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批判と上山和樹に関するlotus3000のブックマーク (2)

  • メタ言説への、解離的な居直り - Freezing Point

    ★雑誌『ビッグイシュー』 第105号 発売中 斎藤環さんと私の往復書簡 「和樹と環のひきこもり社会論」 は、今号で最終回です。 最後は私で、『順応状態の完成より、手続きの整備を』。 支援する側もされる側も、完成された順応状態を想定するのはまずい。 政治的にもまずいが、何より臨床的にまずい。 このポイントに照準し、最後まで全力でお返事を試みています(前号)。 支援する側が、ひきこもる人を「対象」として観察する。 支援される側が自分を “当事者” として、特権を享受しようとする*1。 双方とも、自分の目線や役割をメタに固定しています。 ひきこもる人がひきこもり論をすればするほどしんどくなるのは、こうしたメタ目線を保ったままだからで、支援者たちと同じ病理にはまり込んでいるわけです。 これを状況論として主題化しないと、何が臨床の核であるかが見えてこない。 ポストモダンとは、単にバラバラなのではなく

    メタ言説への、解離的な居直り - Freezing Point
  • 問題化の手続き - Freezing Point

    拙エントリを受けて追加された酒井さんのコメントより: 上山: 「逸脱研究」という問いの作法が先にあって、そこから若者を見ようとする、メタ視点への欲望 ──そうじゃなくて。 ヤンキーたちは「逸脱」してようがそんなに困らないよね?という話でした。 (はてブ) 日の大学進学率は、1990年で25%くらい、2000年で40%くらいであるらしい(Wikipedia:「進学率」)。 「学卒即就職」という「ライフコース」ビジョンは、そのパーセンテージ周辺の人たちにしか関係がない。 たとえば、多くの「ヤンキー」には、こういうビジョンはぜんぜん関係がない。また──ヤンキーではなくても──たとえば高校生活を地方都市でおくった私にとっても、「大学に進むか否か」というのは 明確に「選択の問題」であった。(実際 私自身はかなり悩んだ末に進学を決めた。) (参照) 「そんなの、一部の恵まれた人間の悩みでしかない」と

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