タグ

日本と歴史に関するsotokichiのブックマーク (100)

  • 細菌戦「731部隊」の新資料発見 「ないはず」の戦後公文書 細菌生産を明記|社会|地域のニュース|京都新聞

    第2次世界大戦中に細菌戦の準備を進めた旧関東軍防疫給水部(731部隊)について、戦後に日政府が作成した公文書が6日までに、発見された。京都帝大などから派遣された医師らが人体実験を行ったとされる731部隊について、政府はこれまで国会で政府内に「活動詳細の資料は見当たらない」と答弁をしており、発見した西山勝夫滋賀医大名誉教授は「まだまだ731部隊に関係する資料が埋もれている可能性がある」と話している。 発見された公文書は戦後5年目の1950年9月に厚生省(現・厚生労働省)復員局留守業務第三課が作成した「資料通…

    細菌戦「731部隊」の新資料発見 「ないはず」の戦後公文書 細菌生産を明記|社会|地域のニュース|京都新聞
    sotokichi
    sotokichi 2020/02/07
    公文書隠蔽は日本の伝統だったのか。安倍政権はまさに日本をトリモロしてたワケか。
  • 「この戦争は間違ってます」とか「日本はいずれ負けます」とかしたり顔でホザいた予知能力者は実在する - 山下泰平の趣味の方法

    戦争を扱ったフィクションで、たまにこの戦争は負けるッ!!みたいなオッさんが出てくる。彼らのような人間は実在してて、元気一杯生きていた。断じて空想上の存在ではない。 記録として残っている日負ける実在するキャラとして、超有名なのが山下清である。山下清は貼絵画家で、今では知らない人が多いんろうけど、かっては裸の大将放浪記というタイトルでドラマ化されていたほどの人物だ。 裸の大将放浪記 山下清物語 [DVD] 出版社/メーカー: 角川映画発売日: 2008/11/21メディア: DVD クリック: 17回この商品を含むブログを見る 山下清は超リアリストの上に、全く雰囲気が読めない。日が負ける理由は、道具が悪いのと国が狭いのと数カ国相手に戦争するからといった単純明快なもの、確かに正しいんだけど雰囲気読めよなっていう感じなのだが、清は子供の頃から一貫して日戦争に負けると言い張り続けて、幾度も殴ら

    「この戦争は間違ってます」とか「日本はいずれ負けます」とかしたり顔でホザいた予知能力者は実在する - 山下泰平の趣味の方法
  • 「特攻を美化してはだめ」 元隊員ら、戦争知らない若者に警鐘

    茨城県鹿嶋市の旧大日帝国海軍基地のそばの公園に展示されている旧日軍の特攻機「桜花」のレプリカ(2014年8月7日撮影)。(c)AFP/TOSHIFUMI KITAMURA 【8月15日 AFP】神風特攻隊の元パイロット、カンベ・ユタカさん(91)は、70年近く前に死んでいるはずだった。 第2次世界大戦(World War II)末期、勝利への執ようなねばりをみせる日を特徴付けた自殺攻撃。死んでいった数千人の隊員と同じ運命からカンベさんを救ったのは、1945年8月15日の日の降伏だった。 だが歳を重ね、再び死を身近に感じるようになったカンベさんは、安倍晋三(Shinzo Abe)政権下での政治の右傾化や、神風特攻隊を美化する最近の映画が、日の若い世代から戦争の恐ろしさが失われたことを示しているのではないかと不安を感じている。 「あれはやっぱり正気の沙汰ではない。美化することなんて賛

    「特攻を美化してはだめ」 元隊員ら、戦争知らない若者に警鐘
  • 【太平洋戦争】日本の無条件降伏反対派による蜂起事件 - 歴ログ -世界史専門ブログ-

    徹底抗戦派によるクーデター・蜂起・騒乱事件 1945年8月15日に日はポツダム宣言を受け入れて無条件降伏し、天皇陛下による玉音放送によってその事実は戦闘中の軍人及び民間人に広く伝達されました。 大部分の人はそれを受け入れたようですが、中には「降伏はありえない」としてあくまで徹底抗戦を主張する人もいました。 「日男児たるもの最後の一兵になるまで戦うべし」などと教え続けてきたから、気でそう考えるやつが出てきても無理はありません。 8月15日近辺で起きた、降伏反対派による事件をピックアップします。 1. 西部軍による九州独立構想 九州を独立させ徹底抗戦をする構想 西部軍は連合軍の日土侵攻に備え、中国・四国・九州を統括するために設置された陸軍の組織で、昭和20年九州全域の地上作戦を任務とする「第16方面軍」、警備や補給、地方機関との連携を任務とする「西部軍管区」に分けられました。 8月1

    【太平洋戦争】日本の無条件降伏反対派による蜂起事件 - 歴ログ -世界史専門ブログ-
  • 失われた自信、自賛で穴埋め 「日本スゴイ」海外とズレ:朝日新聞デジタル

    平成とは 第2部:国のかたち(5)日の自画像 昭和から平成にかけて日の自己イメージを形作ったのは、「外からの視線」だったのではないか。 東の国、日の経済成長を見習え。ルックイースト政策を唱えたマレーシア元首相のマハティールは92歳になった今も、日を語る言葉が熱を帯びる。 「日人は恥ずかしいことをしたらハラキリをするでしょう。だから自動車づくりも竹細工のように正確で完璧だし、勤勉で地位を乱用することもない」 1981年の首相就任時から日の労働倫理や企業への忠誠心をたたえた。このルックイーストは、同じ頃に出版された米国人学者による「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とともに、むしろ日で評判となる。 海外からの称賛と羨望(せんぼう)のまなざしは「大国」に手が届きそうな日の自尊心をくすぐった。平成が始まる前、1人当たり国内総生産(GDP)で米国を抜き、その自負は現実となった。 だが、そ

    失われた自信、自賛で穴埋め 「日本スゴイ」海外とズレ:朝日新聞デジタル
  • 10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか(大前 治) @gendai_biz

    頻発する空襲を経てもなお「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」と言い続けた日政府(前回記事を参照)。この方針は、一挙に大規模となった東京大空襲の被害を目の当たりにしても、変更されなかった。 一度始まった政府方針は、簡単には修正されない。それでも、当時の政府方針に立ち向かおうとした議員がいた。その渾身の言葉に耳を傾けて、いま私たちはどう生きるべきか考える糧にしたい。 10万人が死亡しても「空襲を恐れるな」 1945年(昭和20年)3月10日の深夜0時08分、約300機のB29爆撃機が東京上空に飛来し、約2時間で33万発以上の焼夷弾を投下した。「東京大空襲」である。 現在の江東区・墨田区・台東区を中心に、千代田区や江戸川区も含む広範囲が焼け野原となった。一夜で10万人が死亡し、罹災家屋は27万戸にのぼった。 この大惨事を受けて、さすがの日政府も「逃げずに火を消せ」の方針を変更するかと思いきや

    10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか(大前 治) @gendai_biz
  • 「スパイを防ぎたければ、真の日本人になれ」戦中に政府が広めた思想(辻田 真佐憲) @gendai_biz

    国際政治学者・三浦瑠麗氏の「スリーパーセル」発言で、工作員やスパイの存在や活動に注目が集まっている。いい機会なので、今回は戦中の「防諜」キャンペーンを振り返ってみたい。 防諜は「敵の諜報活動を防ぐ」という意味だが、当時のそれは「スパイに警戒せよ」や「秘密を漏らすな」にはじまり、次第により広い内容を指し示すようになった。 結論からいえば、戦中の防諜は、最終的に「真の日人ならば不平不満をいわないはずだ。それともお前はスパイか?」と脅しつけ、国民に無限の服従を求めるマジックワードとなりはてたのである。 防諜キャンペーンは穏やかにはじまった なぜ、防諜はそんなことばに変化してしまったのだろうか。 歴史は、1937年7月の日中戦争の勃発にさかのぼる。これを受けて、翌月「軍機保護法」が全面改正され(10月施行)、防諜が盛んに唱えられるようになった。 それまでの防諜は、おもに官憲が行うものだった。だが

    「スパイを防ぎたければ、真の日本人になれ」戦中に政府が広めた思想(辻田 真佐憲) @gendai_biz
    sotokichi
    sotokichi 2018/03/03
    “戦中の防諜は、最終的に「真の日本人ならば不平不満をいわないはずだ。それともお前はスパイか?」と脅しつけ、国民に無限の服従を求めるマジックワードとなりはてたのである”
  • 日本軍による占領がフィリピン社会に与えた根深い問題 - 歴ログ -世界史専門ブログ-

    悪い意味で何も変えなかった日軍のフィリピン占領 太平洋戦争とその影響が語られる時、日の社会や政治体制、人々の心の面がどう変わったか、あるいは変わっていないか、という面にフォーカスが当たる傾向が多いように思います。 それはそれで大事なのですが、日がおっぱじめた戦争が、他の国々にどれくらい大きな影響を与えたかという視点で語られることはあまり無いように思います。 あっても、「アジア解放に多大な貢献した」とか「住民を殺したり強姦しまくった」みたいな物事を単純化した見方ばかりです。 さて、日軍のフィリピン占領は、実際のところフィリピン社会の土台を揺るがすような変化を何も起こすことはありませんでした。一方で戦後フィリピンの国の選択肢を狭め、国の有り様を決定づける結果になりました。 1. 仮想敵国・日 フィリピンは1901年からアメリカの植民地になっており、当然アメリカの影響力が最も大きかった

    日本軍による占領がフィリピン社会に与えた根深い問題 - 歴ログ -世界史専門ブログ-
  • 「日本はナショナリズムから卒業した」思想史家が語る明治150年 - Yahoo!ニュース

    明治元(1868)年から150年。政府をはじめ、各所で「明治維新150年」を祝う行事が企画されている。武家による幕藩体制だった時代からの転換。あの明治維新とは何だったのか。また、あの時代から見て、現代とはどのような時代なのか。来日外国人の書籍の丹念な研究からあの時代の日を描き、ロングセラーとなった『逝きし世の面影』。著者の思想史家・渡辺京二氏が、あの時代といまを振り返った。(ノンフィクションライター・三宅玲子/Yahoo!ニュース 特集編集部)

    「日本はナショナリズムから卒業した」思想史家が語る明治150年 - Yahoo!ニュース
  • 日本史の幕末が分かりづらいのは「悪の江戸幕府を正義の薩長が倒した話」と考えてしまうから?

    白蔵 盈太/Nirone @「討ち入りたくない内蔵助」「あの日、松の廊下で」発売中 @Via_Nirone7 歴史もので幕末っていつも人気が高いけど、なんか分かりづらいんだよなーと昔から思っていて、その理由は「悪の江戸幕府を正義の薩長が倒した話」と捉えてしまうと全く意味不明になるからだと思う。私は少なくとも高校受験の時点ではこの画像のような誤ったストーリーで理解していました。 pic.twitter.com/wxl1pekhYL 2018-01-13 22:00:28 白蔵 盈太/Nirone @「討ち入りたくない内蔵助」「あの日、松の廊下で」発売中 @Via_Nirone7 吉田松陰が歴史教科書から外れるって少し前に話題になってたけど、私は正直それはアリだと思ってる。むしろなぜ下関戦争と薩英戦争をあっさり流すかなと。この二つの戦争で薩長が考えを変えなかったら明治維新も無く日は列強の植民

    日本史の幕末が分かりづらいのは「悪の江戸幕府を正義の薩長が倒した話」と考えてしまうから?
  • 昭和天皇は、本当はどの時点で「終戦」を意識していたのか(栗原 俊雄) @gendai_biz

    今から72年前、1945年8月15日。昭和天皇の「玉音放送」によって、国民は戦争が終わったことを知った。すでに310万もの日人が戦火に倒れていた。もしも戦争が続き米軍を中心とする連合国軍の土上陸が実現していたら、被害はさらに広がっただろう。 ソ連が北海道に上陸して南下していたら、日ドイツや朝鮮のように、民族同胞が分裂する状態となっていただろう。昭和20年夏の敗戦は、こうした最悪の悲劇を逃れる決定であった。 その決定が、昭和天皇による「聖断」によって実現したことはよく知られている。一方、より長い時間軸で敗戦までの過程をながめると、この「聖断」の意味が立体的に見えてくる。今回は『昭和天皇実録』などから、「聖断」の意味を考えてみたい。 ポツダム宣言「黙殺」が生んだ悲劇 まず連合国軍による降伏勧告、「ポツダム宣言」(以下「宣言」)から8月15日までの大まかな流れをみておこう。 同宣言は19

    昭和天皇は、本当はどの時点で「終戦」を意識していたのか(栗原 俊雄) @gendai_biz
  • 文集は捏造、撮影前に目薬… 「誉れの子」いまの思いは:朝日新聞デジタル

    兵の父親が戦死したことで「誉れの子」と呼ばれた子どもたちがいた。全国各地で選抜され、東京・九段の靖国神社に参拝。「父との対面」は美談に仕立てられ、戦意高揚に利用された。戦後72年。普通に悲しむことを許されなかった遺児たちはいま、何を思うのか。(木村司、岩崎生之助) ◇ 丸刈り頭の少年が、口を一文字に結んでいる。ほおには一筋の「涙」が光る。 写真の少年は、小学5年の八巻春夫君。1938年、父が中国で戦死した。 父が祀(まつ)られた靖国神社参拝のため41年3月、日兵の遺児代表として上京。皇后陛下から菓子を受け取った。その瞬間をとらえた写真は、内閣の情報局が発行した国策グラフ誌「写真週報」の表紙を飾り、「誉れの子」の象徴的存在になった。 それから70年余り。少年は87歳になり、山梨県南アルプス市で暮らしている。 「お菓子をもらったときはなんとも言われない、感無量で、当に涙が出ました。でも

    文集は捏造、撮影前に目薬… 「誉れの子」いまの思いは:朝日新聞デジタル
    sotokichi
    sotokichi 2017/08/16
    日本はかつて、北朝鮮だった。
  • あの戦争に「負けたけど勝ったんだ論」の罪深さ(古谷経衡) - エキスパート - Yahoo!ニュース

    ・「負けたけど勝ったんだ論」とは何か 8月15日。72年目の敗戦の日である。戦後の右派、保守派を「支える」あの戦争に対する戦争観の主流に「負けたけど勝ったんだ論」というのがある。これは私が勝手に名付けたものだが、要するにこの「論」とは次のようなものだ。 「太平洋戦争(右派は大東亜戦争と呼ぶ)は、軍事的にはアメリカに敗北した。が、アジア解放という戦争大義は正しいものであり、実際に戦後、欧米の植民地であったアジア各国の独立の切っ掛けを作ったのは日だったのである。よって日戦争には敗れたが、結果的には戦争目的を達成したのだから、これは戦争に勝利したと同じなのである」 というものである。繰り返すように私はこれを「負けたけど勝ったんだ論」と呼ぶ。この理屈は、90年代後半に大ベストセラーになった小林よしのり氏の『戦争論』にも通底して色濃く反映され、その後のネット右翼の世界観にも大きな影響を与えてい

    あの戦争に「負けたけど勝ったんだ論」の罪深さ(古谷経衡) - エキスパート - Yahoo!ニュース
  • 【終戦の日】「日本が失敗するパターン」とは 歴史家・磯田道史さんと近現代史をひも解く

    ハフポスト日版ニュースエディター 特集「#だからひとりが好き」ディレクター News Editor, HuffPost Japan

    【終戦の日】「日本が失敗するパターン」とは 歴史家・磯田道史さんと近現代史をひも解く
  • News Up 若きBC級戦犯 知られざる心境 | NHKニュース

    資料を残したのは、終戦直前の昭和20年8月10日ごろ、福岡市郊外で、捕虜のアメリカ兵の虐待に加わったとして、横浜裁判でBC級戦犯として裁かれた元学徒の大槻隆さんです。 大槻さんは立命館大学の学生でしたが、昭和18年の学徒出陣で軍に入り、福岡城に置かれた西部軍の司令部に配属され、事件に関与することになりました。そして戦後は、A級戦犯も収監されていた東京の巣鴨プリズンの独房で、約1年半、判決を待つ日々を過ごしました。 獄中で書かれた手記には、上官の命令で虐待に加担したことを悔やむ気持ちが歌でつづられています。 「思ふとも敗けし哀れさ身に沁みて涙にじみぬ護送車のなか」 「あきらめどなほ口惜しき我なれや命令なくばかくなきものを」 「六十路なる母に告げたし我が心不孝の罪を許されよとぞ」 大槻さんの長女の番匠ますみさんは、小学生のころ、父が問わず語りに話した内容を覚えていました。そのなかで、当時のこと

    News Up 若きBC級戦犯 知られざる心境 | NHKニュース
  • オラ、美しい日本の歴史にワクワクすっぞ!

    富永恭次陸軍中将フィリピンで陸軍の航空特攻を指揮。マッカーサー軍が迫ってくると、司令部の許可なしに側近と芸者とウィスキー瓶のみを載せて台湾に逃亡。天寿を全うする。 菅原道大陸軍中将陸軍特攻の中心だった第六航空軍の司令官。10代の少年を特攻隊を次々を送り出し、エンジン不調などで戻ってくると「卑怯者!俺も後で行く!」と殴り倒した。 敗戦で部下が自決をすすめたが「死ぬのだけが責任を取る事ではない」と逃げ回り、96歳で天寿を全うした。 倉澤清忠陸軍少佐菅原道大の部下で第六航空軍の参謀。特攻隊を次々と送り出し、機体不良で戻ってきた搭乗員を監禁して毎日毎日 「死ねないようないくじなしは特攻隊の面汚しだ。国賊だ!」と罵り殴りまくった。悔しさのあまり自殺したものもいる。 戦後は元特攻隊員の復讐を恐れてピストルを持ち歩き、寝る時は枕元に日刀を置いて寝た。天寿を全うする。 玉井浅一海軍大佐フィリピンで特攻隊

    オラ、美しい日本の歴史にワクワクすっぞ!
  • 作家・池澤夏樹氏が危惧「筋交いがない日本という家は潰れる」|注目の人 直撃インタビュー

    「日の三権分立は死にかけている」と朝日新聞のコラムで書いた。実際、憲法判断を放棄している司法、さながら大政翼賛会と化している立法府。民意は無視され、憲法破壊が公然と進んでいるのだから、ひどいものだ。沖縄や憲法問題に真っ向から取り組んできた作家・池澤夏樹氏に、安倍政権の危うさと日の行く末を聞いてみた。 ――安倍政権が言う積極的平和主義って、何だと思われますか? 戦争主義ですよ。つまり戦力を誇示し、威嚇と恫喝によって周囲を黙らせることでしょう。 ――しかし、多くの日人はいまだに安倍政権の勇ましさを支持しているように見えます。日人って、そういう民族なんでしょうか? 実は3.11の東日大震災をきっかけに日という国、日人に大きな関心が湧いてきたんです。1年ほど東北に通って、惨憺たる場所を見たり、時にはボランティアの手伝いをして、国土について調べ、日人はどうしてこんなところで生活してき

    作家・池澤夏樹氏が危惧「筋交いがない日本という家は潰れる」|注目の人 直撃インタビュー
  • ニロにゃんとあきにゃんの神道研究会 – 神道が日本全域へ浸透するように

    神道が日全域へ浸透するように Uncategorized Hello world!Welcome to WordPress. This is your first 続きを読む… 投稿者:admin 投稿日時:2年前

  • 第3回 覚せい剤の乱用文化は日本起源だった

    さんが所属する国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所は、研究所とはいえ、病院も併設しており、松さんは臨床の仕事をしつつ、治療プログラムの開発と普及を行う立場だ。 治療対象は、もちろん、流行り廃りはありつつも、覚せい剤依存が一番大きなものだという。お話を伺った2017年2月末の時点では、7割方が覚せい剤とのことだった。 ここまで乱用される覚せい剤には、どんな背景があるのだろうか。 「実は、覚せい剤、つまりアッパー系の元気が出るいけない薬物は、ほとんど日独自の乱用文化だったんです。1800年代の終わりに東京帝国大学の薬学部の教授が、喘息の薬として開発したものですし、戦前ではうつ病の治療なんかにも使われていました。第二次世界大戦中には、軍需工場で夜通し働かせたり、神風特攻隊の人たちがそれをキメて突っ込んでいったり、軍需品として使われました。戦争が終わってその軍需品が放出される中で、

    第3回 覚せい剤の乱用文化は日本起源だった
  • 日本軍の最高幹部たちが考えていた「本土決戦」とはどのようなものだったのか?

    6月23日、沖縄の組織的な戦闘が終結。大営が、いや日が何を考えたかというと、「土決戦」です。沖縄は「土」じゃないんですね。とうとう米軍が日土」に攻めてくる、その時に政府、軍の首脳がどう考えていたのか。むろん、勝てっこないことはまともに考えればすぐに分かることです。

    日本軍の最高幹部たちが考えていた「本土決戦」とはどのようなものだったのか?
    sotokichi
    sotokichi 2017/04/10
    日本の偉い人たちの精神性…。今も大差ないのでは?