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ブックマーク / kaoriha.org (4)

  • 中里一日記: 人は読まない、人は学ばない、人は変わらない

    人は読まない、人は学ばない、人は変わらない このところ辛いことが続いて、さすがの私もぐったりしている。外聞がよくてわかりやすい件だけ言うと、交通事故に遭って全治6か月、左腕がまったく上がらないし、普通のベッドに横たわると自分ひとりでは起き上がれない。 そんなわけで、『兵士シュヴェイクの冒険』を日々読み返しては心を慰めている。私もシュヴェイクのような謙虚な人間になりたい。ああいう謙虚な人間なら、今の私のこの状況も、赤子のような澄んだ目でやりすごせるだろう。自分がどちらかといえばヘロストラトスの側の人間である――「どちらかといえば」どころか「どこからどう見ても」と言うべきか――ことはよくわかっているのだが。 このぐったりした気分にふさわしく、今日は恐ろしく無駄なことを書こうと思う。私はどうやってもシュヴェイクにはなれないのだから。 昔、男の子がいた。大きくなったら「偉大な」作家になりたいという

  • 中里一日記: 革命後の世界を求めて

    革命後の世界を求めて 赤松啓介『非常民の民俗境界』(明石書店)を読んだ。 分類としては一応、民俗学の研究書になるかもしれない。祭祀・差別・性・階級などさまざまなテーマを扱っている。しかし結論や概要のある論文ではなく、書自体が民俗のありようを証言する一次史料となっている。 著者は、戦前の加古川流域(兵庫県)で行商・共産系の社会運動・民俗学の調査の3つを同時に行ってしていたという人物で、社会生活のドブの底に浸かって活動した過去にふさわしく、いかがわしく迫力のある読み物になっている。書の記述がどこまで事実を反映しているかというと疑問符がつくが、いかがわしさを含めつつ書き記す著者の態度には、見るべき真実がある。 書を読んで、私はぐったりと疲れた。書の調査対象となった農村の内輪ぶりに打ちのめされた。 「内輪」とは、たとえば書247~248ページ: そこでよくいわれるのは、若衆仲間の目的・役

    lotus3000
    lotus3000 2011/09/02
  • 中里一日記: 検閲済みの表の言論 vs 野放しの地下の言論

    検閲済みの表の言論 vs 野放しの地下の言論 ロバート・ダーントン『革命前夜の地下出版』(岩波書店)を読んだ。フランス革命への道は地下出版が舗装した、という話である。 アンシャン・レジームのもとでは出版は、政府の検閲を経てギルド的な組織により印刷・流通される「表」の出版と、そうした表の機構の外にある地下出版に分かれていた。 このような二分割体制のもとでは、地下出版は体制憎悪の培養器になる。「表」で既得権益にありつけなかった連中が地下出版に集まり、アンシャン・レジームの既得権益を満喫している連中を攻撃するからだ。 政府が地下出版への締め付けを強めると、体制への攻撃はいっそう激しくなる。なぜなら締め付けが緩いうちは、地下出版といっても海賊版などのローリスク・ローリターンな商売が多くを占める。締め付けが強まると、地下出版業者はハイリスク・ハイリターンの領域へと追いやられ、真正面から体制を攻撃する

    lotus3000
    lotus3000 2009/12/16
    二百数十年前の2ちゃんねる
  • 中里一日記: 「僕の考えた女の子」を想定してしまう人々

    「僕の考えた女の子」を想定してしまう人々 参考:僕の考えた超人 「僕の考えた女の子」を想定してしまう人々がいる――と書いただけですでに出オチだが強引に続けてみる。 このフレーズで重要なのは、「僕」のところだ。「俺」でも「私」でもない「僕」である。「自分のことを僕と言っていいのは大山のぶ代のドラえもんだけだ」という天下の大暴言に深く共感する私にいわせれば、「僕」という一人称には深い意味がこもっている。 「俺の考えた女の子」の「俺」は、タフな感じがする。「お前はバカか」とあきれてみせれば、「俺の考えた女の子」はあっさりと修正されるだろう。いや、修正させる必要もない。放っておいて、事実とぶつからせてやればいい。「俺」はそういう荒っぽい扱われ方を必要とする。 「私の考えた女の子」の「私」には、オープンな姿勢を感じる。「それはちがう」と指摘すれば、それがもっともらしい指摘なら――この「もっともらしさ

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