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ブックマーク / bunchu.hatenadiary.org (8)

  • 徴兵制云々 - 虚舟庵雑録

    どこぞのポピュリスト知事が 思い付きで徴兵制について発言したところ、 あたかも燎原の火の如く、 瞬く間にネットと各メディアに 反発と軽蔑を撒き散らされた。 その場のノリでこのような発言をするのは、 確かに言語道断ではあるのだが、 必ずしも非現実的な話という訳でもない。 平等主義の観点から、 http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50959485.html 小飼弾氏がやや肯定的に論じておられる位で、 いわゆるリアリストを自任する人々や あるいは軍事に関心を持つ人々は、 専ら徴兵制は非現実的と断じておられる。 http://d.hatena.ne.jp/welldefined/20071129/1196346529 『東瀛倭族拝天朝』というブログで 「徴兵は時代遅れか」と題した論考が 読まれているエントリの中では ほとんど例外的に徴兵制も“現実的に

    徴兵制云々 - 虚舟庵雑録
  • 歴史と文学についての覚書 - 虚舟庵雑録

    ●誤解への弁明 「人間は事実を前にすると、きまってその真相を求めることよりも、理由を求めることに没頭するようである。事物をほったらかして原因を論じることに没頭するようである」(――モンテーニュ『エセー』) 思想史的な話を敷衍し過ぎたために、かえって要らぬ誤解を与えてしまったようだ。ここは一旦、歴史の話から我輩が来意図した論旨(――筆が及ばなかった我輩の自業自得なのだが)に立ち返って説明したいと思う。少々不恰好だが、先に結論を述べておく。つまるところ、「歴史に理性(意志、法則)は貫徹されない」(――なお、我輩は純粋な意味での「能」は動物においてすら存在しないと考えている。それは自然に貫徹される意志があるなどと考える様なものである)のであって、ヘーゲルとその亜流のマルクスのような歴史を「自由なる絶対精神の自己実現過程」(ヘーゲル)と見るのは全くナンセンスであるし、ヘーゲルよりは遥かに控えめ

    歴史と文学についての覚書 - 虚舟庵雑録
    lotus3000
    lotus3000 2012/01/15
  • 日本近代史についての雑多な覚書 - 虚舟庵雑録

    の「反知性主義」というものがあるとするならば、それはやはり明治時代から考えなければならないと思うが、福田恒存の評論あたりで大体片が付くような気がする。誰しもが俗物なのだと書いた「俗物論」(全集の「覚書 一」で川端康成もやはり芸術家という名の俗物に過ぎなかったなどとも書いている)、日の文学に個人主義は定着せず、気分的信仰のあるところで近代文学(救いを求めるのが宗教であり、文学はそうではない)なんて成立しないよと書いた「個人主義からの逃避」、日人の考え方の基調は論理とか倫理ではなくて、美的潔癖症なのだと書いた「日および日人」、「日人の思想的態度」。近代論の「近代の宿命」とそれをベースに西尾幹二氏が代筆したらしい「反近代の思想」なんかも知識人論として面白い。これに『教養主義の没落』などの竹内洋先生、ベストセラーを面白い視点で読み解いた斎藤美奈子先生の『趣味読書。』を合わせたら、面

    日本近代史についての雑多な覚書 - 虚舟庵雑録
  • ナチズムとナショナリズムに関する覚書 - 虚舟庵雑録

    ●但し書き 少々必要とする資料、参考書を読むのに時間が掛かりそうなので、とりあえず漸化式に覚書を残し、それを後々、『浩瀚堂』の方で綺麗にまとめた形でアップしたい。ちょうど世界連邦とナショナリズムの話とも繋がるので、カント以来の普遍史的な世界観との連関を示しつつ叙述出来れば良いのだが、如何せん大き過ぎて手がまわらないかもしれない。 東浩紀氏と『極東ブログ』の執筆子の終風(雅号に付き敬称略、以下同)がナチズム(その臨界点としてのアウシュヴィッツ)とナショナリズムの解釈を巡って、小さな論争*1が起こり、主にはてなダイアラーの間で話題になった*2。我輩個人は後者の考えに近いが、すべてにおいて同意するという訳ではなく、むしろ見解の異なる点も多いのだが、さしあたって明らかに間違いが多いと判断しうる東氏の見解についていくつか反駁と疑問を呈したい。 ●文学愛好家と歴史愛好家の憂 http://d.hat

    ナチズムとナショナリズムに関する覚書 - 虚舟庵雑録
    lotus3000
    lotus3000 2012/01/13
    世俗化した教会としてのナショナリズム。神なき世俗の中で、倫理の担い手としての党。
  • 「ユダヤ」と「人種」 - 虚舟庵雑録

    「イスラエルで『建国根拠なし』、ベストセラーに」 なにやらブクマで話題になっているようなのだが、今更何を騒いでいるのだろうというような話である。この程度のことならベストセラーになった田川建三先生の『書物としての新約聖書』に書いてあることだ。 この種の問題は、「ユダヤ人」の改宗ハザール人説起源云々以前に、「ディアスポラ」に対する誤解からきているのではないかと思われる。「ディアスポラ」は「離散した」だけでなく、「離散している」、つまり、イスラエルを離れて海外居住しているユダヤ人を指す場合もあり、ローマ帝国によってエルサレムから追放される以前に、多くのユダヤ人が交易商人として帝国各地に「離散していた」。 当時の商人コミュニティの二大勢力となっていたのが、海洋民族ギリシア人と信仰を媒介としたユダヤ人のコミュニティである。前者がいわゆるヘレネスとバルバロイという差別的な人種観によって閉鎖されたコミ

    「ユダヤ」と「人種」 - 虚舟庵雑録
    lotus3000
    lotus3000 2012/01/13
  • デモクラシーとその歴史に関する思索と覚書 - 虚舟庵雑録

    記録的なものを淡々と記していれば、その内また長い物を書く気力がわくと思っていたが、時間が経つのは早いもので、カレンダーの空白が長引いてしまった。書き掛けで放置された没エントリの山を築いては、それを崩すように書いてきたので、その内、まとめて更新できるはず。 さて、「デモクラシー」についてである。この不思議な言葉は他の多くの概念を貪欲に包摂してきたが、それ故にそれ自体がかえって捉え難いものになってしまった。「『タメグチ』的ガバナンスの歴史」(http://www.tez.com/blog/archives/001301.html)というエントリを、はてなブックマークのお気に入り経由で知ったので、これに関して歴史的な見地からのツッコミを入れつつ、叙述してみたい。 情報処理の話は無知故によく分からないのだが、歴史政治に関しては、我輩のような読書家レベルの知識でも明らかにその間違いを指摘できる。ま

    デモクラシーとその歴史に関する思索と覚書 - 虚舟庵雑録
  • 「反知性主義について」(改題) - 虚舟庵雑録

    何か最近、他人の揚げ足を取るようなことばかり書いているような気がしなくもないが、コメント欄がなくて、ブックマークのコメンターたちの指摘もないようなので、修正を促したいので書くのだが、『海難記』というブログの「ニッポンの反知性主義」において、『アメリカの反知性主義』の著者がマルクス主義史家の泰斗E・ホブズボームになっている。正しくはリチャード・ホーフスタッター(――ホーフシュタッターとか色々表記の違いはあるが)である。 それで中身の方もなのだが、アメリカの「反知性主義」という言葉は、かなり特殊なアメリカ史の文脈から捉えないといけないので、他に適用することは難しいのではないかと思う。今年惜しくも亡くなられた斎藤眞先生の『アメリカとは何か』(平凡社ライブラリー)に収録されている「二人の知識人――アメリカ反知性主義の文脈」(――19世紀のヘンリー・アダムズと20世紀のC・ライト・ミルズを対比させて

    「反知性主義について」(改題) - 虚舟庵雑録
  • 国制に関する思想について - 虚舟庵雑録

    気が付くと前回エントリから一週間以上経っていて、そろそろ四番目を更新せんといかんなあと思いつつ、中々考えがまとまらないでいる。書きながら考えるために、このブログがあるわけだが、読み返してみると、まあ、何と言うか、つまみい的なものをあっちこっちに撒き散らしただけという感がなきにしもあらず。読書によって思考を固めると、自分が凝縮させているのか、単に中毒に陥っているのか分からなくなる時がある。 この点、我輩はハイエクの設計主義的設計主義という捉え方をあまり好ましいものだとは思わない。啓蒙主義は設計主義的である点に問題があったのではなく、“先行する何か”に対して無自覚あったという点に問題を見出すからである。ハイエクの自生的秩序にしても、ヒュームの習慣的黙諾にしても、あるいはバークの時効の国体にしても、むしろ社会契約論以上に歴史的事実に立脚している。それらでは、権力や政府の契機性や正当性を説明した

    国制に関する思想について - 虚舟庵雑録
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