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ブックマーク / blog.livedoor.jp/easter1916 (93)

  • ララビアータ:右派の方への返答 - livedoor Blog(ブログ)

    最近、拙論「井上達夫氏の新著と憲法論」2,015 7・7に対して批判をいただいた。 http://eumajapan.blog.fc2.com/blog-entry-150.html ありがたいことである。これに似た立場の方がほかにも多数いると思うので、いくつかの論点について応答してみよう。 もとより、政治的判断については非常に複雑な多数の要素を考慮したり、前提にせざるを得ないため、数学のような確実性は期し難く、また私自身も経験による免れがたいバイアスもあるだろうため、容易に相手を説得できるとも思わないが、自他ともに対して、ある程度の議論の整理や明晰化には資するかもしれないので、以下ざっくばらんに、またラプソディックに論じてみることにする。 批判者は「国民の生命財産を守る国防をどう構築すべきかが最優先の問題であって、…人権や自由や平和主義を守って国土を侵略され国民が死ねば元も子もない」と論

  • ララビアータ:社会契約とロールズ - livedoor Blog(ブログ)

    社会契約説は、国家を理性のみによって正当化する野心的な試みである。 だが、自然状況でいかにして約束を守ることができるかに答えることは難しい。 理性と恐怖だけを頼りに議論を進めるホッブズの言うように、自然状況が誰から見ても耐え難いとしても、そこで社会契約を結ぶことがどうして可能なのであろうか? それをしも利用して、相手を出し抜こうと考えるのが来「自然状態」なのではないか? ルソーの場合は、少し状況が複雑である。自然状態から始めるのではなく、文明によって堕落した自然から出発するほかない。そこで、不自然なものを取り除くことが必要となる。そのために国家の暴力が必要だろう。 これがルソーのいわば裏の顔である。この点をかぎ取った自由主義者には、それゆえルソーはあまり評判が良くない。 よく読むと、ルソーは一方で人民から理性によって国家を創る道と、他方で、国家が暴力(教育)によって、それにふさわしい人民

    lotus3000
    lotus3000 2017/11/22
    お人好しの罠について。
  • ララビアータ:パリサイびと - livedoor Blog(ブログ)

    パリサイ人とは、ユダヤ教の改革派で、サドカイ人と対立していた。サドカイ人は、ユダヤ社会上層に位置し、ローマ帝国の支配とも妥協する必要上、律法を緩める傾向があった。 そんな彼らに対して、パリサイ人は律法を立て直す改革派として登場した。 イエスは、いずれとも対立していたが、とりわけパリサイ人に対する厳しい批判が福音書には顕著である。 これはやや意外の感がある。腐敗した神殿勢力や、ローマ帝国支配と妥協するサドカイ人に対する道徳的批判を展開するパリサイ人に、どんな落ち度があるというのであろうか? この点を詳しく見るために、田川建三氏のマルコ解釈を参照しよう。 田川氏は、編集史という手法を聖書解釈に導入した。それは、福音書を編集した福音史家の観点を重視し、各福音書の観点の違いを強調する立場である。 それ以前に、様式史研究とか、伝承史研究といった解釈手法が、開発されてきた。 様式史とは、聖書の記事の記

    lotus3000
    lotus3000 2017/11/22
    信仰の自由と思考の自由について
  • ララビアータ:アダムの罪 - livedoor Blog(ブログ)

    『創世記』によれば、神はアダムの前に掟を示し、「善悪を知る木の実をとってべてはならない」と告げたとされる(2・17)。それにもかかわらずアダムは、蛇の誘惑に乗せられたイヴとともにその木の実をべたとされる。誰でも知っている有名な逸話である。キルケゴールも、『不安の概念』においてこの罪へと至る事情を分析しているが、この『創世記』の記述自体は前提されていて、そこに何の疑問も付されていない。 しかし前々から、どうにも腑に落ちない所があると感じてきたので、それについて記しておきたい。 一般的理解によれば、神はあらかじめアダムに何を為してはならないか、何を為してよいかはっきりと示している。それにもかかわらず、アダムはその掟に背いたので罪を犯したのだ、ということになる。しかし、それなら、どうしてこれが「善悪を知る木」と呼ばれるのであろうか?その実をべる前に、アダムは神から善と悪とを知らされているこ

  • ララビアータ:安倍政権が壊そうとしているもの - livedoor Blog(ブログ)

    今般の戦争法案が問題であるのは、それが憲法違反であるというだけではない。もちろんそれも大問題であるが、それは問題のごく一部にすぎない。 安倍政権が集団的自衛権の行使が容認されるための基準としてきた「新三要件」の根幹をなす「存立危機事態」という概念は、通常は主権侵害を意味する。つまり武力攻撃が国土の主権を脅かす事態のことである。これに対して反撃するのは、当然個別的自衛権の範囲である。 しかし、もしこれだけが要件であれば、集団的自衛権の行使は必要ないことになってしまう。そこで、そこに「または、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から脅かされる明白な危険があること」という一文が付け加えられた。 関係国に対する攻撃により(通常の意味での)「存立危機事態」が引き起こされる場合には、武力行使が許されるという意味

  • ララビアータ:井上達夫氏の新著と憲法論 - livedoor Blog(ブログ)

    井上達夫氏から、新著『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(毎日新聞出版)をお送りいただいた。その内容についての評価は、時局がら厳しくならざるを得ない。ここでは厳密な書評というより、時局論として限定的な批評をしたい。事態はそれほど切迫しているからである。それ故、問題を憲法9条の問題に絞って論じることにする。 全体として、政治的センスの欠けた空論という印象である。ひょっとしたら、「リアリティ」に流されて規範的議論に欠けがちな我が国の論争状況において、わざとそうふるまっているのかと錯覚してしまうほどである。 憲法9条についての空論――それはその歴史的沿革を無視して条文だけに拘泥することによる。解釈の対立が生ずる場合、憲法の精神(憲法の政治哲学)に立ち返って、参照することが必要である。 ところが日国憲法の場合、難しい問題がある。一つは戦争放棄であり、もう一つが天皇

  • ララビアータ:「立場主義」と『満洲暴走』 - livedoor Blog(ブログ)

    安冨歩氏の『満洲暴走 隠された構造』(角川新書)を読んだ。 満州と華北など他の中華地域とは、歴史的社会的に異なる構造を持っていた。満洲が清(女真族)の父祖の地であることから、長らく開発を免れた土地であり、清朝末期に急速に開発がすすめられた時、他の地域とは違って、鉄道という近代的装置と、中央の都市の集中的経済構造という特徴を持つことになった。 その結果、広範な新興開発農地は、当初から市場化され、国際市場に向けて作付けされた大豆のモノカルチャーを初めから特徴とする。それによって、満洲の大森林は、たちまち広大な大豆農場に変貌していった。 それに対して、他の地域は伝統的にもっと多様な農業が営まれ、より自給的な経済を営んでおり、それに対応して市場も、地域の定期市が主であり、商人はそれら定期市を経めぐるようにして商取引を行った。このような流通システムでは、どこか特定の中心があるわけではなく、多くの地域

    lotus3000
    lotus3000 2015/07/04
    日本社会の病理である立場主義の分析。これがどちらにもありそうだから厄介だな。
  • ララビアータ:『戦争思想2015』(河出書房新社)の出版 - livedoor Blog(ブログ)

    私を含む14人が論文やエセーを寄せている。 すべてを克明に読んだわけではないが、私の見るところ、加藤直樹氏の「昭和19年を生きる」と椹木野衣氏の「絵画における「近代の超克」と「戦後レジームからの脱却」」に特に感銘を受けた。 両名とも、私がこれまで耳にしたことのない書き手である。 加藤氏は、近年我が国に蔓延している病的な「現実否認」を解明してくれる。 氏はそれを、明治期から戦後に至るまで受け継がれた「進歩」と「立身出世」の観念に求める。 これによって、我々の祖先たちは、アジアの民族主義の意味を理解できず、自己の前に挑戦し立ちふさがる他者を、恐怖の対象にしてしまったと言う。慧眼と言うべし。 椹木(さわらぎ)氏の方は、藤田嗣治や宮三郎らによる戦争中の戦争絵画について書いている。しかもそれを、彼らより一世代若く、戦時中それに強烈なインパクトを受けた少年、成田亨の眼を通して論じている。 成田は、の

  • ララビアータ:三島由紀夫『絹と明察』 - livedoor Blog(ブログ)

    いただいたコメントがきっかけで、『絹と明察』を読んでみた。 今回読んでみて、三島由紀夫の精神構造について気づくことがあったので、記しておきたい。 『絹と明察』は、周知のように1954年の近江絹糸の労働争議に材料をとった一種の経済小説である。会社はすべて家族であるという前時代的家族的経営を信条とする社長の駒沢善次郎のキャラクターが、ユーモラスと言うより辛辣に描き出されている。対するに、政財界にフィクサーとして活躍する知識人岡野。この男は、戦前は「聖戦哲学研究所」という右翼団体の一員であったが、戦後はちゃっかりその人脈を使って、巧みに世の中を泳ぎ渡る人物である。 家族的経営のイデオロギーに染まっていた社員たちは、他社に比べて劣悪な雇用条件にも甘んじているが、ちょっとしたきっかけでストライキに突入していく。岡野が偶然出会った青年工員大槻とその恋人弘子のカップルを、社長の駒沢に紹介する。そこで、社

  • ララビアータ:トクヴィル - livedoor Blog(ブログ)

    前回読んだ時には、アメリカの司法制度と司法エリートの役割に大きな印象を受けたが、分量からするとずいぶん少ないページしか占めていないことがわかる。トクヴィルは、民主主義の下で自由を守るためには、司法権の確立が重要であることを当然に強調するが、とりわけ陪審制の意義について語られたくだりは(第一巻下 第二部第8章邦訳p−182以下)、それを読んで以来、私を一貫して陪審制度支持者にしたほどであった。 陪審制は各人に自分自身の行動に責任を回避せぬ事を教える。これは雄々しい気質でありそれなくして政治的徳性は有り得ない。…自分の仕事とは別の事柄への関与を強いる事で、社会の錆とも言うべき個人的利己主義と闘うのである。(p−188) 最近の司法改革で、我が国もようやく陪審制復活に向ってささやかな一歩を恐る恐る踏み出しつつあるが、それに対してさえ、まことに低次元の批判や躊躇が公然とささやかれている有様である。

  • ララビアータ:戸田山氏『哲学入門』(4)自由 - livedoor Blog(ブログ)

    戸田山氏は決定論の独自ヴァージョンとして、メカニズム決定論という考えを最も妥当らしいものとして提案している。それによれば、宇宙のすべてを決定する決定論は必要ない。むしろ、我々の行動を、環境と我々自身の内部状態とから計算する、一種の計算機と見ることができるのであり、それが言える以上、決定論は十分もっともらしいと考えざるを得ないのである。その上で、「我々が持つに値する自由」をかかる決定論と整合し得るものとして理解することが、戸田山氏の課題となる。 だが、「メカニズム決定論」はそれほどもっともらしい仮説だろうか? 私自身は、あることをなし得る自由があるか否かということを、事前に決定的に証明することができるとは考えていない。だが、それをなし得ない(それをなすことができる自由がない)ことも、事前に証明され得ない場合がある。たとえば、ある問題を解決できるか否か、いずれもそれを実際に解決するに先んじて、

  • ララビアータ:クオリア再論 - livedoor Blog(ブログ)

    感覚質(クオリア)について何度か書いてきた(『読む哲学事典』p−78『古代ギリシアの精神』p−208)。学生の論文でクオリアについて書いたものがあったので、それについてもう一度考えてみた。 クオリアは独立した存在として取り扱えるものか? またその存在は一人称的にのみ規定されるものか? どちらも怪しい。もちろん、クオリアを他の実在(物理的存在)に還元することは難しい。しかし、だからといってそれだけで自立した存在ということにはならない。むしろ、それは意味理解との関係で存在するものではないか? そうであれば、意味解釈との関連で、クオリアが姿を変えてもおかしくはない。 クオリアは、対象を意味によって弁別する時に利用される感覚的情報である。つまり、ある意味理解に基づいて輪郭づけられている対象の弁別のために利用されることによって意識化される情報。たとえば、ある対象は背景や隣の事物から際立てられるために

  • ララビアータ:稲葉振一郎氏への応答 - livedoor Blog(ブログ)

    稲葉さま 貴方のコメントは、貴方ご自身のブログに掲載されたものであり、わたくしへの私信ではなかったと思ひます。それゆゑ、わたくしがそれに応答しなかったことが礼節にもとるものとは思はれません。むしろ、他人のブログに出向いて行って応答を展開するのがご当人に迷惑なのではないかと忖度して遠慮してゐただけです。(もちろん、貴方がわたくしのブログにご訪問くださり、ご批判を頂戴することは、わたくしにとって迷惑などではありません。むしろありがたいことであるのは言ふまでもありません。)ご批判が周到な理解に裏付けられたものであり、応答が実りあるものになりさうな場合は、公開の場で反批判を組み立てるのも面白いかとは思ひますが、あなたのご批判は、もともとわたくしの問題意識を理解もせず、低次元の憶測に基づいてなされてゐるだけですから、応答には値しないと思ってゐたのです。それにもかかはらず、いけしゃあしゃあといっぱしの

  • ララビアータ:松浦寿輝氏の『明治の表象空間』(1)近代日本語と漢学 - livedoor Blog(ブログ)

    手に取りて巻置く能わざる経験――しかるに、また同時に、すんなりと読み飛ばすことを禁じ、そのつど思考を強制するが如き、また誘発するが如き、観念の聳立蟠踞に目のすくむ思いをしながら、しばし書物から目をそらし嘆息・黙考する――そんな不思議な経験を久しぶりにした。 ある個所に差し掛かるや、疑念百出して、反論勃と立ち上がるのだが、次のページを繰ると、まさにその疑問を著者自身堂々と提起し、応えようとしている。我々はさながら、著者の掌中におちこちと迷い、自ら道を切り開かんとするに、実はすでにそれが先取りされていて、孫悟空がお釈迦様の掌の内を動くが如し、というわけだ。 文学、歴史、思想史など確かな教養に裏付けられた論述は骨太であり、横断的に走る洞察には思いがけない発見が満ちていて読者をひきつける。しかもそれが、今どき珍しいおよそお子様向きでない堅固な石材のような文体で、過不足なく積み上げられてゆくのであ

  • ララビアータ:死者に鞭うて - livedoor Blog(ブログ)

    理化学研究所の笹井芳樹副センター長が自殺した。 小保方氏の「研究成果」が公表されたとき、事情にうとい私は、大方の人と同じようにうれしく頼もしく感じたものである。とはいえ、数々の疑惑が持ち上がり、4月9日の小保方氏自身による弁明の記者会見を見たとき、私は彼女の卑怯千万・愚劣極まりない泣き落とし戦術に唖然とし、この人物がまったく信用のおけない嘘つき常習者に違いないと確信するに至った。このような犯罪者的性格類型に属する人物が、まんまと世界の学界をだまし、我が国の権威ある学者をたぶらかしてきたことに驚くとともに、我が国の精神的頽落もいよいよ来る所まで来た、という感を強くしたものである。 このたび、小保方氏とともに偽装論文事件の最も重要な中心人物である笹井氏が、自分の疑惑に頬かむりをしたまま、まともな弁明もできず、また責任を全うするための詳細の事実解明も行わないままで自殺したことを見て、心底うんざり

  • ララビアータ:快楽と苦痛 - livedoor Blog(ブログ)

    快楽とは、決して砂糖菓子のようなものではない。むしろ、虫に刺された所をかきむしるようなものだ。我慢がならず掻いてしまうが、それによって余計苦痛が増す。そのうち、掻きむしることが心地よいのか、痛いのかも、わからなくなるまでになる。苦しみそのものが快楽と一体化してしまうのだ。 初めはかゆみを止めようとしていたのに、今や進んで苦しみを求める。ついには、それなしには生きる気もしないくらいに、それこそが生きる意味であり、目的であるかのように、それに固執するのである。 仏教的に見れば、これほどの迷妄はない。この、麻薬にのめり込むような激しい愛着こそ、すべての苦悩の種なのだ。それをきれいさっぱり抜け出さねばならないと説く。 だが、このような解脱、このような悟りへの執着こそ、より高次のかきむしりだとしたら、かかる教えこそは、迷妄の中の迷妄であることにならないだろうか? はじめから中途で引き返すような人は、

  • ララビアータ:W杯日本代表の惨敗 - livedoor Blog(ブログ)

    今般のワールドカップの行方や日本代表の惨敗について、多くの人が語っているし、今後も長く語り続けられるだろう。私自身としては、今回の大会について比較的関心が持てなかったこともあり、逐一の試合について見ていないので、あまり言うべきことがない。 以前は、この欄で、しばしばサッカーとその文化について取り上げたことがある。2005年5月22日「バルセロナの華」、6月11日「W杯サッカー」、8月8日「中村俊輔選手の活躍」、12月1日「紙吹雪」、2010年6月26日「チョン・テセよ胸を張れ!」、2011年6月18日「アジアカップ、シリア戦」、など。こう見ると、サッカーの話が多いことに、我ながら驚く。ある時点まで、私はサッカーのサポータの文化の中に、我が国の中に久しく欠けていた自由な横のつながりの萌芽を見出して、それに大きな期待をかけていたのである。拙著『正義の哲学』(河出書房新社)では、「サッカーのサポ

  • ララビアータ:在日朝鮮人の参政権 - livedoor Blog(ブログ)

    尊敬すべき名うての右派の論客で、法哲学者の旧友S氏を信州に誘って、久しぶりにじっくり議論する機会があった。いくつか意見の一致する点もあったが(たとえば、品の賞味期限偽造などで、大騒ぎする事もあるまいとか)、もちろん多くの点で意見がい違うのは当然のこと。 なかでも、「在日外国人の参政権」をめぐって議論する事になり、自分の考えを反省する機会を得た。私は、以前から在日外国人の参政権を認めたほうがいいと考えているのである。この際、1)議論を在日朝鮮人に限る事にしよう。また、2)朝鮮が、我が国と我が国の市民に対して、拉致事件を初めとする敵対的策謀を行ってきたこと。3)朝鮮総連が、「反日活動」の拠点としての役割を果たしてきたこと。これらを所与の事としよう。(朝鮮総連の方には、ご不満があるかもしれないが、今は彼らを説得する事が問題ではないから、こう仮定するのである) 在日朝鮮人に選挙権を認めることは

    lotus3000
    lotus3000 2014/07/16
    発掘エントリ
  • ララビアータ:安倍首相の反愛国的行動 - livedoor Blog(ブログ)

    [我が国の生きる道] 靖国神社を現職総理が参拝した。この問題について、多くの人々が大きな錯覚をしていると感じているので、その点について以前にもしてきた議論をここで確認しておきたい。 靖国神社が、単なる戦争犠牲者の慰霊施設でないことは言うまでもない。そんな事は安倍を取り巻く連中にとっても自明のことであろう。むしろ、それを十分に心得たうえで、政治的スケジュールにおいているのである。彼の政治的スケジュールは、一貫して戦後レジームを根底的に変える方向を目指してきた。それは、ポツダム宣言に基礎を置き、ニュルンベルク裁判と東京裁判によって示された安全保障体制と国際法秩序の破壊を意味する。 我が国は、無謀な戦争を仕掛けた上、ついに自己のイニシアティヴのもとに収拾することさえできないまま、ポツダム宣言を受諾せざるを得なかった。ポツダム宣言受諾は、明治憲法において主権者とされた天皇自身の決断の結果であり、こ

  • ララビアータ:水村美苗氏の洞察 - livedoor Blog(ブログ)

    山形新聞のコラム「ことばの杜」へ寄稿 「女は何よりまず、男が「女は何をのぞんでいるか」という問いを問うてくれるのをのぞんでいる」    水村美苗 最近離婚を経験した友人と話していたら、「家にはただ安らぎの場を求めていたのに、はそれを与えてくれなかった」と言う。このとき思い出したのが、この水村氏の言葉だ。ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』の解説(河出文庫版)にある。 この小説は十九世紀英国の典型的女流小説で、すべては若い女の幸せな結婚をめぐっている。何の欠点もない高貴な身分のダーシー卿のプロポーズを、主人公リジーが拒絶する所から、物語は動き始める。水村氏によれば、ダーシー卿こそ理想の結婚相手だ。それは、リジーに拒絶された後、彼が真剣に「女は何を望んでいるのか」と問い続けるからである。女の欲望は「女にとっても自明ではない」。しかしともかく女は「自分が何を望んでいるのかを問うてもらうこと」