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ララビアータに関するlotus3000のブックマーク (35)

  • ララビアータ:快楽と苦痛 - livedoor Blog(ブログ)

    快楽とは、決して砂糖菓子のようなものではない。むしろ、虫に刺された所をかきむしるようなものだ。我慢がならず掻いてしまうが、それによって余計苦痛が増す。そのうち、掻きむしることが心地よいのか、痛いのかも、わからなくなるまでになる。苦しみそのものが快楽と一体化してしまうのだ。 初めはかゆみを止めようとしていたのに、今や進んで苦しみを求める。ついには、それなしには生きる気もしないくらいに、それこそが生きる意味であり、目的であるかのように、それに固執するのである。 仏教的に見れば、これほどの迷妄はない。この、麻薬にのめり込むような激しい愛着こそ、すべての苦悩の種なのだ。それをきれいさっぱり抜け出さねばならないと説く。 だが、このような解脱、このような悟りへの執着こそ、より高次のかきむしりだとしたら、かかる教えこそは、迷妄の中の迷妄であることにならないだろうか? はじめから中途で引き返すような人は、

  • ララビアータ:鈴木道彦『越境の時―1960年代と在日』

    最近、朝鮮総連と我が国の公安警察行政の中心人物(もと公安調査庁長官)の巨額取引が明るみに出て、我々を驚かせた。このような場合、事件質からして、その真相のすべてがくまなく明らかになるような事はあるまいし、それを徹底的に追求する気骨あるジャーナリストも我が国にはいないだろう。したがって、ここにゆすりや恐喝の類を見るべきか、それとも利益誘導や官民癒着の類を見るべきか、あるいはその両方を見るべきか、あいまいなまま終わるだろう。 もちろん、公安当局のエリートが政権トップの暗黙の意を体して総連と接触し、秘密の情報ルートを確保して、危機的事態をある程度制御可能にしておこうと考えた、という可能性もないわけではない。しかし私自身の考えを言うなら、概してかかる合理的解釈は理に勝ちすぎて、真相である可能性は少ないと思う。というのは、我が国の安全保障を担う担当エリートたちが、それほど戦略的な国家理性に基づいて

    ララビアータ:鈴木道彦『越境の時―1960年代と在日』
  • ララビアータ:弁証法とは何か? - livedoor Blog(ブログ)

    ここで「弁証法」について一言述べておく。私の言語使用が一般とは少し違っているという印象を与えているかもしれないからである。 一人で考えている限り、自分が何かもっともで整合的なことを考えているつもりでも、他人から見れば、根拠が薄弱であったり、矛盾したことを主張しているかもしれない。そのことが、他者との対話の中でしばしば明らかになる。このようなことは、一見当たり前のことに見えるが、実はそこには、驚くほど豊かで重要な洞察が含まれていたのである。そのことに注目し、それを哲学の基に据えた人々こそギリシア人である。(この意味で弁証法は、今日の言語哲学とか分析哲学と呼ばれる問題領域のほぼ全域を覆っている。) まず第一に、自分の信念や信念内容の意味理解に、一人称特権が常にあるとは限らないということ。我々は、自分が考えていること(考えていると思っていること)を、当はそのまま考えているのでないかもしれない

  • ララビアータ:坂口安吾『堕落論』 - livedoor Blog(ブログ)

    山形新聞(9月28日)のコラム「ことばの杜へ」に、投稿した。 「日は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生した。」    坂口安吾「堕落論」 「堕落論」と聞けば、戦後無頼派、デカダンの類と誤解されかねないが、坂口安吾(1906〜1955)の論旨は、いたって健全な良識を語って揺るがない。時流に乗ってさっそく看板を書き変えたペンキも乾かぬ内に、またぞろ旗をふってひと儲けを狙う連中に対して、安吾の舌鋒は鋭い。要するに、生活する人間の基を見据えて、中身のないお題目や道徳的たわごとの空疎さを、暴き出してしまうのだ。 別のエセー(「青春論」)では、宮武蔵の剣法を、「試合に先立って常に細心の用意をしている」が「いよいよ試合に臨むと、更に計算をはみ出したところに最後の活を求めている」と実践的な即興性を強調する。「五輪書」に見られるような、もったいぶった人生論など歯

  • ララビアータ:主体とは何か? - livedoor Blog(ブログ)

    先日の哲学会で、「主体」についてどう考えるのか?という質問が出た。これは、私が、未来を志向性の対象として考えるような立場、または「構成主義」的な立場で問題の解決や意味を考えることを批判したのに対して出されたものである。構成主義的に考えると、真理は構成されるものになるが、そこには構成主体を前提し、またその主体は、構成する意味志向をすでにもっていることになってしまう。これでは、真理発見の意味生成的側面がうまく捉えられないのだ。 私は、構成主義が前提しがちな意味志向主体とかインテンションの主体のようなものは考えないが、だからといって現代思想のはやりにのって「主体」を軽視しようなどとは思わない。むしろ、主体は言語主体として、言語習得に臣従しており、精神分析で言う「象徴界」に臣従するものとして決起するのである。それは象徴界の呼びかけを聴く前に存在しているものではない。象徴界からの呼びかけにこたえるこ

  • ララビアータ:行儀作法 - livedoor Blog(ブログ)

    参議院選挙期日前投票をしてきた。これまで、地方選挙も含めて、一回も棄権したことはないが、もちろん選挙などに過大な期待をしない程度の分別はわきまえている。そんなものに期待するのは、候補者の身内でなければ、ただの愚か者だけだろう。 とはいえ、今回の投票ほど暗澹たる気持ちで、それでも祈りを込めて投票したこともなかったのではないかと思う。これで、アベやハシモトの息の根を止めることができたなら、どんなにか良かっただろう。そんなことは望むべくもない。 しかし年を重ねるとともに、希望にもとづいて行動することはなくなる。何の望みもなくても、ただ義務を果たす。敵弾、雨あられの中で堡塁を守る兵士のように。それは、幼い頃に習い覚えた行儀作法の名残のようなもの。もはや意味はなくなっても、型だけは残っている。

  • ララビアータ:橋下徹との非和解的闘争 - livedoor Blog(ブログ)

    目下のところ、言論に対する橋下市長のおぞましい弾圧が奏功したように見える。 このような場合、いかなる立場をとるかに関しては、己れの政治的経験のすべてがかかる重大な決断を強いられる。どのような立場をとろうとも、それぞれ理屈をつけることはできようが、問題は政治的決断であるから、それを理性的説得によって共有することは容易ではないかもしれない。それでも少なくとも態度表明は、すべての言論人の義務であると感じるので、あえて書き記しておくことにする。 我が国の憲法的原理は、憲法の初めの8カ条を除けば、大雑把に言って自由主義的原理と民主主義的原理に基づいていると言ってよいであろう。政治的主張がどのようなものであれ、それを基盤にして始めなければならない。 しかし、ここで注意すべきは、この二原理が常に調和的とは限らないということである。たとえは、ヒトラー政権はワイマール民主主義の手続きに従って、民主主義のただ

    lotus3000
    lotus3000 2012/10/23
    自由権と平等権との違いについて。
  • ララビアータ:原発ジプシー - livedoor Blog(ブログ)

    堀江邦夫という方の『原発ジプシー』(1979)というがある。今から30年以上前に刊行されているもので、堀江氏がみずから下請け労働者として原発作業に潜入し、その現場の実態をレポートしたルポルタージュである。高度経済成長のただ中、その裏側で厳しく危険な下請け労働がそれを支えていることを克明に記録したものだ。 このが出版された頃、私は堀江さんを個人的にいささか応援したことがあった。どういうご縁であったか正確には覚えていないが、おそらく亡くなった母の後輩か何かのつてであったと思う。氏のお話では、このを出版した頃から、ご自宅に頻々と脅しの電話が入るようになったということである。「家族の命はないと思え」とか、「子どもがどこかで交通事故に遭うぞ」などいうたぐいの電話である。市民個人が気で大きな権力に挑もうとするとき、どんな目に遭うのか、我が国の憲法が保証しているはずの表現の自由が、現実にどの程度

  • ララビアータ:神の怒り - livedoor Blog(ブログ)

    時々学生が質問に来る。工学部の学生で、ほぼ定期的にやってくるのがいる。ヤスパースの『哲学入門』を読んでいて、その中でわからない所を質問に来るのだ。どうということもないのであるが、ヤスパースはキリスト教的価値理念を自明視しているため、その信仰はもちろん知識もない学生にとっては、何を言ってるのか分からないことになりがちだ。そこで、ヤスパースのより、ハイデガーの『存在と時間』を読むことを勧めてみた。どちらがいいか価値評価を押し付けるつもりはないが、まだしも取っ付きやすいかもしれないと考えてのことである。 それとは違うひとだが、このあいだ三木清の『人生論ノート』をもって質問に来る学生がいた。「怒りについて」という章があり、「神の怒り…何という深い思想であろうか?」という言葉ではじまっている。「どこら辺が深いのでしょうか?」と聞かれた。 こういう質問が一番難しい。教師の無教養ぶりと底の浅さが、どう

  • ララビアータ:7/29の激論 - livedoor Blog(ブログ)

    先日の脱原発国会大包囲活動では様々な興味深い場面がみられた。この間、反原発運動に参加しながらいろいろと考えることが有ったが、わたしとしては、若い世代の運動に水を差すことにならないように、できるだけ謙抑的な態度で、脇役として参加することに甘んじてきた。 しかしこの運動自身の高まりの過程で、自然といろいろの考えの対立が深まっているように思われる。政治闘争というものが、その過程の中で諸対立を生みだすこと自身はごく当然のことであり、その運動の豊かさと活力の現れであるから、ことさら憂慮すべきことではない。ただそのことを恐れるあまり、むやみに「統一と団結」を押し付けたり、異なる意見を極端に排除することが何の議論もなく行われたりしては、運動自体の活力をそぐことにしかならないというのが、戦後の政治運動の教訓であろう。 これまで参加した運動で感じられたことは、運動に参加している人々相互の間で、あまり議論が行

  • ララビアータ:「真理の相対主義」について - livedoor Blog(ブログ)

    倫理的判断に対しては、観点や立場に相対的に主張可能である場合がいかにも有りそうに思われよう(たとえば、ある行動が快楽という観点からは善であるが、不健康という観点からは悪で有り得るなど)。それに対して真理を要求する判断においては、相対主義的主張は普通ずっと難しそうに思われる。以下、真理の相対主義といわれるものに対する私自身のスタンスを、概観しておきたい。 私は、真理を発見(アレーテイア)と見なし、科学的発見を概念の提案とみなす。即ち、科学的命題は、発見に寄与できる限り有用な概念装置であっても、それ自身は真であったり偽であったりするものではないと見る。たしか、トゥールミンもそれに近い考え方をしていたと思う。そこで彼は、「光は直進する」という幾何光学的法則を、普遍的真理というよりは、幾何光学的現象の発見の道具、ないしは説明の図式(作図方法の基礎)として見なすべきだと説明していたはずだ。 アリスト

  • ララビアータ:自由の敵(橋下徹氏の場合) - livedoor Blog(ブログ)

    大阪では、卒業式に君が代を歌っているかどうか口元を調査する教頭がいるらしい。何とも滑稽とも恐ろしいとも言えることであるが、ここには明治以来我が国に固有の問題が現れている。 一般に、近代化とともに諸個人は古い共同体的紐帯から離れ、市場のアナーキーにさらされるにつれて、秩序維持の必要から、以前よりも強力な集権化と軍事力を必要とするものである。したがって「夜警国家」の理想は、常に幻想である。首尾よく近代化を成し遂げた諸国は、いずれもかかる権力を封建的体制に代えて装備している。 近代化に不可欠な強力な権力を、広く人民の協力によって調達するために、民主主義の導入がはかられる。このことは、特に顕著に軍事部門に現れる。幕府軍を圧倒するために、人民皆兵制をいち早く導入した高杉晋作の「奇兵隊」や、ナポレオンへの対抗上近代化の先駆けとなったプロイセンの軍と参謀部(クラウゼヴィッツはその中心)の例を見よ。近代

    lotus3000
    lotus3000 2012/03/17
    ”自分で考えるという態度に対するむき出しの敵意こそ、橋下氏の人気を支えている本体だ。”
  • ララビアータ:信仰 - livedoor Blog(ブログ)

    プラトンは、精神を「欲求的部分」「気概的部分」「理性的部分」に三分した。前二者を理性的部分が統御すべきものとされる。欲求的部分を理性がコントロールするというのはわかりやすい。これはフロイトの快楽原則と現実原則のようなもので、快楽を最大化するためにも、理性は欲望を統御しなければならない。だから欲求的部分と理性的部分の間に不整合は存しないはずだ。 しかし気概的部分と理性との間はどうか? ソクラテスは、恐れるべきものを恐れ、恐れる必要のないものを恐れないことこそ、真の勇気だとした。(『国家』430)。したがって、何を恐れるべきかを知ることこそが、気概を導かねばならないわけである。 しかし、危険の範囲があらかじめ知られているのなら、何を恐れる必要があろうか?次にどんなことが起こるか予見できるのなら、恐れも勇気も必要ない。 コロンブスは、インドをめざして大西洋を西へ西へと進んだ。すぐに故郷の港は水平

    lotus3000
    lotus3000 2012/03/07
    "このような賢しらな理性のシニシズムを乗り越えるためには、すでに我々は「信仰」の中にいるのでなければならないだろう”
  • ララビアータ:安富歩氏の『原発危機と「東大話法」』(明石書店) - livedoor Blog(ブログ)

    初めはその題名を見ただけで、ちょっとあざとすぎるかと敬遠していたのだが、先日取り上げた『生きる技法』が思いのほか面白かったので、このも読んでみた。 書は、我が国のエリートたちが駆使する特有の話法を分析して批判するものであり、とくに原発危機をめぐる彼らの論理を「東大話法」として特徴づけている。その点についての氏の論述は期待通り的確なものであるが、ここではそれとは別に、期待以上に興味深かった近世以来の日社会についての氏の分析について、取り上げてみたい。 安冨氏は、近世以来の日社会を、果たすべき「役」(やく)と「立場」という観念で分析する。「役」の成立は「家」の成立と連動していると言われるから、役を果たすのは少なくとも当初は「家」であったことになろう。 近世以後の日社会は、「お上」または「公儀」から割り振られた「役」を果たす「立場」によって分割され、いわばそれを単位ブロックにして積み上

    lotus3000
    lotus3000 2012/03/07
    安富歩氏の社会分析と疎外。これがコミュニケーションの存在論的な分析を不可能にする。さらにマゴコロ信仰という問題が絡んでくるとさらに厄介なことになる。チェック。
  • ララビアータ:プラトンの『メノン』 - livedoor Blog(ブログ)

    メノン プラトンの『メノン』の新訳が、渡辺邦夫さんの翻訳で、光文社文庫から出た。 一読したところ、とても素晴らしい訳業だと感じた。光文社文庫は、古典の新訳を次々に出すというたいへん意欲的な試みをしている。渡辺氏の訳は、非常に自然な日語でわかりやすいばかりではない。ごく最近の国際的な学術的研究成果を踏まえた格的なものでもある(らしい)。私自身、古典学の最近の動向を知らないので、これは訳者あとがきからの知識である。 加えて、文と同じくらい浩瀚な解説がついている。この訳業の大きな特徴はこの点であろう。 このような高い水準の翻訳が一級の古典に新たに加えられたことを、読者の一人として喜ぶとともに、渡辺氏の学者的良心と出版社の炯眼を賞賛したい。 ただここでは、氏の解説を読んで感じた私自身の違和感や批判的考察を中心に記しておきたい。もちろん、このような違和を感じさせてくれるということ自体が、私自身

    lotus3000
    lotus3000 2012/02/18
    ギリシアと現代を結びつけるもの。ポリス的なものが衰退するなかで反ポリス的なものに展開せざる得なかったソクラテス。そして希望が傭兵たらざるえなかったメノン。
  • ララビアータ:脱北者 - livedoor Blog(ブログ)

    在中日公館での「脱北者」保護を今後行わない旨、日中両国が合意したことが報道されている。政府は「国際ルールとの兼ね合いもありやむを得ない措置」としているという。 玄葉外相は「日中国からの脱北者受け入れをしないということは絶対にない」と言っているそうだが、この合意の正確な内容の公表を、政府が拒否している以上、にわかに信用できるものではない。日経新聞は「公館外で日政府関係者が脱北者と接触して公館につれてくることはしない、と伝えた。これにより、日政府が中国内で脱北者を保護するのは、脱北者が日国籍を持っている場合を除いて事実上、公館に駆け込むケースに限られることになる」と伝えているが、こんな内容であったとは思えない。もっと踏み込んだ内容であるから、公表できないのだろう。 もともと、日の在外公館は、亡命者の人権などについての配慮は二の次三の次である。そのような者に逃げ込まれては迷惑千万な

  • ララビアータ:ギリシアの破綻 - livedoor Blog(ブログ)

    先日、テレビでギリシアの経済破綻について、いつもとは違った方向から分析を進めているのに出会った。これまでは、たいていの論者が、ギリシアは放漫財政をして世界に迷惑をかけているのに、一向に責任を取ろうとしないという論調だったと思う。デモばかりしてギリシア人は甘えているというわけだ。まるで、かつての国鉄の赤字体質を国労のせいに仕立て上げたような論調である。しかし、ギリシアに金を貸し付けていたヨーロッパの金融機関は、その一方で、自国の武器の多額の購買を、秘密の融資条件としていたことが明らかになっている。オリンピックの事業にしても、そのために多額の融資をもちかけては、ヨーロッパ各国はギリシアから受注していたのである。こうしてギリシアに借金を押しつけて、さんざん儲けてきたわけだ。その取引の多くは、賄賂がらみの不正なものであるから、ギリシア人が支払う義務のないものである可能性が高い。今何より優先されるべ

  • ララビアータ:田中聡の暴言 - livedoor Blog(ブログ)

    私はいままで新聞を取ったことがないが、新聞を無益なものなどとは考えない。世の中の動きを知るうえでは、ほとんど役には立たないが、新聞の動きを知るうえでは有益である。先日、行きつけの定屋で読売新聞(2日朝刊)を見たら、例の防衛省の田中聡沖縄防衛局長の暴言についてなかなか面白い動きを見せていた。 琉球新報の普久原均編集局次長が、読売新聞の取材に対し、「著しく人権感覚を欠いた発言で、広く県民に知らせるべきだと考えた」と回答。記者が懇談の場で田中氏にオフレコの撤回を求めなかったことについては、「想像できないような発言に記者が驚いてしまったため、その場で田中氏にオフレコ解除を申し入れることはしなかった」としている。 とある。極めて興味深い記事である。読売の記者は、琉球新報によるオフレコというコードの違反をとがめ立てているのだ。しかし、そこに同席した琉球新報以外の記者たち(読売の記者も含む)は、どうし

  • ララビアータ:スピノザとライプニッツ - livedoor Blog(ブログ)

    マシュー・スチュアートの『宮廷人と異端者』(書肆心水)を読んだ。スピノザとライプニッツ両哲学に興味がある人にとっては、見逃せないである。両哲学者の書簡を含むテクストはもちろん、その周辺の人々の資料にも目くばせが行き届いた興味深い一冊。著者は哲学者たちの理論や人間性の解釈にまで立ち入った上で、彼らの複雑な影響関係について独創的な解釈を打ち出している。 1676年11月ライプニッツはハーグにスピノザを訪ねているが、このときの対談は、通常言われているよりも濃密で長時間(少なくとも数日間)にわたるものであったらしい(p−251)。ライプニッツには、既にスピノザの説を受け入れる準備が整っていたのだが、このときの対談を境にして、ライプニッツは次第にスピノザから距離を取り始め、やがてまったく敵対的なものと見なしてゆく。これを著者は、思想史的ドラマとしてのみならず人間ドラマとして描き尽くそうとしている。

  • ララビアータ:佐藤俊樹氏の『社会学の方法』 - livedoor Blog(ブログ)

    佐藤氏の新刊(ミネルヴァ書房)を読んだ。以下、その読後感想を記すことにする。 書の特徴は、単に諸社会学理論の概説とか、歴史というものにとどまらず、それらを生きた分析技法として使用する現場の勘所のようなものを教えてくれるところだろう。社会学に限ったことではないが、学問的知識は、単にまとまった完成された知の体系として学ばれるだけでは十分ではない。むしろ、自分で使って自分なりの分析道具として自由に活用できるようにならなければならないのである。その点が、とかくアマチュアの学者が苦手とするところだ。独学で理論を学ぶ人は、それを完成された形で受け取りがちである。そこで、どこが肝心の所か瑣末な所かメリハリがつかめず、金科玉条のものと奉ったり、情況に応じた柔軟性がなかったりしがちだ。職人の技のように、力量ある親方の傍で見よう見まねで覚えたり、個々人によって異なる弱点や個性に応じた手ほどきを受けたりとい