楠本いねは文政三年、オランダ東インド会社の商館医のドイツ人フィリップ・シーボルトと楠本瀧との間に生まれた。一説によるとシーボルトが来日早々、長崎奉行所の計らいで出島の外の蘭学医・楢林家に出張し日本人の診察、治療を行った。そこへ今小町と噂されるほどの美人が診察を受けに来てシーボルトと恋に落ちたという。その美人は薩摩藩御用達の服部という商家に小間使いとして働いていた十七歳の楠本瀧である。瀧とシーボルトは日本人の一般女性は出島に入れないので、丸山の遊郭「引田屋」の引田卯太郎に相談し遊女「其扇」(そのぎ)という名義を借りて出島に入り、シーボルトと暮らした。イネが生まれて二年後にシーボルト事件で日本を永久追放されてしまう。(シーボルトが5年間の任期を終え一旦帰国する際、乗った船が台風で座礁し持ち出し禁止の地図や葵の紋入りの着物などが見つかり取調べを受けた)シーボルトは残された瀧とイネを思い、弟子の二