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言葉と民族に関するlotus3000のブックマーク (2)

  • もちつけblog(仮)、、、の跡地(はてなダイアリーに移転。) 斎藤茂吉の「異化」的作歌法と、近代における『万葉集』利用 -品田悦一『斎藤茂吉』を読む-

    品田悦一『斎藤茂吉』を読む。 著者は、『万葉集の発明』を書いた人。 前著もそうだったけど、面白い。 茂吉だけでなく、それ以外の主張も面白い。 気になった所だけ。 茂吉の訛りは酷かった(32頁)。 彼の晩年の歌の朗吟を聞けば分かるが、結構訛っている。 同じく同郷の友人たちの訛りも酷かった。 (「酷かった」という表現は、山の手中心主義な気もするけど。) 彼らは、結果的に文筆に自己表現の道を見出す。 そして、茂吉は「書く人」となった。 (ここら辺の問題意識については、小林敏明『廣松渉』における、廣松の文体と「周縁性」の問題と共に考えられるべきだと思うが、まあ、また今度考えよう。) 茂吉は、朗吟より黙吟の方が効果があると考えた(44頁)。 「肉声の干渉が回避されるという意味ではむしろいっそう純粋に感得できる」というわけだ。 肉声は時に、肉声以外の要素を、殺してしまう。 (黙吟の意義(朗吟への批判)

    lotus3000
    lotus3000 2013/03/05
    和歌と天皇制。日本の場合、民族的紐帯が和歌程度しかなかったというのがなあ。
  • 民族革命党機関紙 : 三島由紀夫の偉大さ

    2010年01月10日20:58 カテゴリ 三島由紀夫の偉大さ 私は文学のことはよく分からないが、三島由紀夫は偉大な男だったと信じる。それは、1970年という時期に日民族の行く末を恐ろしい程に見通しており、民族の堕落、破滅に抵抗すべく決起したからである。三島は次のような言葉を残している。 このままいつたら「日」はなくなつて、その代わり、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気になれなくなってゐるのである 1980年代はまさに、日が、「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国」になった時期であった。 1990年代以降は、「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国」が経済大国の座を喪失して

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