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ブックマーク / www.warewaredan.com (5)

  • 野間易通 徹底批判

    はじめに 野間易通は2015年現在の日の社会運動シーンにおける最重要の人物の1人である。 一時は首相官邸を毎週数万人で包囲した「首都圏反原発連合」の中心メンバーの1人であり、2013年1月に野間を代表として発足した「レイシストをしばき隊」(現「C.R.A.C.」)の活動は、それまで数年にわたって全国各地の路上をいわゆるヘイトスピーチで制圧していたと云っても過言ではない在特会(「在日特権を許さない市民の会」)と初めて互角以上に渡り合った。 野間のリベラル派としての立場は、ラジカル派である私のそれとは最終的には相容れないものだし、細々した部分から根的な部分まで多くの批判を持ちつつも、それを全面的に展開することは控え、たまに言及する際にはむしろなるべく好意的であるよう心がけてきたつもりだ。 ある時期から、野間が突然、ツイッターなどで私に対する揶揄的やがて批判的言及を断続的・間歇的に繰り返すよ

    lotus3000
    lotus3000 2015/07/16
    終わりに書かれていることは重要。たぶんこの問題は今後残る。
  • 「子どもの権利条約」批准に反対する

    で「子どもの権利条約」に関する議論が登場するのは、ほぼ9割方、いわゆる「管理教育」や校則の問題を扱った文脈においてである。よってぼくもこの文章の中では、そういった問題に限定して(つまり難民の問題や戦争孤児その他の問題はとりあえずおいといて)話を進めたい。 中学校の3年間、2度の転校を含む高校の2年間、そして高校を中退してから現在までの3年間、合計して8年間にわたって、ぼくは学校の管理、あるいは学校制度そのものを問題として個人的に活動を続けているが、その経験から率直に云わせてもらえば、こと「管理教育」および校則などの問題を解決する手段としては、「子どもの権利条約」は必要ない。必要ないどころか、日で「子どもの権利条約」批准の運動をすること自体が、「子どもの権利条約」の精神に反するという大きな矛盾を生むことになると考える。 理由はとりあえず単純明快である。 現在、「生徒」と規定されている日

  • 全共闘に、そしてファシズムに学べ

    つまらない時代だと思う。もちろんいつだって「つまらない時代」なんだが、その「つまらなさ」を突破しようと試みるさまざまの模索それ自体が、これほどまでに総じてつまらない、最悪の「つまらない時代」も珍しいんじゃなかろうか。 その理由は私の中ではハッキリしていて、結局、全共闘を直視する者がほとんどいないから、ということに尽きる。 読む気はあるんだが値段が高すぎてなかなか購入するフンギリがつかずまだ読んでないんだが、それなりに評判となっている(た?)小熊英二の大著『1968』も、小熊の政治的スタンスからしてむしろその読者を全共闘から遠ざける効果をしか持っていないだろうし、またそうであるからこそ広く読まれるのだということぐらいは、読まなくても分かる。 よく目撃するのは、「全共闘なんてしょせん……」と知りもしないくせに全共闘を批判するその批判の内容が、実は全共闘が当時の既成左翼に対しておこなっていた批判

  • 私は“右傾化する若者たち”の味方である

    読者諸君! 私が外山恒一である。 このような新雑誌をついつい手にとってしまう諸君がよもや私を知らないなんてことはあるまいが、念のために第1回目の今回は軽く自己紹介でもしておこう。「ネットで検索してくれ」の一言で済ますこともできるのだが、私はそもそもネットが嫌いだし、むしろネットと疎遠な諸君にこそ私の言葉を届けたいとも思うからだ。 おそらく先日の東京都知事選で初めて私のことを知ったという諸君が大半だろう。しかし私はもうかれこれ20年近い活動歴を持つ歴戦の革命家だ。 私は現在36歳で、1970年の生まれだからつまり自分の10代と1980年代とがピッタリと重なっている。私がこの世界にデビューしたのはその80年代の後半、つまり10代の後半のことだ。 若い諸君はどうも誤解している場合が多いようで、私もよくそうした諸君と話していて戸惑うのだが、80年代はまだ「冷戦」の真っ最中で、世界はソ連を中心とする

    lotus3000
    lotus3000 2010/08/21
    外山恒一の左翼への絶望。
  • 一人戦後史 ここまでのおさらい

    一人で、戦後史をなぞってきた。自分の思想の変遷をふりかえって、そう思う。 政治的に目覚めたのは、高校時代だった。 当時、推理作家をめざしていて、へタクソな創作活動にうちこんでいた。森村誠一や小松左京のを読んで、やっぱり作家たるもの、政治や社会のこと、よく知らなければいけないんだな、と思って「ニュース・ステーション」を毎晩欠かさず見るようになった。国会中継を録画予約して、学校から戻ると見るような、考えてみればヘンな高校生だった。 当時、売上税や防衛費の対GNP比一%枠突破問題がさかんに論議されている頃で、ある日、日共産党のビラと出会った。それで共産党の支持者になって、何度か地元の共産党議員事務所を訪ねていった。民青に誘われたこともあるが、「過激派」かもしれないと誤解して断わった。 それから学校内でいろいろと政治的発言をくりかえすようになった。ホーム・ルーム委員だったぼくは、その時間をまる

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