセイ再掲)』

    この前、8月12日 朝日新聞に 民主主義について俺が思うところを述べたインタビューが載りました。 その時の考察の出発点になっているのが、 次のエッセイです。 去年の夏に『文學界』に掲載していただいたものです。 インタビューではマイルドにするために 民主主義そのものへの疑問は述べませんでした。 「民主主義」と言うならこれぐらいのことはしないとダメだ という口調で書きました。 このエッセイでは そもそも民主主義でいいのか という疑問を提示しています。 よかったらお読みください。 民主主義を眺めるミネルヴァの梟(『文學界』2010年9月号掲載) 國分功一郎 ミネルヴァの梟は夕暮れ時に飛び立つ。 ミネルヴァの梟が飛び立てば、夕暮れ時が訪れる。 ミネルヴァの梟は飛び立った。夕暮れ時は既に訪れている。 最近、出色のレーニン論『「物質」の蜂起をめざして』(作品社)を出版した白井聡氏と対談する機会を得た。

    『民主主義を眺めるミネルヴァの梟(エッセイ再掲)』
  • 【エッセイ】どうして日本人は質問しなくなるのか - Ylab 東京大学 山内研究室

    では、大学の大人数講義で「質問はありますか?」と聞いて手をあげる学生はほとんどいません。たまに手をあげる学生がいると、好奇の目で見られます。 これは世界共通の現象ではなく、欧米では多くの学生が積極的に質問するのが普通です。 不思議なことに日の小学校の授業では活発な質疑応答があり、グループ学習でも議論がもりあがりますが、中学校に入ると、ぴたっと誰も質問をしなくなります。 限られた経験からではありますが、欧米の学校では、むしろ小学校の方が静かで、中学校・高校と進むに従ってしっかり自分の意見を言う学生が増えるように思います。 だからといって日の学生が考えていないわけではなく、その証拠にレポートを書かせると非常によく練られたものが提出されて舌を巻くことがあります。このような文化差はどちらが優れているというものではありませんが、協調学習やワークショップなどを考える上で、重要な条件としてあらわ

  • 職業にして失うということ - 深町秋生の序二段日記

    山下洋輔の新刊エッセイ「ピアノ弾き即興人生」を読んだら、おもしろいくだりがあった。 音楽を職業としていると、どうしても音楽を普通に聴くことはできなくなる。それゆえテレビから流れるちょっとした音楽にも苛立ってしまうというお話。どんな音楽であれ、耳に入ってくると、つい批評したり、なにかをそこから学ぼうとしてしまうという。落語やNHKの「ラジオ深夜便」といった人の言葉を誘眠剤代わりに聴くときがあるけれど、音楽ではそうはいかない、眠るどころではないらしい。 たとえば、昔の歌謡曲でも、六〇年代ヒットパレードでも、モーツァルトでも、聴こえたとたんに神経がピリピリする。「そうか、こういう風に曲を作っていたのか」「この編曲はどうなっているのか」「この曲が作られた背景にはどういう社会的音楽的状況があったのだろう」などと要らぬ考えに迷い込む。そのうち、自分の知識の無さに情けなくなったりして、安らかに眠るどころ

    職業にして失うということ - 深町秋生の序二段日記
  • 齊藤先生へのリプライ - こら!たまには研究しろ!!

    twitter上での僕の発言 iida_yasuyuki 日経済は長期均衡水準らしい……現状を非自発失業がない状態だと考えられる人はよほどにおめでたいと思う→ 【齊藤 誠 低生産性・高コスト構造を自覚せよ】 http://ow.ly/2UZv1 に対し,齊藤先生がコメントされているので,そのリプライを*1. 失業の自発性について まずは謝罪 「おめでたい」についてですがこれは素直に申し訳ありませんでした.普段比較的激しい論争の渦中にいることが多く,中傷というほどの気持ちではなくちょっとした皮肉のつもりで書いてしまいました*2.お気に障る表現になってしまいましたこと,大変申し訳ありません. そして反論 私自身には「斉藤先生は全ての失業を自発的失業だと主張している」と言うつもりはありません.サーチ理論に基づく均衡における(ある意味自発的ではない)均衡失業を教科書的な,または普段用いるタームに

    齊藤先生へのリプライ - こら!たまには研究しろ!!
  • ララビアータ:花井一典氏の思ひ出 - livedoor Blog(ブログ)

    北大の旧友からの電話で、花井一典氏の急逝を知らされた。24日に北大文学部でお別れの会があった。北大へは、ほぼ20年ぶりである。 花井氏(以下敬称略)は、知る人ぞ知る中世・古代哲学者である。わたくしとは大学同期で、言葉に尽くせないほど彼にはお世話になったのだが、ここ15年ほどはほぼ絶交状態が続いていた。どうしてこんなことになってしまったのだろうか? 花井は、天才的な語学力とたぐいまれな学識にもかかわらず、人自身には全くそんな自覚は思いもよらないものだった。それは、彼が言語と思想の当の深みについてあまりにも通暁していたために、自分の学識を、それに比してごく控え目なものと認識していたからである。 彼は格的な学者によくある偏屈さのために、世渡りが器用と言えるものではなかった。そのためか、彼は就職の面でも他の同僚よりずっと不運であったと思う。花井の恩師であった斉藤忍随先生が急逝されたことも(1

  • はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました - はてなの告知

    はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です - はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。 はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて - はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記 はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28

    はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました - はてなの告知
  • ポルノとコルテオと男女同権 - はてこはだいたい家にいる

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    ポルノとコルテオと男女同権 - はてこはだいたい家にいる
    lotus3000
    lotus3000 2010/04/14
    ポルノの根底にある考えへの批判。ポルノ好きの友人にたかが粘膜だけで相手をわかったような気になるなと言われたことを思い出す。
  • 雑感 - finalventの日記

    たぶん真理は宗教の中にはない 倫理的な意味ではあるかもしれないが。 以前というかもう随分昔になるが、大森荘蔵のエッセイを読んでいて仏教への批判というか、ごく普通に仏教の考え方を疑問視しているのがあって、ああ、仏教が必ずしも真理ではないのだろうなと思ったことがある。いやそれだけいうと稚拙だが、こういうスキームではいつも仏教とはなんぞや、仏教における真理とはという問いかけに転換する(おまえの仏教理解は全然違う正しい仏教はなんたら議論)が、それはそもそも間違いだろうなという含みである。哲学は、数学なんかと同じで、実は、けっこう真偽が問えるものも多く、意外と宗教的な真理も包括して偽を下せるのではないかと思った。私は宗教には別段真理などないんじゃないかと思っている。 まあ、いわゆる仏教、とするしかないが、縁起説と無我説がある。前者は時間と因果と意識をどう含めるかで実際には多様な議論があるが、無我説が

    雑感 - finalventの日記
  • 『はてな』へのコメント

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  • 黒猫館 管理人の「ひとこと」

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