山中研究室は、光ネットワークに関する研究を行っています。『私はいつも「運・鈍・根」を唱え続けてきた。 運は鈍でなければつかめない。利口ぶってチョコマカすると 運は逃げてしまう。 鈍を守るには根がなければならぬ。』 古河市兵衛 人生の成功には、「運・鈍・根」の3つが必用だと言われます。 「運」については、多分に本人の性格によるものでしょう。 出会いや、人の縁を生かせる人かどうかにもよります。 では、“鈍”とはどういうことでしょうか。 辞書には「感覚や動作がにぶい。のろいこと」そして 「鈍感・鈍根・鈍重・愚鈍」などの漢字が並んでいます。 つまり、成功するためには、頭がよすぎて才走った人ではダメだと 言っているのです。 根”はこの場合には、ものごとに耐える気力・根気・根性のことを 指しています。 哲学者の和辻哲郎は「成長を欲するものは、まず根を 確かにおろさなくてはならぬ」
来期予算とか決算準備とかいろいろあるわけだけど、投資先が株式交換でバイアウトされたので、その流れで大企業さんの経営企画の現場を少し触ったんだ。顧問契約も残っていたし、来いって言うからさ。 最初は和やかだったさ。「山本さんのブログ読んで参考にさせてもらってます」とかリップサービス喰らったり。やっぱりプレゼンや資料作りなんかは惚れ惚れするほど上手い。マーケティングに関する議論とか、商品分野ごとの戦略とか、海外販売拡充のためのロードマップ作りとか。プロだなあと思うよ。 で、本丸の決算に関する議題になって、ちとびっくり。売上的には確かに無視できない大きさになってるけど、経年的なものもあって販売は頭打ちで、利益も随分でなくなったなあというような事業があって。すっぱり止めてしまうか何らか版権でも持ってきててこ入れでもするか、どっちにしても縮小均衡をこのまま続けていっては国内の体制を維持できないよね、と
今週の土曜日にワタクシが学生時代に所属していた組織のディベート大会があり、後輩の指導・試合のジャッジ(判定員)としての活動などで動き回っておるのですが、ディベートのテクニックというか、基礎的な考え方というのは、一般生活でも役立つものが結構あります。今回はそういうものを書いていきたいと思います。 主張には論証で 発言を通して主張する場面があります。会社では「研究開発費にお金を使うべきだ」「新卒採用に力を」といった戦略的なものや、個人的な「本社に転勤させてください」「内勤にしてください」といったもの。あるいは家庭内で親に「車買って」みたいなおねだりや、「カレーライス食べたい」みたいな願望に関する主張。様々な場面があることでしょう。 そういった主張には論証をつけると説得力が増します。 論……論理(Logic:ロジック)話が正しいという筋道 証……証明(Proof:プルーフ)話が正しいという証拠
問答法(もんどうほう、希: διαλεκτική, dialektike, ディアレクティケー; 英: dialectic)とは、古代ギリシアの哲学者ソクラテスが用いた、対話によって相手の矛盾・無知を自覚させつつ、より高次の認識、真理へと導いていく手法を指す。 プラトンにおいては、『パイドロス』等で、弁論術(べんろんじゅつ、レートリケー)と対比的にこれを持ち出すので、弁証術(べんしょうじゅつ)という日本語訳を当てることも多い。また、プラトンが『テアイテトス』にて、こうした問答を通じて相手の知見を向上させていく手法を、産婆術(さんばじゅつ、希: μαιευτική, maieutikē, マイエウティケー)とも表現したため、これも問答法とほぼ同義で用いられたりもする[1]。 なお、弁証法(べんしょうほう)という訳語は、専ら近代におけるヘーゲルやマルクスの文脈において、ドイツ語Dialekti
『加治隆介の議』という漫画の中で,「外交」についてこんなセリフが出てくる。 「外交とは喧嘩ではありません。右手で殴り合っていても,左手は握手しているということが重要です」(原文とは少し違うと思う) 私は,これは外交に限らず,人間関係においてもかなり重要な考え方ではないかと思ってる。特に教授−学習関係においてこの考え方の重要性が浮き彫りになる。日本人は人を褒めるのが下手であるそうだ(http://d.hatena.ne.jp/favre21/20090618#1245293123)。いきおい,日本人の後輩指導は,叱りが中心になる。そこにおいて,後輩が左手での握手を認識できていれば,それほど問題はないが,両手で殴られているという認識に至ってしまうと,悲劇を生みだすことになるだろう。つまり,「この人は自分のためを思って言ってくれている」という感覚と,「この人はただ自分を否定したいだけだ」という感
ポシティブな表現を多く使う社会とネガティブな表現を多く使う社会を考えてください。あなたはどちらに住みたいですか。 「叱るより褒めろ」という話は,こと日本においてはかなり重要だと思うので特に異論はないのですが,最近ゼミの後輩とこの「褒め方」について議論した際,「難しいよねえ」という話になったんです。ただ褒めればいいってもんじゃない。叱ることも時には必要。じゃあどの程度叱り,どの程度褒めるべきか。それが分からないんですよね。 ところで,これを読んでいる皆さんは自分を「叱られてのびるタイプ」だと思いますか?「褒められてのびるタイプ」だと思いますか?これについて,僕と後輩で綺麗に分かれたんですよ。彼は自分を叱られてのびるタイプだと言い,僕は自分は褒められてのびるタイプだと思ってたんですね。で,じゃあなんでお互いがそう思っていたのかについて話し合ってみると,興味深い事実が浮かび上がりました。すなわち
2007年10月20日14:30 カテゴリ書評/画評/品評 まずは議論[に]しよう - 書評 - 議論のルールブック というわけで、早速入手。 初出2007.10.19 追記2007.10.20:新潮社後藤さんより本日献本到着。ありがとうございます。久しぶりにだぶってしまった 議論のルールブック 岩田宗之 たけくまメモ : 『議論のルールブック』が出た!昨年「たけくまメモ」で紹介した、岩田宗之(iwatam)さんの傑作コンテンツ「議論のしかた」が、徹底改稿を経て『議論のルールブック』として新潮社から本になりました!本書「議論のルールブック」は、「Webのロングセラー」、 議論のしかた を大幅加筆訂正して一冊に仕上げたもの。 目次 - 岩田宗之『議論のルールブック』|新潮社より まえがき 議論の破壊者たち 感情論に振り回されない 感情論とは何か / 言葉は伝わらなくて当たり前 / 感情論を避
この記事は何となく8月16日の記事に関連があるつもりで書きました。 エポケーとはなんぞや。 インフォシークの辞書を引用すると以下のようになります。 エポケー [(ギリシヤ) epokh] 〔哲〕〔判断中止の意〕 (1)古代ギリシャの懐疑派の主張する哲学態度。現象に対して一切の断定を留保すること。 (2)フッサールの現象学の基盤をなす方法。純粋な事象そのものへ至るために、素朴な自然的態度を差し控えること。 このエポケーという方法をインターネットでのコミュニケーションのテクニックの一つとして使ったらどうかなと思ったんです。 なんでそんなこと思ったのとか、そこら辺を順を追って書きます。 ぽんすブログというブログで議論のアンチ・パターンなど、議論の方法について一連の記事が書かれています。そこでは議論をするためのルールや心得がまとめられていて、非常に参考になります。そこの記事を読んで何となく、議論以
似非科学、歴史修正主義、差別主義といったダマシの多くに共通する特徴として「間違っている論理展開」と「わら人形論法」が挙げられます。 間違っている論理展開 論理展開には様々な約束事があります。ダマシはその約束事を破ることで己が望む解を導き出します。 間違っている帰納的論理展開 帰納的に解を求めるには「適切な事例の選択」と「因果関係と相関関係を混同しないこと」が必要です。 この約束事を破り、恣意的に事例を選択したり意図的に因果関係と相関関係を混同したりすることによりダマシは思惑にそう解を導き出すことができます。 水関係のトンデモ*1では恣意的な事例選択によりあたかも水が言葉を認識しているかのような解を導き出していますし、植物関係のトンデモ*2では因果関係と相関関係を混同することであたかも植物が会話や音楽を認識しているかのような解を導き出しています。 恣意的に事例を選択すればダマシの思惑通りの「
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