爆笑本来の意味は「大勢が笑うこと」なので一人で笑うときに「爆笑」を使うのは誤用である、とされることもあったが、実際には「爆笑」という語が使われはじめた昭和初期からすでに一人で笑う場面でも用いられていた。「大勢が笑うこと」説のほうに根拠がない。 的を得る「的は射るもの」なので「得る」は誤用である、とされることもあったが、もとを辿れば「不失正鵠」すなわち「正鵠を失わず」という慣用句であり(正鵠=的の中心)、それが「正鵠を失う」と肯定形で使われるようになり、その対義語として「正鵠を得る」という言葉が生まれ、そして明治末には正鵠を的に置き換えた「的を得る」や「的を射る」といった表現が出てきた、といったややこしい変遷があったもので、少なくとも「的を得るは誤りで的を射るが正しい」とはされなくなっている。 汚名挽回「汚名は返上して名誉を挽回すべきだ」とされることもあったが、もともと「挽回」という言葉は「
まず、土と水の混合物という意味での「泥」(以下「ドロ」と書く)ではない、生きものとしての「泥」(以下「デイ」と書く)については、中国の沈如筠が書いた『異物志』という書物で紹介されているという。 泥为虫名。无骨,在水则活,失水则醉,如一堆泥。 泥は虫の名である。骨がなく、水に在ればすなわち活き、水を失えばすなわち酔う、一堆の泥のごとし。 『能改斎漫録』『夜航船』などにも同様の記述がある。なぜ「水を失えば酔う」のかといえば、言い伝えによると「デイ」は身体から酒を分泌しているので、周囲に水が無くなると自分の酒で酔って、ドロのようになって死んでしまうかららしい(が、この言い伝えのソースも不明なので信用できるかどうか)。おそらくナマコかクラゲのようなものを指しているのではないかと思われる。 「酔如泥(泥の如く酔う)」という表現の初出は『後漢書』の周沢伝だ……という説が一般的なのだが、現在の『後漢書』
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詳しくは旧twitterことXで検索してくれ。 簡単に説明すると、池田信夫が「れいわの支持者は境界知能」とれいわ新選組とその支持者を非難する文脈で境界知能という言葉を使ったことからそれに同調する人たちの間でも境界知能が他人を攻撃するための言葉として使われ始めてしまった。 ただ、それ以前の他の文脈でも堀江貴文や井川意高が同様に他人を攻撃する文脈で境界知能という言葉を使っており、池田信夫が最初なのではなく一部界隈では以前からあった用法なのかもしれない。 境界知能という言葉は知能指数が平均よりも大きく低いものの障害と認定されるほどは低くない人のことを指す言葉であり、困難を抱えながらも支援の目から零れ落ちてしまう人たちをすくい上げる目的意識から使われ出した言葉である。言うまでもなく他人を攻撃する目的で馬鹿のちょっとこじゃれた言い方のように使うのが適切な言葉ではない。適切でないというのは表現が弱いな
道民の人(廃墟・ひなびた風景) 名古屋コミティア(3/24)E-48 @North_ern2 日本各地を旅をしながら廃墟、ひなびた風景、不思議な伝承など「人の生きた記憶」を記録・著作しています。廃墟/路地裏/街並み/建築/旅館/医療/民俗学/たまーにポトレ。 調査・原稿依頼など連絡はDM/メールから:polaris453121@gmail.com)fantia.jp/fanclubs/34782 focusite.booth.pm 道民の人(廃墟・ひなびた風景)@12/31冬コミ東3ク-26b @North_ern2 大正時代の医師会誌読んでたら、当時女学校に出入りしてた医学者が書いた「関西の現代女学生が用いる隠語抄録」があってこれ面白い。女学生は今の中高校生くらいの年代だが、この頃から「ヒスる」ってあったんだね…。そして袴とかおやつとかお雑煮とか「~ってよ」とか出てきてまあ本当にかわいい
Unseen Japan @UnseenJapanSite The Japanese word "yabai" can mean almost anything depending on the context. In fact, its tendency for overuse and replacement of more precise terms isn’t something the whole of Japan celebrates. In other words, some people think things are getting quite yabai out there. pic.twitter.com/AZmPHfCUk2 2023-11-14 00:06:39 Unseen Japan @UnseenJapanSite Learn more about the
「真逆」という言葉は、毎日新聞で確認できる限りでは1998年から見られる歴史の浅い言葉ですが、急速に拡大しました。反発も根強いのですが、なぜこの言葉は昔にはなく、最近広まったのでしょう。前後編で掘り下げて考えます。 9月に出た毎日新聞校閲センター著「校閲記者も迷う日本語表現」(毎日新聞出版)は、主にこのサイトの「質問ことば」から厳選して構成されています。今回はその中から「真逆」という語について掘り下げてみます。本稿の筆者・岩佐の個人的見解が含まれることをご承知おきください。 定着進むが言い換えを推奨 「真逆=まぎゃく」は2004年の新語・流行語大賞にノミネートされたように歴史の浅い語ですが、一気に広まりました。この「質問ことば」のアンケートでも「使う」が18年に55%、23年に58%と過半数です。「定着した」は18年77%、23年83%と、浸透ぶりが表れています。 23年2月のNHK調査で
日経 校閲 @nikkei_kotoba 「もっと軽率に参加したい」 軽率は主に「軽はずみ」ということを表しますが、近年は例文のように「気軽」といった意味で使うこともあります。この使い方を、みなさんはご存じでしたか。 #ことばリサーチ 2023-04-26 12:45:41 日経 校閲 @nikkei_kotoba 日本経済新聞の校閲を担当する総合編集センター校閲グループの公式アカウントです。フォロワーのみなさんと日本語の面白さ、美しさ、奥深さを共有することを目指し、ことばにまつわる校閲記者のつぶやき、アンケート、季語と俳句、故事ことわざなどを日々お送りしています。気に入ったものがあればRTお願いします。 nikkei.com
by Kanijoman 哲学者ヴォルテールが発した言葉として広く知られている「I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it.(私はあなたの意見には反対だが、それを主張する権利は命がけで守る)」という格言はヴォルテールのものではなく、伝記作家のS・G・タレンタイアが書き記したものとされています。なぜ間違った情報が後世に伝えられているのかという謎について、これまでにも著名人の名言の真実を数多く暴いてきたガーソン・オトゥール氏が解説しました。 I Disapprove of What You Say, But I Will Defend to the Death Your Right to Say It – Quote Investigator® https://quotein
Q 「伝統芸能は難しくて敷居が高い」「伝統芸能の敷居を低くして見に行きやすくする」などの表現を使ったところ、おかしいと言われた。どのような問題があるのだろうか。 A 「敷居が高い」は、現代では「気軽には行きにくい」などの意味で使われることが多くなっていますが、伝統的には「不義理・不面目なことなどがあって、その人の家に行きにくい」(『大辞林第3版』)という意味で使われる語です。放送で使う場合には、伝統的な意味と新しい意味とがある語であることを認識したうえで、使う場面を考える必要があります。また、「伝統芸能は、難しそうで見に行くのに勇気がいる」などと言えば「敷居が高い」よりも意味がはっきりします。 一方、「敷居が低い」は新たに使われるようになった語と言えそうです。「伝統芸能の垣根を取り払って見に行きやすくする」などと言いかえるなどの工夫をすると、より適切に、多くの人に伝わりやすくなります。 <
「違和感を感じる」は重言(二重表現)ではありません。 二重表現(重言)の例としてよく挙げられる「馬から落馬する」「頭痛が痛い」などが、「漢字」の重複を含むために「文字」の重複を「二重表現」だと誤解される方が多いのですが、二重表現(重言)とは、「永眠して亡くなる」「女の婦人」のように「意味」が重複する表現のことです。 例に挙げた「馬から落馬」の場合は「落馬」自体に「馬から」という意味が含まれているため、更に「馬から」をつけると二重表現になるという理屈です。 一方で「違和感」は「違和を感じる」という語構造ではありません。つまり「違和感」には「感じる」という内容が含まれておらず「違和感」全体で一つの「感じ」の名称なのです。 例えば「普段着」「かっぽう着」も「普段を着る」「かっぽうを着る」という構造ではなく、どちらも「普段着」「かっぽう着」というひと続きが衣類の名称で、どちらにも「着る」という内容
飯間浩明 @IIMA_Hiroaki 1967年10月21日、香川県高松市生まれ。国語辞典編纂者(出版社社員ではありません)。『三省堂国語辞典』編集委員。著書『日本語はこわくない』PHP、『日本語をもっとつかまえろ!』毎日新聞出版、『知っておくと役立つ 街の変な日本語』朝日新書、『ことばハンター』ポプラ社 他。『気持ちを表すことばの辞典』ナツメ社 も監修。 asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/ 飯間浩明 @IIMA_Hiroaki 「違和感を感じる」は重言だと言って、機械的に「違和感を覚える」に言い換える例が多い。表現の幅を狭めている気がします。「覚える」以外にも「違和感がある」「違和感を持つ」「違和感が生じる」など多彩な表現があるし、そもそも「違和感を感じる」や「歌を歌う」だって使っていいじゃないですか。 2023-02-02 15:07:38 飯間浩明 @IIMA_Hi
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