概要[編集] 通称は与六郎、六左衛門、治部左衛門、大炊。前田利家の家臣として仕え、1584年の能登国末森城の戦いでは一番槍の武功を挙げたことから利家の賞賛を受け、富田景政の娘を妻とした。また、景政の嫡男が戦死したため、景政の婿養子となった。 小田原征伐や関ヶ原の戦いにおいても、前田軍の武将として従軍している。これらの戦功から、1万3670石の所領を与えられた。 その後、前田利長が養子(異母弟)の前田利常に家督を譲った頃に重政も長男・重家に家督を譲り、隠居している。しかし利常に従って1614年からの大坂の陣にも参戦し、19人の敵兵の首級を挙げるという武功を立てた。 また1618年には、家督を継いだ長男・重家が24歳の若さで死去している(家督は重政の次男・重康が相続した)。 1625年に死去。享年62。 戦国時代における中条流の剣豪の一人であり、越後守の官位から「名人越後」と称されて恐れられた