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ブックマーク / tatsumi-kyotaro.hatenablog.com (13)

  • 科学主義と科学信仰の現代 - 京太郎のブログ

    1.「科学」の幻想 2.「科学」は面倒な議論を単純化できる。 3.自分を合理的な人間だと思いたい人達 4.「配慮」と「共感」の現代 4.崩壊する民主主義 【参考文献】 1.「科学」の幻想 「科学」という言葉は、かなり安易に使われている。 「科学的」であるということはそれだけで偉いことのように言われ、「科学的ではない」という言葉はかなり批判的に使われている。(「文学」や「哲学」ではこうはいかない。「文学的」「哲学的」という言葉は「しゃれてる」「なんか小難しい」くらいの意味で使われがちだ) 問題は「科学」を正しさを証明してくれるものとして盲信する態度が人々の内にあることだ。 実際、「科学」が何なのかを説明できずとも、とにかく「科学的」であることは重要であるということを言う人も多い。しかしそれは詭弁ではないかという話を前回記事では説明した。 「科学」とは何かについては過去説明した通りだが、やはり

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  • 恋愛工学は科学的な宗教か、宗教的な科学か - 京太郎のブログ

    0.「科学的」とは何か 1.恋愛工学概要 2.Google検索される「科学」 3.科学と「科学」 3.恋愛工学という宗教 4.「科学」の宗教性、宗教の「科学」性 0.「科学的」とは何か 近代以降、科学によって多くのことが証明されてきた。 科学によって説明が可能になったものは数多くある。生活に役立つ多くの技術も科学の進歩があってこそである。 そうした現実と歴史を前に、人びとはことあるごとに科学の進歩や成果を歓迎し、「科学的根拠のないもの」「科学的でないもの」には厳しい態度で接するようになった。それと同時並行する形で「科学は使える」「科学は実践的だ」という謳い文句と「文系廃止論」とが叫ばれるようになった。 しかし、こうした「使える科学」と「使えない文系学問」の対比は何かを見失っていないだろうか。「科学は使える」と言いながら「科学」を信奉する態度は当に科学的態度と言えるのだろうか。今回の記事で

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  • 暴力の記憶を語ることの難しさ~『君は永遠にそいつらより若い』~ - 京太郎のブログ

    はじめに 1.「当事者」として語ることの困難 2.ホリガイ(堀貝)と対比的な二人の人物 2.1ホリガイとカバキ(河北) 2.2ホリガイ(堀貝)とイノギ(猪乃木) 3.「君は永遠にそいつらより若い」 3.1【補足】 4.【関連図書】 はじめに 今回は、どうしようもないコミュニケーションの困難について書かれているある小説について紹介したい。 今回紹介したいのは芥川賞作家津村記久子の『君は永遠にそいつらより若い』である。最近読んだの中でかなり印象に残ったで、映画化もするようなのでこの記事を書くに至った(映画版とは解釈が異なると思うが.......)。 君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫) 作者:津村 記久子 発売日: 2009/05/11 メディア: 文庫 1.「当事者」として語ることの困難 『君は永遠にそいつらより若い』は、自分が受けた暴力の体験を語ることの難しさや苦悩と、その傷と共

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    lotus3000 2021/06/06
  • モラハラ夫と「優しい支配」~信頼が消える日~ - 京太郎のブログ

    1.モラルハラスメントとモラハラ擁護論 前回の記事では、恋愛関係のトラブルにおいては「同意の有無」「合意形成の過程」より「悪気があったのか」「どのような意図だったのか」という点ばかりに焦点が当てられてしまうことを警戒すべきだと書いた。 tatsumi-kyotaro.hatenablog.com そしてまさに、そうした思考の誘導によって寧ろ加害者側が同情されてしまう例、被害者側の被害が矮小化されてしまう身近な例としてモラルハラスメントを取り上げたい。 凶悪な事件ではなく、モラルハラスメントという卑近な例を「優しい支配」という観点から問題を見ていく。 そうすることで、モラルハラスメントが「比較的軽微な加害だから」という理由で擁護されてしまうのはなぜかという問題について書くこともできるだろう。 そして、最後には同意のない「優しい支配」の関係に陥らない為に必要な信頼と信頼関係について語ることにし

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    lotus3000 2021/02/24
     優しい支配、安定性を求めることが棄損するものについて。
  • 恋愛ができない非モテのこじらせはなぜ辛いのか? - 京太郎のブログ

    0.前置き 1.恋愛ができないことの辛さとは何か。 2.「お金で買えないかけがえのない価値」とは何か。 3.解決手段としての恋愛 4.生きづらさのありか。 5.今回の内容に関連する参考書籍 0.前置き ※今回は書いていて色々と思うところがあったためです・ます調で書いてます。 1.恋愛ができないことの辛さとは何か。 恋愛についての悩みは古今東西問わずある程度の人に共通する悩みと言えるでしょう。 想いの人と結ばれない悲恋の物語は古典から存在します。 しかし、恋愛ができないことや「非モテ」であることが問題であるように語られるのはある程度時代が進んでからでしょう。 中には恋愛ができないことで人生のほとんどの意味を失っているよう語る人もいるのではないでしょうか。今この文章を読んでいる人の中にも恋愛ができないことに悩んだりする人もいるでしょうし、たとえ自分がそうでなくても身の回りで恋愛ができないことで

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    lotus3000 2020/12/02
    いろいろ応用が効きそうな論理。素晴らしい。
  • シーライオニングとネット論客の詭弁術 - 京太郎のブログ

    1.シーライオニングとは何か? 2.ネット論客のシーライオニング 3.悪質なシーライオニングの問題点。 3.1 追記 4.【関連記事&参考文献】 1.シーライオニングとは何か? 嫌われる行為の一つとしてシーライオニングというものがよく話題に挙がる。しかしこのシーライオニング、実は単に嫌われるというだけでなく様々な問題を含んでいるのではないだろうか。 今回は、シーライオニングとは何かという話と悪質なシーライオニングが蔓延することの問題点について考えていきたい。 まず、シーライオニング(sealioning)とはウェブ漫画家David Malki !の描いた漫画から派生して生まれた概念である(URL: https://wondermark.com/1k62/ )。 簡単に言うとシーライオニングとは、上の漫画のアシカ(シーライオン)がやっているようなことである。 漫画の内容としては、左上から ①

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  • ネット論客論法解説~記者会見化するネットの議論~ - 京太郎のブログ

    1.ネット論客の質問術 2.質問戦術は少数対多数の構図を生み出す。 3.議論ゲームの不公平。 1.ネット論客の質問術 前回の記事では、ネット上でまともな議論を行っても周りからは「一般人からの共感を得られない議論」「内輪向けで独善的議論」として扱われてしまう現象について説明した。 tatsumi-kyotaro.hatenablog.com それを避ける為には、公正な議論とは呼べないような議論ゲームをしなければならない。前回、議論ゲームにおいては、議論は無限に後退すると書いた。今回は、より詳細に、もし議論ゲームに参加すればどうなるのかについて説明を加えたい。 まず、前回のおさらいとして、議論ゲームにおいては、議論の前提と目的は共有されない。これは、議論において問いを設定する質問者側のみが自由に論点を設定する事ができる状況を生み出してしまう。 例えば「どうすれば差別はなくなるのか」というテーマ

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    lotus3000 2020/07/14
  • 公共空間の消失とアイデンティティの時代を生きる - 京太郎のブログ

    0.なぜいま公共について考えるのか なぜ今公共概念を問う必要があるのかと言えば、公共という概念が消失しているということを通して「左翼と右翼の対立」を問い直す必要があるからだ。 私がこれから言及するリベラリズムという概念は一般に膾炙している「リベラリズム」とは少しずれた意味で使われているということである。というのも、一般的にリベラルという言葉は、かなり曖昧に、時に左翼という概念と混同されて語られているのである。政治学的な意味でのリベラリズムは、そうした一般的によく使われる「リベラリズム」とは少し違うのであるが、「左翼と右翼の対立」という図式が「リベラリズム」を左翼の類似物として同じ枠組みに入れてしまうのである。 よって、私がこれから一見してリベラルに対して批判的な見解を展開したとしてもそれはインターネットにいる知識人もどきの「リベラリスト批判」にそのまま接続するわけではないというわけではない

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    lotus3000 2019/11/25
  • 自己責任論と共感性 - 京太郎のブログ

    1.「優しい」自己責任論 2.寄付の物語 3.物語とナショナリズム 1.「優しい」自己責任論 現在の世論の中には、貧困問題や性被害の問題などは個人が解決すべき問題であるから社会全体の問題にするべきではないとするような自己責任論が存在している。 例えば、2000年代においては生活保護受給者に激しいバッシングが寄せられ、税金制度は実質罰金制度であるという論調が盛んであった。貧困を抱える連中は、貧困を避けられたはずなのに何もしなかったのが悪いのであって社会が生活保護などの社会保障を提供するという特別扱いをするべきではないという論理が広がっていた。 そうした論理の前提にあるのは、危険やリスクは事前に予測することが可能なのだから自分で対処すべきものだという考えである。障碍者が生まれながら抱えるハンデキャップも、貧困家庭の環境も、周囲の人間関係も自分で対処可能であるし対処できて当然だとする考えのことで

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    lotus3000
    lotus3000 2019/11/25
    これはスターリン主義の普遍性と現実の問題の冷淡性とも絡んでいるのだろうなあ。
  • 被害者叩き、弱者叩き、自己責任論を批判する~公正世界仮説とは何か~ - 京太郎のブログ

    1.公正な世界を求める人ほど弱者や被害者を責める 2.被害者叩き、弱者叩きの典型 3.当に人は公正な世界を望むのか? 4. 公正世界仮説(公正世界信念)のやっかいさ 1.公正な世界を求める人ほど弱者や被害者を責める 弱者や被害者は救済されるべきかという問いを立てるなら、善意を持った多くの人がそうあるのが望ましいと答えるだろう。 議論となるのは、それがどのような方法によってなされるべきか、どのような人間が弱者・被害者と言えるのかという部分だろう。 しかし、現代社会では何かの事件の被害者を責める被害者叩きや社会的弱者を責める弱者叩きが後を絶たない。 被害者叩きや弱者叩きに対して「思いやりがない」とか「冷酷だ」という批判がされる事がある。 しかしそれは果たして有効な批判なのだろうか。私は疑問を感じる。 現代における被害者・弱者救済についての議論は、単純な悪意と善意の対立構図ではないのではないか

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    lotus3000
    lotus3000 2019/06/05
    公平世界仮説の厄介さと難しさ。
  • 社会を変えるために必要なこと - 京太郎のブログ

    1.これまでのあらすじ 2.健全な議論による社会の変革に期待すべきか 3.これからの論点について 1.これまでのあらすじ ネットでは基的に、議論は議論ゲームへと変更されるように力が働く。それは、社会的弱者や、マイノリティの主張を相対化し弱める力である。 つまり、議論ゲームでは弱者やマイノリティの意見は取るに足らないものとして力を削がれてしまうというのがこれまでの主旨であった(前回までの記事↓) tatsumi-kyotaro.hatenablog.com tatsumi-kyotaro.hatenablog.com tatsumi-kyotaro.hatenablog.com tatsumi-kyotaro.hatenablog.com この様な議論ゲームの力の働き、力場を利用し、自分達に優位になるように議論ゲームを展開することにある種の卑劣さを感じる人も多いことだろう。事実、ネットの議

    社会を変えるために必要なこと - 京太郎のブログ
  • ネットで議論をしない方がいい理由 - 京太郎のブログ

    0.はじめに 1.インターネットでは価値観が同じ人同士が集まりやすい 2.理想的議論とネットでの「議論」の違い 3.ネットでの「議論」 【次回記事&関連記事】 【雑なネットの議論の論点を整理した記事】 【参考文献】 0.はじめに 今回の記事は、ネットで行われている「議論」の現状に対する違和感を私なりにまとめる事を目的としている。ネットの「議論」のいくつかは、話が噛み合うことのないまま、お互いがそれぞれ勝手に「勝利宣言」をして終了することがままある。 それにもかかわらず、ネットの「議論」は、現実の人間関係から解放された公正な議論であるという意見が散見される(「現実では言いにくいい事もネットなら言える」「現実ではタブーな話題にも、ネットなら切り込める」という意見を見たことはないだろうか)。 私は、この手の意見に賛成できない。 これは勿論外野から見た時の意見で、実際にその「議論」に参加したのなら

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  • 議論ゲームにおいて、問題提起側は無視されれば終わりである。- 巽京太郎のブログ

    0.議論ゲームという地獄~前回記事参照~ 1.「常識を疑え」という標語の危うさ 2.無視するという戦術 0.議論ゲームという地獄~前回記事参照~ 前回までの記事では、ネットの議論は公正な議論というよりも、社会的弱者・マイノリティ側が圧倒的に不利な議論ゲームになってしまう事について説明した。社会的弱者、マイノリティ側で議論を行おうとすると、どのような選択をしても地獄が待ち受けているという構造が存在する。 tatsumi-kyotaro.hatenablog.com tatsumi-kyotaro.hatenablog.com 今回の記事は、圧倒的不利な状況でもなんとか善戦する方法はないか、という疑問からスタートしよう。 前回までの議論ゲームの構造の説明を受けて、いくつか対抗策を思いついた人がいるかもしれない。 たとえば、議論ゲームで質問者側に立てばいいというものだ。前回の記事では、議論ゲーム

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