タグ

ブックマーク / www.fragment-group.com (4)

  • 政治と文学、国家の安全保障 :: ex-signe ::

    文学と政治の関係はどのようなものだろうか。かつて、文学を政治的なものから切り離そうとする運動があった。というよりもむしろ、そのことだけが、文学という運動だったといってもいい。 こうした運動は、元来は文学と政治とが、いずれも《言葉》をあつかうという点で、同一の《武器》を用いているという当然の認識から出ている。それはいうまでもないことだった。混じりけのない言葉の活動であるべき文学のなかに、政治はたえず侵入する機会をうかがっている。侵入を可能にするのは、次の言葉の定義である。すなわち、意味を共有したひとびとのあいだで用いられる社会的なもの。この定義が発動するたびに、政治はまんまと文学に忍び込む。つまり現実にはひとの命を奪うことさえある言葉という《武器》を、ルールを共有した者たちで行なわれるゲームの《道具》にみせかけてしまうわけである。われわれが握っているのは武器ではなく道具だと教え込むことで、革

    lotus3000
    lotus3000 2011/12/05
    ”事故が起こらないのを前提に原子力発電所を推進することと、戦争が起こらないのを前提に平和主義を貫くことは似ている。”
  • 星座の貌をした歴史学 :: ex-signe ::

  • 安全から安心へ、あるいは恐怖による統治について :: ex-signe ::

    事故とはなにか。 来、事故は持続的に起こるものではない。点で生じる。仮に持続したとしても、持続をもって事故とは質的に考えない。しかしその反対の安全は、持続的でなければ意味がない。ある瞬間に安全でも、次の瞬間に死ぬ可能性があるなら、それは安全とはいわない。危険である。だが、この持続の範囲は決まっていない。この範囲を決めるのはじつは同じ対象について起こる事故である。したがって、すこし視界を広げると、安全と事故とはいつも隣り合わせになっている。すなわち、事故の可能性がある場所でしか、安全は問題化されない。安全、危険、事故。この奇怪なトライアングルのなかで安全神話が形成される。それは文字通り、現実をもとにしているというより信じる類いのものである。実際には、安全かどうかは、事故が起こるまでわからない。事故のないあいだは、安全が持続することを信じるしかないし、危険な状態と完全に区別することは不可能

    lotus3000
    lotus3000 2011/05/24
  • アーレントとデリダ :: ex-signe ::

    歴史家であるハンナ・アーレントの概念に、「忘却の穴」がある。ユダヤ人を焼き尽くしただけでなく、焼け残った髪や骨までも消し去ろうとしたナチスの行為は、民族そのものの存在の記憶――痕跡――すら抹消しようとしたのであり、これをアーレントは「忘却の穴」と呼んだのである。こうした概念の批判対象は、もちろん、ホロコーストの歴史を抹消しようとする西欧の歴史修正主義者の議論である。ホロコーストを連合軍の捏造に仕立て上げ、その記憶を忘却の穴に投げ捨てようとする歴史修正主義者の行為は、その点で、ナチスが行なったホロコーストと同断の非道なのである。 存在のみならず、その《記憶痕跡》をも抹消する「忘却の穴」を、アーレントは恐れ、そして批判したが、わたしは、この概念について、彼女とは違った印象をもっている。というのも、おそらく、彼女の「忘却の穴」への恐怖には、歴史家の傲慢、あるいは歴史的に思考しがちなアカデミシャン

  • 1